話が伝わらないときにやること

人に何かを伝えるときに、中々伝わらなくていらだった経験はないであろうか?

老人、知性の低い人、幼子などに話をする場合も含む。

今日は、そんなときに、あなたが苛立って怒る前に前にするべきことを述べたいと思う。

早速結論をいうと、下記である。理由も書いてある。

〈ものが伝わらないときに、やるべきこと〉

1.ゆっくりと、大きな声で、もう一度言う。[ 理由:聞き逃した可能性があるから ]

2.簡単な内容に言い換えて、伝える。[ 理由:内容を理解する知性がない可能性があるから ]

上記を3度試みて、それでも話が伝わらない場合は、「相手があなたの話を聞く意思がない」または「相手があなたの話を聞ける能力(身体機能,知性)がない」ということである。

前者の場合で、あなたがどうしても伝えたいという強い想いがあるのならば、怒りと愛情をもって叱るべきである。何故、愛情が必要かというと、「その想いを伝える必要性」を相手に理解させるためである。この意識があることで、単なる、怒号ではなく、相手を思いやった言葉がでるようになる。

前者の場合で、あなたがどうしても伝えたいという強い想いがないならば、会話を止めるか、話題を変えるべきである。時間と体力の無駄だからである。

後者の場合で、相手の聴覚が正常で、あなたの伝えたいという強い想いがあるなら、前述のアプローチで伝えてみよう。ただし、相手の知性は、あなたの話を理解できる程度に正常だとする。

後者の場合で、相手の聴覚に問題があり、視覚は正常ならば、筆談などを試みてみよう。ただし、相手の知性は、あなたの話を理解できる程度に正常だとする。

後者の場合で、相手にあなたの話を理解できる知性がないのならば、会話を止めるか、話題を変えよう。双方にとって、時間と体力の無駄だからである。

最後に、話が伝わらないときに簡単な内容に言い換える方法について、述べる。

まずは、相手の知性や理解の程度を知る必要がある。そこで、質問を投げかける。しかし、その質問は、「過度に相手に思考や想起を促すもの」であってはなならない。こちらが知的に上位にいるような印象を相手に与え、場合によっては意図せず相手を愚弄することになるからである。そこで、「軽度に思考や想起をうながす質問」にとどめるのである。例えば、「知っているか、知っていないか」を確認する程度にとどめる。これを繰り返して、相手の知的レベルを確認するのである。これをする余裕が相手にもあなたにもない場合は、全て知らないこととする。

次に、相手が知っている事項と、こちらが伝えたい事項の置き換えを行う。

伝える方法は、「図やキーワード」という単純なものが最も適切で、それが難しい場合は「言葉」を使う。その際、「伝えたい事項=○○」という具合に、言語化できない場合は、具体例の列挙を行い、「こういう類のものである」と説明する。以上である。

こんなことは、大人なら誰でもやっていることだが、いざ自分が直面するとうまくできず、結果として相手に強く当たることが多いのではないか?そこで、改めて示すことにした。

例えば、「民主主義、社会主義、資本主義、独裁主義」という言葉がある。これを見たとき、大人ならば、下図のように理解すれば終わりであろう。そして、日本が近隣諸国との外交をする上で、極めて困難な状況に置かれていることが分かったり( 経済や政治体制が違い過ぎる!)、日本の社会保障制度(ex.福祉など )の規範を北欧系国家に求めても、経済体制が違うのでこれもやや筋違いであることが分かる。さらに、我が国が石油を大量に輸入しているサウジアラビアは王様のいる国家なので、日本の皇室外交が重要であることが分かる。

大人であれば、このマトリクスの枠組みを知り、以降、興味を持った国や地域が、どのあたりに属しているのか?どのあたりに向かおうとしているのか?それは妥当なのか?を考えられれば十分である。

では、子供にこれを教えるにはどうしたらよいであろうか???

1.理解は、上表のすべてを知らないと仮定する。

 つまり、政治、経済、民主、独裁、資本、社会、、、この全てを知らないとする。

 これらをすべて簡単に説明するための言い換えが必要だと、覚悟する必要がある。

2.言い換え

各単語を平易な表現に変換する。例えば、下図のような感じである。

粗削りではあるが、イメージを持ってもらうには十分であると思う。

熟語を覚えるときに困ること

言語学習において、熟語を学んでいるときに困ることがある。

それは、「熟語を構成する各単語の意味をつなげた時の印象」と、「熟語帳や辞書にのっている熟語の意味」が少し違うように感じることがあるということである。

例えば、

be willing to do

という有名な熟語がある。

英語のような構造言語は、文の形で基本的な意味が決まる。そしてそれは単語の詳細な意味より優先されるのが、原則である。そう考えたとき、この熟語の形は、どう見ても「次の動作(do)に向かって進行中の動作」を示してしている。例えば、

