最近身近でよく見かける生き物

9月に入り、夜はやっと30℃を下回るような気候になってきました。

東京、神奈川では、蝉の声も一気に少なくなりました。ただ、日中は相変わらずの暑さです。熱中症には注意したいところです。あと、コロナにも。。。

ところで、最近、家でも、会社でも、よく見かける生き物がいるので、今日はそれを紹介したいと思います。まずは写真から、、、

この写真は、先週の夜8:00に仕事を終えて退社するときに、会社の壁に貼り付いていた奴です。私が子供の頃からしばしば目にしてきたトカゲよりはプックリしている奴です。こいつが、会社の広い壁に結構へばりついていたのです。因みに、私の自宅でもこの小さい奴がたまに出没します。。。

調べると、これは「日本ヤモリ」という日本原生種だそうです。北海道と九州の一部を除いて国内に広く生息している生き物だそうです。でも、こんなに沢山いるとは思いませんでした。。。それよりもなによりも、三十数年生きてきて、こんな身近に、こんな生物がいることに気が付かなかったことに、とても驚かされました。精神状態や意識が少しだけ変わったのだろうか。。。

話は少し変わりますが、ヤモリは、漢字で書くと「家守」だそうです。

古来より、火事などの厄災を防ぐ、つまり家を守ってくれる存在として崇められてきた生き物だそうです。また、家を守る、つまり、家を繁栄させるという解釈から、財運や良縁、子孫繁栄の吉兆を示す生き物としてやはり大切にされてきたそうです。さらに、家の内外にいる蟻や蜘蛛、ダニ、コバエなど野害虫を食べてくれるので、とても良い奴だそうです。ということで、最近のこの発見を吉兆として、これから起こることを楽しみたいと思います🤗

都内にもいたるところに出没するそうなので、皆さんも夜、塀や壁をよーーーく見てみてください。きっと、体長10cm前後の日本ヤモリが、壁にピトンッ!と貼り付いているのに気が付くと思います!

ではでは!

記憶をしやすくするちょっとした工夫

以前からこのブログでは、記憶についてしばしば呟いている。

以前、記憶とは、「記憶する物事に対する感覚・感情・印象のことである」と私見を述べた。従って、日頃から感性を豊かにしたり、瞑想をして感情の制御を柔軟にできるようにすることで、記憶力が向上すると述べてきた。

さて、今回は、最近気が付いた、記憶がしやすくなるちょっとした工夫について紹介する。それは、

「対象を大きく捉える」ということである。例えば、ここに体長1mと、体長0.1mmのゴキブリがいたとする。どちらのゴキブリに、より注目できるであろうか??当然、1mのゴキブリの方であろう。そして、一発で、この出来事は記憶に深く刻まれることであろう。。。

覚えたい対象を大きく捉えることは、そのものへの注意を促すことを意味する。

逆に、小さく捉えることは、そのものへの注意を散漫にすることを意味すると私は思う。

というのも、小さく捉えることは、「視野角で捉えた像の中から必要な情報を選別する作業が、より必要となる行い」であると思うからである。例え、真っ白な紙に、黒のインクで小さな文字を書いたとしても、脳内では、「その広大な空白を意味のない情報であると選別する作業」を無意識に行っているのである。

今後、何かノートにメモを取るときは、できるだけ大きな文字で書くことを推奨したい。

また、ノートがなくても見た物をより強く記憶したければ、対象を脳内のイメージであらん限り大きくし、印象を強くするなどをすると良いと思う。( もっとも、これは昔からよく言われている記憶術ですが… )

【本日の動画】

何気ない自然の風景でも、目立つものは大きな物体です。覚えたい物を目立たせる工夫をして、仕事や勉強を効率的にやっていきたいですね!

