移民について

移民問題のニュースをよく目にする。

日本人の心の拠り所である、神社や寺を燃やす。自然や町を汚し、略奪や不法占拠を行う。女性や子供を襲う。社会規範を乱し、自己を顧みることもない。それでいて権利を主張する。自らの宗教観を絶対視して他を認めず、その国や地域の文化を第一に考えられない。社会のために誠実に貢献する意識が全体的に極めて低く、利己的である。

ざっとこんな感じのニュースである。

問題だらけである。これに対して、いくつか私の想いを呟く。

まず、彼らが入国するときの審査を厳格化するべきである。コンピュータによる適正試験を行い、文化と規範を尊重できる見識を備えているかを確認するとともに、性格分析試験を行い、両者を合わせて入国に値する人間であるかを審査すべきだと思う。でないと、民度の低い者があふれ、混乱するばかりだからである。また、火葬について同意してもらえる人のみ入国可とするべきである。これは、日本に住むものとして当然の教養である。

次に、犯罪を起こした者や、不起訴処分に二度以上なった者は、国外追放にするべきである。再入国は不可である。今の日本の法体制では、規定時間内に証拠を集めないと証拠不十分で不起訴処分になるので、これは外国人犯罪者・容疑者に有利に働く。要は、白を切り続ければよいからである。これを是正する法整備をするには、時間がかかる。というのも司法も行政も外国人が多いから、運用ルールを変えるのは大変だからである。そこで、追加して暫定対応することを提言する。犯罪者で即不起訴で釈放された者は、直ぐに何か別の犯罪を起こす可能性が高い。そこで、もう一度容疑者になった時点で、容赦なく国外追放するのである。

また、思想上、我が国の文化や風土風習を個人で貶す発言をするならまだしも、集団活動を扇動し、文化破壊行動をする場合もまた国外追放である。そして、二度と入国させてはならない。

さらに、移民は、日本中好きに住まわせてなならない。特別区を作り、その中で行動を管理するべきである。そうしないと、我が国固有の文化・風土・自然が、乱され、壊され、取り返しのつかないことになるからである。現に、文化遺産や自然が、彼らにより(日本人がそうする以上に)日々破壊され、汚されている。

最後に、昔から人手不足を補うための移民の力が必須という連中がいるが、正直不要である。人がいなければ、その場で工夫する。昔の大工さんは、一人で二階建ての家を建てていた。工夫をすることで、技術革新も促されるので、正直技術屋の私は、邪魔しないでほしいと思う。民度が低く、素直で誠実でない移民は日本人と協働できないので、労働力にすらならない。よって、いる意味がない。

日本が、彼ら移民に支配されないように願うばかりである。

好き嫌い

好き嫌いは、誰にでもある。

だが、嫌いなものを受入れ、好きにできるかは、知性にかかっていると思う。

例えば、炭酸ジュースやビールを初めて口にした時のことを思い出してほしい。口の中ではじける妙な刺激に嫌悪感を抱かなかったであろうか?ビールを味覚で味わったときの、何とも言えない苦さにびっくりしたことはないであろうか?

小学生の頃の私は、毎晩父があまりにおいしそうにビールを飲むので、学校帰りに飲んだことを覚えている。結果は、まずくて到底飲めるものではなかった。それ以来、私の中に「ビール=不味いもの」という関係式が成立して20歳になるまでは一度として口にすることは無かった。大学に入り、友人と居酒屋に行ったときに口にしても不味いままであった。しかし、ある時にTVの宣伝で「喉越しさわやか」などという文句をみて、「あぁ、ビールは味覚ではなく、例えば、喉を通り過ぎる際の感覚で楽しむものだったのか!」と自分なりに理解できてからは、少しずつビールがおいしいものに変わった。いや、厳密にいうと、その喉越し感や、鼻に抜ける風味、アルコールによる癒し(酔い)が、食欲を旺盛にしたり、会話を活性化したりしてくれることに気が付いたからである。こうして、私は、ビールが嫌いから好きになった。同時に、嫌いは、解釈によって好きに変換できると思うようになった。