I’m cycling to take beautiful pictures. (俺は美しい写真をとるために自転車をこいでいるとこだよ。)

という文章がある。cyclingというのは、自転車を運転することを指す動詞cycleの進行形である。目的に向かって、今まさに自転車をこいでいるので、進行形になっている。

同じ感じでbe willing to do をみてみると、willingは、動詞の進行形にみえる。willはその原義が「強い意思」を示すので、動詞に添えれば「その動作に強い想いがあることを強調する」助動詞になるし、単独で使えば「意思」という名詞だし、動詞として使えば「強い想いがある」となるはずである。そして、強い想いがあるというからには、「どんな?」を付けなければ意味が通じないので、後ろに「それを示す新たな動作」が必ず来るはずである。よって、will to do は、「doする強い想いがある」が普通の意味である。そして、その進行形は、「doしたいという想い(気持ち)が強くなりつつある」ということであろう。ということで、willing to doを一言でいえば、「doしたい」である。

ところが、単語帳や熟語帳は見ると、

willing:(形容詞) 自発的な, 前向きな

be willing to do:(動詞) doしてもよいと思う

などと書いてあることが多い。

確かに、be動詞の後ろにくる単語は、名詞か形容詞が基本である。しかしそのために、品詞ごとに意味を提示するのはいかがなものだろうか?繰り返すが、「be+〇〇ing」は今まさに目的に向かって進行中の動きを示す文の形であり、○○の核となる意味を掴んでおけば文意がほぼ確定できるし、使いやすい。

そして、もう一つ。上記のように、日本語と新たに紐づけされ直されることで、独立した用語として記憶することになり、使いにくく、忘れやすいということである。ときに、変な意味であることも多く、覚えにくい。例えば、be willing to do だが、熟語帳にはご丁寧に前記のwillingの意味がのっているので、be willing to doは、「doすることに意欲的だ。doする気がある。(強く)doしたい」と考えるのが自然である。しかし、訳語は、「doしてもよいと思う」である。なんだか、「doしたいのだか、したくないのだか、どちらでもよい」という印象を受けるし、willingのときはまだあった will のコアイメージ(強い想い)も消えてしまっている。 。。という具合に、混乱を生み、、使いにくくなってしまうのである。

これらは、大学や予備校などの先生方は大変詳しいでしょうから、是非、「核となる単語の提示と、文法的解釈で自然に意味が決まる熟語の削除」を徹底的に行った「単語帳と文法書が組み合わさった書籍」を作成されることを願ってやまない。

本年もお世話になりました

毎年のことですが、本年もあっという間に、大晦日になりました。

多くの人が色々理由をあてつけて祝うことにしている、年末年始の出来事に強烈な憂鬱感を抱きながらも、理性によってそれを表に出さず、穏やかにやり過ごそうとしている管理人です。

今年を振り返れば、仕事、健康、家族において大きな飛躍の年となりました。まさに、飛び跳ねるウサギに例えても良いと思うそんな一年でした。参拝した神社の神々様、多くの協力してくださった人々に感謝しております。

来年は、仕事、健康、家族、趣味、学業、財形でさらに大きく成長できるように、努力していきたいと思います。

ちなみに、私は将来は、「平均近傍の日本人の知性の向上や、慈善活動を通じて環境保全や弱き者たちを救ったり、それができる仕組みを整えること」をしたいと思っています。これらをすることが、日本人の生活の質を高め、自分だけでなく他人の為に努力し行動する民族性を取り戻すことにつながると思うからです。そのために、心ある人々の意識を少しでもよりよくすることに貢献し、その人たちに関係する人たちが変わっていき、それが10年~20年という年月をかけて大きな変化となるような仕掛けを提案したいなと思っています。来年は、そうしたことをするための基礎を整えたいと思っております。

本年もお世話になりました。皆さま、良い年をお迎えください。

来年もよろしくお願いいたします。

改良設計ではなく、創造設計を目指そう

昔から日本人は「猿真似博士」と揶揄されることがある。というのも、古代から海外の新たな概念を柔軟に受け入れ、分析と創意工夫によって真似て、短期間で彼ら以上の物を作ってきたからだ。その真骨頂は、「分析と改良能力」である。しかし、こうした能力は、技術が飽和したり、新たな技術が入ってこなくなったときに一気に弱さを露呈する。例えば、太平洋戦争時の日本は、模倣するべきエンジンや過給機などの先進的な技術をドイツを除いた欧米から仕入れることができなくなったり、良質な材料が得られなかったりで改良の限界に直面し、技術的に敗北した。そんなことは無いという人がいるが、冷静に当時の兵器を見れば、多くの点で欧米に劣っている。また、日本の電機産業がこの30年弱で一気に弱体化した一つの大きな原因は、日本の半導体産業を抑え込むために欧米諸国から強制的に結ばされた半導体協定である。これにより、開発と販売が自由にできなくなり、その間に、台湾・中国・韓国の台頭を許すことになってしまった。半導体の高度な技術がなければ、あらゆる電気製品は高額な二流三流品を作ることになる。昨今のパソコンやタブレットの日本製品の少なさ、あってもその低性能かつ高価格ぶりには、泣きたくなってしまう。また、AIの進歩により、自動分析や複合的な問題解決手法の立案が進む中、日本人の能力の価値が薄れてきている。これは国力の衰退に拍車をかける、深刻な現実である。