工業デザイナーについて

企業が新製品発表会を開くと、その場には役員、企画者、そして工業デザイナーが出席し、製品の素晴らしさを雄弁に語る。

後日、Wikipediaなどの情報サイトで、その製品の記事をみると、開発者のところに主任工業デザイナーの名前が記されることが多い。

正直、機構設計者として働いてきた私としては、こうった扱いを目の当たりにする度に、残念な気持ちでならない。優秀なエンジニアが日本企業を見限って去っていくのも納得である。なぜなら、だれよりも、その製品のことをはじめから真剣に考え、何千回もテストし、苦しんで生み出した製品を、、そのお披露目の場で企画者と工業デザイナーに手柄を全て持っていかれるからである。せめて、自分たちを鼓舞し、監督をした設計部長と設計主任が出席し、一言述べてもらわなければ納得いかないと思う。。

ところで、日本の多くの工業デザイナーがどういった仕事をしているのかを、簡単に述べる。

今日の彼らは、反感覚悟であえて一言でいえば、「芸術家」である。現状、機構設計者としての私から見た彼らは、「自分(たち)の中に独自にモチーフを定め、その特徴を新製品に反映させる」ことをやっているだけの人である。「工業」という肩書を持っていながら、物の作られ方、強度、製品に求められている事項、及びその優先度を理解していない人が大多数である。今まで公私問わず出会ってきた工業デザイナーは20人近くいるが、1人の方を除いて皆、芸術家に過ぎなかった。某車メーカーの有名な車種の主任デザイナーと胸を張っていた方々も、その車の設計概念、想定顧客を理解されていないようであった。具体例を挙げると、ある人などは、「俺が学生時代に作ろうと思った形を具現化させたんだ!設計部の連中が空力抵抗とか、予算内で製造できないとか、法律とか言っていたが、引かなかったね。だって、俺らデザイナーが首を縦にふらなきゃ製品Goされないんだから。」 などと言う始末。これが異常であることは、最早説明をする必要はないであろう。

本来、工業デザイナーとは、機構設計者などが、製品に求められる在り方( 顧客、機能、強度、予算、製造方法、法律 etc )を具現化した粗削りな形状を、その機能を損なわない中で洗練させていくのが仕事である。その洗練の際に、担当デザイナーが独自にモチーフを定め、反映させるのは自由である。しかし、その為に、単価が1.5倍、2倍も跳ね上がって良いはずがない。彼らが影響力を持てる要素は、初めから極めて少ないのである。

つまり、彼らの仕事は、成果を示しにくい極めて泥臭く、深遠な世界なのである。というのは、彼らがデザインの元とする「機構設計者の粗削りな形状」は、その80%以上は全て構造的に意味のある形で変更は基本不可能なので、工業デザイナーは、残りの多くとも20%で独自性を示さねばならないからである。華々しいわけがなく、しかもその僅かな関わりに誇りを見出さねばならない。これを深遠な世界と呼ばずして何と表現すればよいのであろうか。

あるデザイナーの仕事を一例に説明する。例えば、ある製品のデザインを担当するとき、あるデザイナーは、「ガンダムをモチーフにして、製品の一部の凹凸を額当て部と分かるようにC面、R、勾配を設定し、配色に拘りました!」などといったりする。この際、C,R,勾配設定が、製品の機能や強度に影響を及ぼす場合は、設計部は強くその具現化を拒む。なぜなら、お客様の安心と安全に直結するからである。そこで、このデザイナーは自分の業務成果である額当て部の形状を高確率で妥協することになり、ガンダムをモチーフにしたものの、配色しか成果がないことになる。しかし、ここで腐らず、「○○しているときのガンダムには、原色に加え、度重なる戦闘で被った荒廃色(←?)があり、それが見る者の視覚を強く刺激し、臨場感を生み出しています。多くのファンは、この原色+荒廃色に惹かれ、益々愛着を感じるのであります!」などと語られたときには、私は涙してしまう。その者の熱意と深い世界観が奥にあるように感じるからである。

これは、如何に工業デザイナーの仕事が泥臭く深遠であるかを示した例であり、本来の姿である。これが華々しく、外観の根本的な形状をデザイナーが作ったことになっている場合は、メディの力が異常か、機構設計者が仕事をしていないか、その会社の企画・営業・デザイナーの権力が異常であるかである( 特に本当に最後の場合である場合は、不正や不備があることを覚悟した方が良い )。