好き嫌いは、誰にでもある。好きなものが多ければ多い程、人生は楽しいはずである。好きであることは自分を癒し成長させることであるので、それが多いということは、人生が癒しと成長に満ちやすいことを意味するからである。

昼休みに、会社の食堂で同期と食事をしたり、周りに座っている社員の会話に耳を傾けていると、皆、行きつくところ好き嫌いの会話をしていることに気が付く。偏見ではないが、女性たちの会話にはこれが多いように感じる。やれ、旦那や男のこれが嫌だ、野菜や味付けのこれが嫌だ、シュークリームは皮が硬いのは最低だ(本場なんだが…)など…。私も豊食の平成時代に教育を受けた年代であるが、戦前生まれの祖父母、父母との間に遅くにポッと生まれた子であるために、「贅沢は敵だ」「感謝の心をいつも持ちなさい」等と節々に戦前教育の格言を交えて育てられてきたので、彼女たちの言を聞くのが、実はつらい。私に刷り込まれた思考、つまり人格が攻撃されているように感じるからである。

昨今、マッチングアプリや婚活市場における男女の恋愛が増えているようである。メディアによると、男女共に、「普通の人」を求めているそうだが、その内容は、一つのお笑いネタとしてしばしばネットや同界隈をにぎわしている。例えば、ある女性は「手取り400万円前後、30代」なのに、「175cm以上、年収手取り800万円以上、25~34歳」や「175cm以上、年収600万円以上、イケメン」を要望とかである。もちろん人生を共に過ごすパートナー探しなので条件を設定することは良いことである。しかし、そのわずか三つ程度の条件を同時に満たすことすら難しいのが今の日本である。まずそれを理解した上で、ある不足要素をもった男性とどういった関係性を将来築ければそれを楽しく克服していけるか?をメッセージのやり取りやお茶をする中での会話から模索し、決断を下すことが、恐らく成功のカギであろう。つまり、その女性の「嫌い」を、いかに知性によって「好き」に転換していけるかが大事であるということである。

人口の95%は対称率という点で不細工顔らしいので、芸能人のような美形には出会えないと考えるのが妥当である。また、年収の中央値をネットで調べれば自分の主張がいかに間抜けかもすぐわかるので、現実を見る頭があれば、その中でいかに幸福に暮らすか思考するであろう。そういうことをせず、漠然とビビッとくる人を~とか、四高がぁ~とか、尽くされること、美しく盛大な結婚式や旅行や裕福で楽な暮らしをえられること、映画などのドラマチックな出会いであることを、期待し、またそうあるべきと思ってしまっているうちは、どんなに神頼みしても上手くいかないであろう。それらのことを期待してよいのは、乙女であることが許される10代から24歳くらいまでである。それ以降は、自分が日本国民として、社会の一員として、自立し、自覚と責任をもって生きる覚悟をもって生きなければならない。この覚悟を心からできた時、メルヘンのような期待や希望、学生時代の素敵なパートナーが見つかった友人との比較をすることはなくなり、現実的にどんな手段で自分は社会的責任を果たして生きていくか、どういった考え方の人や環境が必要か、を考えて、行動するようになるである。そして、そうした行動をしながら婚活を行うことで、自然にパートナーが見つかるものと思われる。なぜなら、メルヘンや上辺ではない現実的な判断軸があなたの中に出来上がっているからである。つまり、感覚的ビビッとではなく、論理的にビビッとくる人が目にを止まるようになるのであろう。

以上、なんだか婚活の話をしているようになってしまったが、別にこれが婚活に限った話ではない。仕事でも同じである。自立性と社会的責任の意識をもって仕事に向き合うことで、「自分ならどうするか?」という主体性が自然に発生する。であるからこそ、質問をすることもできるし、意見を述べることもできるし、勉強をすることも、協力することもできるようになるのである。私の主張は、理想論すぎるであろうか。。。