ここまでで何が言いたいかというと、従来の単なる改良設計の延長上には、我々日本の産業は、欧米中韓とAIに仕事を奪われ、その稀少な能力も国力も衰退し、彼らの産業的かつ知的奴隷になり下がるということである。日本の代名詞であった電機産業の衰退をみれば、この現状を楽観視する愚か者はいないことを信じたい。そうならないために、私は、改良設計に加え、創造設計を意識的に行える体制を整えることを提言したい。

創造設計とは何かを述べる前に、既存の在り方について改めて整理することにする。下に、ある製品種に、改良設計の対象となりうるような問題意識を施した場合、未来にどういった製品種になるかの私のイメージを記した。

図1. 改良設計を施した未来にあるのは、今ある製品種が良くなった物でしかない

車に、SDGsや人間工学、高効率化とった個別の視点で技術的な改良を施しても、それは車でしかない。それでは、社会生活は変わらないし、国際条約、協定、法律によって車の急な規制追加がされたときに急に販売が滞ることになる。そして、こうした条約や協定に抗う力をもつ帝国主義や独裁国家の産業戦争に敗北するのである。これは、半導体、CPU、携帯電話、スマートフォン、パソコン、タブレットで今まさに起こったこと、起こっていることである。こうした敗北を回避するためには、常に複数の産業を育む戦略方針を設け、その時々で柔軟に調整していくことが必要である。そのために、日本はその民族的に得意とする分析力によって、改良だけでなく、革新のための開発形態を整えていくことが重要だと思うのである。では、革新を起こすには、どんな設計をしなければならないであろうか?下に、私のイメージを描いた。

図2. 既存製品が、革新によって生まれ変わるイメージ

上図において、改良設計から創造設計に意識を変えることで、時間軸が変わり、作られる製品種が変わるイメージを示した。改良設計というのは、まず模倣とする対象があり、その問題を見つけ、改良する方法である。それに対して創造設計というのは、一から目的のモノを作る方法である。一から作るためには、まず設計対象を簡単化し、自然科学の法則を使って組み合わせ、目的のモノを作っていく必要がある。ここで重要なのは、改良設計は一番最初の模倣とするべき物に縛られるのに対し、創造設計は自然科学の法則に縛られるということである。従って、例えば、移動するためには「車を使わねばらない」という発想ではなく、速度や時間のレベルで最適な実現方法を学術的であったり、自然現象の観察であったりから模索しようとし、その次に効率や快適性を模索しようとするのである。これが、「抽象化&集合知」「自然模倣」の意味するところである。「極小多機能化」は、とにかく多くの機能を極限まで小さくすることを目指す発想である。つまり、問題が起ころうが、目的のために限界を常に突破させる方法である。この際、コストや法律、利便性といった実用性という概念を持ち出すと、この試みは必ず失敗する。日本の電機産業衰退のまた別の一つの理由がこういった新技術開発における譲歩無き実用性の要求にある。話を戻して、「複合改良設計」である。これは、複数の改良設計を擦り合わせる方法である。一番日本人が得意とする方法であり、(言語や宗教的に)我の強い外国人は苦手である。実は、改良設計として30年以上前ではよく行われていたのだが、物事のシステム化が進む中で開発対象の細分化が進み、その結果、他分野から知識を吸収し融合させる意識が薄れてしまった。そこで、改めてそれを定義することにした。最後に「曖昧さの許容」である。物事を白と黒に明確に分けたがる人は多いが、物事がどちらかに割り切れない曖昧な要素を帯びていることを我々は知っている。むしろ、この曖昧性こそが自然の一つの本質的な在り方である。生物には、曖昧性があるからこそ環境への適応や進化が可能となるのである。であるにもかかわらず、何か物を作ろうする我々は、この曖昧性を許さないところがある。その結果、ユーザーが限定されたり、何より進化や適応性の乏しい製品が出来上がり早々に市場から淘汰されるのである。曖昧な要素を削り取るだけではなく、あえて残し進化や適応の可能性を探る、そうした視点を意識づけるためにここに定義することにした。