最後に、機構設計者として、工業デザイナーの方に心がけて頂きたい仕事への取組み方をまとめておきたいと思う。

①. 製品コンセプト( 想定顧客, 想定される使われ方, 機能, 予算 )は、必ず理解しましょう。企画や設計者の考えを理解することに大いに役立ちます。何より、お客様の顔が理解できます。

②. 機構設計者と打ち合わせする際は、必要機能や強度を出すのに絶対必要な要素をヒアリングしましょう。言い換えれば、デザイン自由度を洗い出しましょう。曖昧な箇所には、手を出さないでおきましょう( 手を出したVerもデザインできればとても優秀です。 )

③. 日頃から、物の作られ方と強度について勉強しましょう。特に、樹脂と金属の金型の知識や加色技術については、知らなければなりません。それが、機構設計者の作った形状を理解することになりますし、自分たちが絵に描いた餅を作っているのではないというプロ意識を養うことになります。

④. 20%以下の自由度の中で、自分の独自性を盛り込む仕事であることを理解すること。構造的な領域に足を踏み入れ、自分のデザインの成立性を提案するのも良いですが、それが成功することは基本的にありません。理由は、あなたよりその分野に長けた設計部の技師たちが何千回もの検証してきた形を否定することになるからです。ただ、理論的に正しいという自信があるなら提案してみてください。例え失敗しても、あなたの努力と熱意は設計者の心を打ちます。それはあなたへの信用につながり、次の仕事を有意義なものにします。

なお、デザインをするときにモチーフを定めると思いますが、そのとき、多くの方が固有名詞に終始しがちです。ガンダム、ピカチュー、チーズケーキ、シュークリームなどです。これらは、既にとても有名で、その特徴的な外観も皆よく知っています。よって、デザイン後に特徴的な形状が否定されたら、あなたの独自性が容易に喪失してしまいます。そうならないように、おススメの方法があります。それは、「物体の動きを持たせたものをモチーフにする」ということです。例えば、改装完了で気力が充実しているときのガンダムは、アニメの演出上、特殊な光沢やオーラを放って表現されます。よって、もしあなたが「改装完了で気力満点で、出撃直後のガンダム」をモチーフに選んだのならば、、その時点であなたの独自性が強く発動します。その後のデザインの仕事も他のデザイナーの勝手な解釈に基づく入れ知恵(?)に悩まされることも減ります。だって、盛り込みたいモチーフを最も理解しているのは、他人ではなく、あなた自身なのですから。

以上、工業デザイナーの仕事と在り方について、私見を述べた。

工業デザイナーとは、「機構設計者の示した機能と強度を凝縮具現化した形状を崩さないで、芸術家の筆を入れる」者たちである。前述した某車のデザイナーのように、芸術ありきの工業製品など基本成立しない。無駄なコストアップや、機能未達、法律違反を招くからである。一昔前ならそれも許されたかもしれない。というのも、そういった機能未達や法律違反も見た目には分からず、露呈しにくかったからである。しかし、情報社会になり、多くの検証方法が民間でも気軽にできるようになってきた昨今では、そうもいかない。そういうわけで、これからの工業デザイナーは、益々、自分たちが背負った「工業」の肩書を深く理解し、天狗にならず、職務に当たるべきだと思うのである。

電子辞書の未来って…

日本には、「電子辞書」という専門の機械がある。

シャープやカシオがこの業界をけん引してきた。かくいう私も、学生時代は大いに使わせてもらった。

特に、大学受験や語学の勉強に関しては、その利便性もさることながら、耐久性、長寿命と言う点でも感謝しかない。

そんな電子辞書であるが、大学院時代にアメリカに行ったり、社会人になって自分が電気製品の機構設計者になったりして感じたのは、この製品が、ほぼ日本でしか流行っていないガラパゴス商品であるということである。そして、近い未来、必ず消えるという時期は分からないが確実と思える予感であった。

