路傍の石

石は、何処にでもある。

だけど、ほとんどの人は、目もくれない。

気付かず、踏みつけ、蹴飛ばし、、、

石は、その形に意味があり、もしその形を維持することに命があるのならば、我々人間より長大な時を生きてきたものなのに。。

余談だが、最新科学によると、万物は宇宙の外でつながっているそうである。

物体を分解していくと、分子になり、原子になり、素粒子になり、ヒモのエネルギーになり、膜になる。その膜は広がりを持っており、宇宙の外まで伸びているのだそうだ。。とすれば、我々の吸う空気も、身体も、服も、水も、大地も大気も、惑星も、何もかもが、宇宙の外でつながっていることになる。抽象化した視点を手に入れると、、物も人の境界がなくなり、同質に捉えられるのだ。

私は、自分の今までの人生をフト振り返るたびに、いつも路傍の石を想う。

路傍の石は、その個性に気が付くと、どの石よりも強く輝くことを私は知っている。それは、人も同じである。

路傍の石は、その表面の凹凸を取り除いて研磨にすると、その中にまだ見ぬ宇宙を感じるような、神秘的な模様を見せてくれる。それは、研磨されて美しくカットされたダイヤでは到底表現しきれない、深遠な姿である。容姿の美しさと若さで勝負をしている人は、研磨されたダイヤや水晶に等しい。一つ傷がつけば、ダイヤは輝きという価値を失う。しかし、深遠さを持つ路傍の石は、深みという極めて抽象的な輝きを持っているので、それは見かけの劣化程度で光を失うようなものではない。

今日は、私が拾い、その個性を大切にしている石を紹介する。

赤チャート( 高麗川の河原で採取 )

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これを研磨すると、まるでサンゴのような深紅になる。研磨の際にでた赤色の粉は、水に溶かしてペンで紙に塗ると、ダークレッドになる。

花崗岩( 黒の「角閃石」が大きい。相模川で採取。 )

不思議な石 ( 青梅の多摩川上流部で採取。 )

薄っすら見えるピンク色が美しい。派手さはないが、落ち着きがある。人が手で作ろうと思って作れる様ではない。

現在研磨中のセラドナイト( 相模川水系中津川で採取 )

赤枠箇所に深い凹がある。表面を研磨することで、この凹部をなくすことを目指したいと思う。

【本日の動画】小川のせせらぎ

心と体が癒されます。せせらぎ音を聴いていて眠くなる人は、心と体が疲れているのだそうです。そういう方は、PCを閉じて、ゆっくり眠りましょう。

究極のモノ作りの方法

究極のモノ作りの方法について、つぶやく。

材料費も、加工費もいらない。

日程もそんなにかからない。

設計要求事項を柔軟に変更しても良い。

機能検証に、実物試作やソフトでのシミュレーションで試験をすることもない。

それは何か?

それは、「想像」である。イメージともいう。

イメージの世界は、思う(想う)ことで現れる。

その世界では、在ると思えば在り、無しと思えば無い。

例えば、適当に電気製品のモノ作りをイメージしてみる。

① デジカメを作りたい 

② 外観をイメージする

 ( 下記の具合に個別に列挙し、イメージして統合させる。 )

・筐体形状、サイズ、質感

・レンズ位置、サイズ

・検知用窓位置、サイズ

・ボタン、サイズ

・ズーム、フォーカス調整形態

・モード切替ボタン

・ストラップ

・三脚穴

・ラベル

・電池、カード交換形態 

・部品間のクリアランス(0.5mm以内が良いとか悪いとか…)

③ 動き物をイメージする

( 下記の具合に個別に列挙し、イメージして統合させる。 )

・持ち歩かれ方

・ボタンの扱われ方、操作感

・ズーム、フォーカスの調整のされ方

・ストラップの付け方、付けた後の扱われ方

・モードの切り替え方

・三脚穴の使われ方

・電池とカードの交換のされ方

工業デザイナーは、少なくともここまでの思考ができないと無能である。なぜなら、そうした人間の描くプロダクトは、芸術品に成り上がってしまっているからである。美しい絵を具現化したいのではなく、使う人が快適と思う姿を具現化したいのである