今年もお世話になりました。

今年もあっと言う間にくれました。もう大晦日です。

メーカーに勤める一人の技術者である私は、年齢的にも責任が重くなり、毎日朝から遅くまで試行錯誤を繰り返した一年でした。

そうした忙しい合間でも、色々なことに着手し、来年に向けて土台を作ることができたと思います。

仕事では、磨き続けてきた知識や技術に対してささやかな称号が得られるかもしれないところまできました。この獲得を目標に、益々社会に貢献していけるように頑張りたいと思います。

プライベートでは、家族との関係を日々温める安定したリズムができてきたと思います。家の建築計画も進めることもできました。来年は金銭面の課題を解決するのに頭を使おうと思います。

私のいる電気業界では、開発現場での生成AIの浸透はすさまじく、賢い者とそうでない者の格差が広がる一方です。賢者は、生成AIをよきビジネスパートナーとして使い、知識と経験を深めます。そうでない者は、生成AIの言葉を鵜呑みにし、短期的な見かけの成果で一喜一憂し、知識や気づきの残らない経験を重ねて時間を浪費します。賢者になれるような心がけが大事です。

社会に目を向けると、政治への国民意識が変わりつつある中で政権が変わり、手ごろなメディアを介して、真に日本と国際社会の発展と恒久平和を願う政治家や政党が誰と何処で、その学識・教養・気力・行動力の程度はどのくらいなのかが推量できるようになってきました。これは、大きな転換期です。このような社会環境の中、私は自分の子の世代にどのような教育を施すべきか、毎日思案しています。今、私が伝えたいことは「学ぶ理由」「友の条件」「愛する人の条件」「社会規範を守る理由」「思いやりの重要性」「継続研鑽の重要性」「伝統を守る重要性」「決断の方法」「覚悟を決めるということ」です。全て、かけがえのないものを守り、幸せに導くために必要な観点だと思っています。私の先祖代々の教えや、客観的に見て苦労の多い私の人生での気づきを分析して現状整理した観点です。男女関係ないです。

来年は、自他ともに更なる飛躍の年になるように、健康に気を配り、頑張りたいと思います。そうそう、健康というと、日々呼吸を意識することはとても大事です。腹式呼吸、逆複式呼吸どちらでもいいですが、鼻からいっぱい空気を吸って、口をすぼめて口からゆっくり長く吐く。心が落ち着いてきます。では、本年もありがとうございました。良いお年をお迎えください。

ご報告

久しぶりに投稿します。

今年に入って、色々本を書いていたり、他にチャレンジしたりすることも多く、ブログの更新が滞っていました。

ご報告ですが、先日、下記の本をアマゾンで出版しました。

https://amzn.asia/d/iSgDwtp

東京都の八王子市を流れる浅川。その河原で拾える石を紹介しました。

加えて、その石の観察から得られる学びと、それを課題解決へ応用する方法を提言しました。

※ 著者名は、ペンネームです。

Unlimited対応にしています。登録している方は、ダウンロードしてお楽しみください。

興味のある方は、お気楽に読んでいただけたらと思います。

何分、自分で手探りで書いてみたので、校正が不十分です。誤字脱字や表現のおかしなところがあると思います。もし、気になった方は、ご容赦ください。

では、よろしくお願いします。

駆除してよいものとそうでないものの判定

最近、熊を駆除してよいとか、してはならないとかいう論争をネット記事で目にすることがある。

熊を駆除してよい方の主な主張は、「人に危害を及ぼすから」である。

熊を駆除してはならない方の主な主張は、「可哀想だから」である。

本日は、この点についてつぶやきたいと思う。

この世には、様々な生命体が存在している。命の尊さという点で、全ての生命体の命を同等に扱うのならば、ある生命体のある個体が、同種、または別の生命体の命を奪うことは、良くないことである。不当に命を奪うことは、争いを生むからである。なんとなく、嫌な気分にもなる。