話は変わるが、電車の中で見かける中高生たちの中には、一生懸命勉強している者が少なからずいる。彼らの勉強内容や方法をそれとなく観察するのが、実は私は好きなのだが、最近少し変わってきたと感じることがある。それは、タブレットで勉強をしているということである。しかも、分からない用語や現象は、辞書アプリやYoutubeで調べて勉強しているのである。私の時代の電子辞書が、アプリと無料動画に置き換わった訳である。一時期、「電子辞書の存在意義は、ネットが制約される教育現場での情報検索と、信頼性の高い情報にある。よって、電子辞書が消えることはない。」という考え方があったが、それが辞書アプリで補完された今、もはや、電子辞書の存在意義は消えたと考えるのが、一般的であろう。。。

話が長くなったが、今日は、電子辞書の新たな意義を私なりに考えてみたいと思う。

まず、そもそも辞書とは何のためにあるのか?どんな時に使うのか?から考える。

辞書とは、読んでいるときに分からない用語に直面したり、書いているときに正しく用語の文字や意味、使い方を思い出せないときに、調べるためのものである。

インターネットが定着した今日、読む物の多くは電子化された。その電子化された装置はインターネットとつながっており、直ぐに用語を調べられる。また、文章を書くときには、うる覚えの情報の読みだけでも打ち込めば、予測変換リストを表示してくれる。別に、打ち込まなくても類似した文字を書けば、やはり予測変換リストを表示してくれる。

さて、このように、電子辞書は、はやり検索ツールと言う点では、インターネットと連動した装置には勝てない。であるならば、徹底的に「専用機」となり、その情報の質と、使いやすさに磨きをかけるしかない。デジタルカメラが、スマホとの差別化を図るために、高級コンデジから一眼へシフトしたようにである。では、電子辞書でいえば、どうすれば情報の質を高め、使いやすさに磨きをかけられるであろうか???

◎情報の質を高める

 まず、情報のメモリへの保存はもうやめて、クラウドに保存管理するようにする。情報の管理場所をハードからクラウドにする技術的潮流はもう止められないのと、これに反することは情報からおいてかれることになるので、むしろいち早く受け入れ、整備する。特に、「クラウドコンピューティングとAI判断による情報の更新、情報の安全管理、耐久性」のある独自の仕組み(といっても、新基幹産業を支える巨大企業の枠組みに便乗する形であろうが…)を構築する。こうなると、将来の辞書は、「用語数」「情報信頼度」「更新頻度」「安全管理指数」「接続耐久度」などの総合指標を定義し、社会に配信し、信用を先手先手で獲得することになるであろうと私は思ったりしている。そして、「通常のネット検索より良質な情報ですよ!」ということを数値で示すのである。

◎ 使いやすさに磨きをかける

 次に、使いやすさであるが、、先ほどの現在のネット検索の在り方を考えたとき、三つの検索方法がに気が付くであろう。「コピー&ペースト」「打ち込み(フリック)」「書き込み」である。この中で、個人的に不快さを感じるのは、「打ち込み(フリック)」という動作である。そもそも、我々は「文字」を扱う生物である。しかし、その文字をコンピュータに読み込ませるために、わざわざキーボードの羅列を編み出し、それで操作している。今、我々が不便さを感じていないのは、単に、慣れ過ぎたからで、頭の中では変換作業が行われているわけだから、余計なエネルギーを浪費しているのは間違いない。つまり、用語の検索において、「打ち込み(フリック)」は、今のPCやタブレットとの互換性の観点からそうなっているだけで、、文字を調べるという点においては、一画、手間の多い作業なのである。したがって、もし、新しい電子辞書を作るのならば、「コピー&ペースト」と「書き込み」の作業性と検知精度を高めた物にするべきである。打ち込み表示や、フリックは不要である。取り除く勇気が必要である。下手にあると、タブレットとの差別化が「情報の質」だけになってしまう。コピペをするには、カメラと画像処理技術は必須であろう。また、書き込みについては、昨今の電子メモ帳のような多少ザラツキと弾性のある画面が理想であろう。その方が、文字を綺麗に書けるので、検知精度も上がるからである。