④ 具現化する方法を考える

ここは、メカ設計者の腕の見せ所で、書くときりがないから題名だけにする。

以上を想像の中だけで行うのである。想像が完全にやりきれない場合は、紙にペンでスケッチしてもよい。これを「紙上試作」と呼ぶ。紙上試作も、お金がかからずにできるので、とても能率的である。おすすめである。

え、こんなに想像ができないって?そんなことはない。イメージは思うことで洗現れる。できない(と思うことで)、出来なくなる。囲碁や将棋をやる人は、打ち始めから、最後までを覚えているという。できるはずである。

そう、出来るはずなのだ!

【本日の動画】高麗川

埼玉県日高市にある高麗川のせせらぎです。近くには高麗神社があり、多くの人が野望を胸に参拝に訪れます。この川には、その前の穢れを洗い流す意味があると思うのです。その川の流れを見て、聴いて、心を綺麗にしてもらえたらと思います。。

主体・客体、およびその前提

 先日、開発中の製品の試作品を、上役たちにレビューした。その際、製品コンセプトの確認と、それに基づいた設計思想を説明し、実際に触ってもらった。結果は、三者三様に思い付きのことを批評のみする状況であった。。

 彼らが談合し、最終承認し、発行したはずの企画書に記載の製品コンセプトすら、彼らの中でも何故か認識があっておらず、、当然、出来上がった試作品に対しても足並みが揃わない。。

 「この会社は、ヤバイな。。」と、改めて、改めて、強く、強く、認識した瞬間であった。。最近、他社に対しても同様のことを良く感じる。某自動車大手と仕事をしたときも、要求仕様がバラバラであったり、発言の撤回が二度三度行われたりした。取引先の某大手商社は、客の前で明らかな失態を担当と上司が喧嘩をする始末。。因みに、私は自分の信念として、「仏の顔も四度まで」「調査・確認依頼の回答期限は、標準一週間」「協力会社への指示は、①依頼メール、②電話、③依頼日から期限の間に二回の進捗確認連絡」をすることにしており、これが協力会社の方に対して決して過剰な要求を課しているとは思っていない。

 話がそれたが、私は別に承認欲求が強いわけではない。私は、組織で定めたと「考えの道」にそった正しい製品を作りたいだけなのである。しかし、現状は、皆で会話し、定めた組織の方向性が、モノができてからひっくり返されたり、その方向性に協力をお願いしていた人に裏切られてしまったりということが起こってしまっているのだ。。何故であろうか?

 デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」が、まぎれもない真実であると語った。これは、物事を、「考える自分(主体)と、それ以外(客体)を明確に分けて捉える」ということである。極めて強力な方法である。私は、最近まで、それを信じて疑わなかった。しかし、何度かみ砕いて説明しても理解できない者たちを前にして、デカルト的方法に抜けている要素があると思うようになった。それは、「前提」である。常識ともいえるかもしれない。

 当たり前の話だが、人間、十人十色である。それぞれが捉えている世界、考え方は、全く別なはずである。どんなに正しく言語を運用していても、各人の捉えている背景が違っていては、結論は大きく違ってくる。例えば、チューリップの花を見て、

人間:(図鑑にのっている)花をイメージする

蝶々:(蝶は可視光で物を捉えないので)花弁をイメージする(かもしれない…)

素粒子を観測できる超人:(世界全体が、空気までも素粒子なので花は)濃度の濃い固まり

という具合に、捉えるであろう。これは極端な話だが、もし、こうした捉え方のことなる者たちに、人間である私が、どんなに、「チューリップはこんな形をしていて、色をしていて、美しいんです!」と説明しても理解は得られない。前提が違い過ぎているからである。

ということで、話が長くなったが、人に説明をするときは、背景(前提、定義、常識)を丁寧に、深く準備をし、簡潔に説明し、その時点で確認を行うことが大事である。自分とある程度合っているかどうかが分かったらそのまま続けましょう。合っていなかったら、自分の前提がこうであり、その視点に立って説明を聞いて欲しい という具合に、理解と協力を求めましょう。

【本日の動画】:鶴見川水源