以上、いわゆるパラダイムシフト、ブレイクスルーを起こすための私なりの考え方として創造設計というのを提言してみた。私のいうことが全て正しいと言うつもりはまったくない。しかし、この記事を読んだ方が日本や世界をよりよくするために考えるきっかけとなり、それが世の中のモノ作りを変える小さな原動力になれば幸いである。

性的少数について理解しろといってもね…

体と心の性が違う人は、少数派である。

民主主義は、多数決の原理を採用する組織の意思決定の在り方である。しかし、民主主義は、少数意見を尊重するという理念も含む。この尊重というのは、配慮するということであって、絶対ではない。絶対にしてしまうと多数決をする意味がなくなるからである。この少数意見の尊重を、絶対的に守られるべきものととらえて声を荒げる少数派が極めて多いが、あなた方は、あくまでも穏やかに、そして社会に対して「お願いをする」立場であるのであるというのを忘れてはならない。

以上から、少数派は、大多数派にお願いをして、「自分たちの主張を全面的に勝ち取ること」を目指すのではなく、「妥協案・折衷案を得ること」を目指すべきなのである。この妥協案や折衷案を得ることすら拒否する輩は、精神的に幼い子供と同じなので、まず正しい知識教育によって自分たちの立場を教え、その上で再度議論することが必要となる。この手間すら許されない場合は、そうした方を、社会的に抹殺するか、無視・放置するしかない。なぜなら、民主主義体制を乱す要素にしかならないからである。害にしかならない要素は、取り除くか、時間が解決するのに任せるしかない。

ところで、公共施設や服装は、主に、体の性の違いに基づいて作られている。これは、体の性の違いによって、社会的に不合理が起こらないように「区別」するためのものである。この区別を差別として騒ぐ人がいないのは、刷り込み教育と、男女それぞれにとってそうあることが合理的かつ安全であるからである。お手洗いの入り口で、第三者からも分かるように、自分の体の性に合わせた空間を選ぶ行為は、本来は自分の体の性という情報を外に表現することなので、恥ずかしい行為である。もし、これらに精神的反発を覚える者がいるのならば、お手洗いなどの公共施設の入り口に壁を立て、壁の内側でどちらを選択するかが、外から見えないようにするなどの配慮が必要であろう。

さて、話を戻してジェンダーレスの人たちの扱い方について考えてみる。彼らを扱うときに何が困るかというと、一つは、「心の性別が外見からは分からないこと」である。もう一つは、「心と体の性が異なる人が、心の性のままに設備を使うこと」である。

一つ目がなぜ問題かというと、少数派の人を外見から区別できないからである。そしてそれによって、二つ目の問題がおき、大多数の人の設備の安全な利用が脅かされるからである。例えば、心と体が女性の方が女性用のお手洗いを使うときに、どうみてもオネエの方( 心は女性、体は男性 )が入ってきたとする。このとき、騒ぐであろう。なぜか?それは、自分の女性の体が脅威に晒される可能性を感じるからである。オネエといっても、体には男性器がある(かもしれず)、したがって男性ホルモンの働きによる筋力的強さと、女性を妊娠させる生殖機能を備えている(かもしれない)。いわゆる戦闘力を察知するので、騒ぐのである。ちなみに、この逆の場合は、当事者が身の危険を感じて、女性トイレを使うことで自然と落ち着く気がしている。狼の群れに自分から入る羊がいないのと同じだからである。

では、本題だが、彼らを扱うときに、まず、絶対に確保しなければならないのは、民主主義の原則である、大多数の意見、今回の場合は、心と体の性が一致した者たちが使う設備の安全である。ここに、心と体が不一致の者が入ってこないようにしなければならない。これが基本である。したがって、ジェンダーレスの人用の設備を新たに増設するのが合理的である。こうすれば、「心は女性で体は男性」が、女性用トイレに入ってくる心配はない。女性の安全が守られる。逆の場合も、男たちが変に気をつかうこともなく、当事者の安全もいったん守られる。次に、ジェンダーレスの人たちのトイレの構造についてであるが、厳密には、体の構造別に設備を分けなければならない。やはり、体の構造別に備えておく設備が異なるからである。また、ジェンダーレスの設備を、そうでない者が使って、本来使うべき人が被害を受けるリスクを軽減させることにもなるからである。例えば、心は男性で体は女性の方の設備を、全ての体が男性の人が使える状態になっていたら、本来の使用者は不届き者の餌食になる犯罪が大いに予想できる。よって、設備はしっかり分ける必要があるのである。これらの設備の区別を予算の都合上やらないとするならば、従来通り、ジェンダーレスの方には公共のお手洗いを利用するときは「心を殺して、体の性にあった方の利用」を民意に基づく権力を行使して指示しなければならない。この際、間違っても「補償」などはしてはならない。補償目当ての不届き者が増大するからである。こうした毅然とした在り方が、本来の法治国家であり、我々が縛られるべきものである。

図1. トランスの方々のためのトイレの在り方案