〈まとめ〉新しい電子辞書の姿

★ 情報は、ハードからクラウドを出所とする。

★ 情報に対する信頼性・安全管理・耐久性を定義して示し、一般のネット検索より優性であることを示すことで、用語検索の「専門機」とする

★ 検索の際の打ち込みやフリックは、「文字を調べる」と言う点において、実は一画余計な作業である。よって、この機能を勇気をもって削除し、カメラによる「コピー&ペースト」と、電子パッドのような「書き込み」の操作感に優れた仕様で、さらなる直感操作を実現し、用語検索の「専門機」とする

⇒ 以上から、全体サイズとしては今の電子辞書とほぼ同じくらいのA6、A7サイズ。「大画面とカメラ、タッチペン、及び、画面カバー」のついた外観になると予想している。直感性が増せば、子供や老人も簡単に使えるので意外にはやる気がしないでもない。というのも、彼らは、PCやタブレット操作を、今の働き世代が想像する以上に敬遠する傾向がある、、かといって、文字入力ができるアプリの立ち上げをする知恵を持ちえなかったり、それを教えても理解できなかったり、秒速で忘れる者が多かったりする。よって、こうした知能事情を背景に考えると、PCやタブレットすら使いこなせない人々が実はとても多く、彼らにとって優しい専門機を提供することの価値を感じずにはいられないのである。

「駅近くにない学校」について

私は、学校は、社会に役立てるための知識・知恵・精神性を養うために通う場所であると思っている。

「読み書き計算」という基本的な技能を元に、様々な学問に主体的に触れ、問題意識を持ち、自分なりに答えを導く、、こうしたことをする場所だと思っている。

特に、大学や専門学校は、そうである。

さて、話を少し変えるが、、人は何かに問題意識を持ったとき、まずどうするであろうか?

調べたり、試したりするであろう。

そのため、学生なら、大学図書館や研究室に行ったりするであろう。

自宅にいて、ネットの情報や、仮説推論を行うだけでは不十分なはずなのである。

そんなとき、自分の所属する学び舎が、近くにあったらどうであろうか??

やる気を維持しながら、直ぐに行動するであろう。

しかし、逆に行動したいときに、それができる場所が家から遠かったらどうであろうか??めんどくさいなー、、、次、何か用事があるときにやろうかなーという感情が芽生え、結局ヤラナイ姿が想像できないであろうか?( 私は、多くの人は、高い確率でそうなると思っている )

ところで、学校は、自分の家の近くにあるとは限らない。大学などは、まさにそうである。

そうしたとき、せめて「駅」から徒歩10分圏内に学校があれば、比較的、行動のモチベーションを維持したまま家を飛び出すことができるように私は思う。というのも、日本の首都圏を走る電車の多くは、海外に比べ時間に正確で本数も多いので、行動計画を立てやすいからである。これが、バスだと、日々の交通事情の影響を直接受けるので、行動計画が狂いやすい。よって、バス通学は、行動計画の修正を高い頻度で求められるので、だんだんと通学が面倒くさくなってしまう。よって、学校に行きたくなくなる。

直接的であれ、間接的であれ、通学事情の影響を受けて行きたくなくなるような学校なんて、悲しすぎる。なにより、当初の学びの目的を達成しにくくなってしまう。だから、私は思うのである。学校に通うならば、「家の近くに良い場所があるならそこ」が最良、それがダメなら「せめて駅の近くにある良い場所」を選ぶべきだと思うのである。今は、リモート学習が主流になりつつあるが、学びには、「現場で、自分で、実際に何かを試すこと」は絶対に欠かせない。どの学問でもこれは同じである。だからこそ、学校は、直ぐに行けたり、行動計画が立てやすくて意欲が損なわれにくい場所に行くべきだと思うのである。

毎朝、都心のとある大きな駅を通るとき、どこかの大学か専門の学生さんが、大名行列を作っている。どうやら耳に飛び込んでくる彼らの会話から、学校までは渋滞しなくても15~20分くらいかかるみたいである。だから、歩いて行くような距離ではない(時速40km/hでバスが走行したとして、少なくとも1/4hかかるのだから、10kmは離れている)。あなたは、こんな学校に通いたいと思いますか??