しかし、動物( 生物学的には、虫も含む )は、他の生命体の命を奪わずに、自らの命を維持することはできない。人間は、肉、魚、植物を食べねば死んでしまう。コアラのような草食動物も、ユーカリの葉を食べねば死んでしまう。虫だって、植物を食べねば死んでしまう。このことから、生命の維持のために他の生命体の命を奪うことは、動物の本能の一つであり、必然の行為といえる。

ところで、我々の日常生活に目を向けると、食(=生命維持の本能的行動 )でないのに他の生命体の命を奪う行為を人間は行っている。これは、正しい行動なのかを考える。例えば、排水溝周りの汚れ。細菌の集団に対して、我々は、アルカリ洗剤をかけてそれを溶かす。また、蚊やゴキブリは、駆除の対象である。これらの理由は、何であろうか?

排水溝周りの汚れは、放置すればそれは拡大する。やがて、菌類の発する胞子を人が呼吸を介して体内にいれることで、人は健康を害してしまう。だから、こまめに殺菌するのである。また、蚊に体の血を吸われると、皮膚に炎症反応が起きるし、その際に病気を植え付けられる可能性がある。さらに、ゴキブリが屋内を動き回ることで、病原体やアレルゲンがまき散らされ、健康被害が引き起こされる。だから、我々はこういった生命体を駆除するのである。この行為を非人道的だとか、動物愛護の観点から悪だとかいう人は聞いたことがない。我々人間にとっては、「自分の生活圏で、健康(=命)を脅かす生命体を駆除する行為は、正義」といえそうである。

では、この定義[ 人は、自分の生活圏で、健康(=命)を脅かす生命体を駆除する行為を正義とする ]について、もう少し考えてみる。例えば、アライグマやハクビシンを考える。彼らは、都心にもよくいる動物である。夜に動きまわるので、普段目にすることは少ない。農作物や外犬の餌の残りを食い散らかし、病気をまき散らすので、害獣である。捕まえたら、駆除の対象である。ただし、自分で捕まえて駆除することは禁止されており、専門の業者に相談の上対処することが求められる。この場合は、先の定義は正しく適用されるといえる。では、キタキツネはどうであろうか?彼らは、エキノコックスという人にとって害となる寄生虫をもっている。そのため、出会っても気軽に触ってはならない。しかし、彼らを害獣とよぶケースは少ない。なぜであろうか?彼らは、森に棲んでおり、畑などにあまりこないからである。もし、彼らが畑に大量に押しよせ、米やジャガイモを食い散らかすという事例が多発すれば、彼らは害獣となる。人の生活圏に入り、人の命の維持のための食糧を奪い、かつ病気をまき散らすので、人の健康を脅かすからである。

以上から、「人は、自分の生活圏で、健康(=命)を脅かす生命体を駆除する行為を正義とする 」は、ある程度は正しいと私は考える。図にすると、下記に当てはまる場合に、原則、駆除対象である。

では、熊を駆除することについて、上の定義に基づいて考えてみる。

熊は、基本的に野山、森の中に暮らす生き物である。しかし、食料調達の観点から、畑や家畜を食い荒らしたり、家の敷地に侵入したりする場合は、人の生活圏にくることもある。また、熊は、非常に憶病な性格なために普段は人に出会わないように注意を払うが、いざ対面する距離まで接近を許すと覚悟を決めて相手を殺傷する生き物である。その強力な力と、鋭利な爪による破壊力は、到底人の及ぶところではない。そんな衝動と力を備えた熊は、人の生命に危機を及ぼしうるのは明らかである。よって、田畑や町、家の庭に出没した熊は、駆除の対象である。

一方、野山や森は人の生活圏とはいいがたいので、そこで暮らす熊は、当然、駆除の対象外である。

ここで、人の生活圏に踏み入った熊に対して、「熊はそこが人の生活圏と知らないで入ったのだから、それで駆除されるのは可哀想だ!だから、熊は駆除してはならない。」と主張する方がいる。私は、この主張を受け入れることはできない。人を除いた動物が人の生活圏を明確に意識したかどうかは判別のしようがないし、今生活圏にいて殺傷本能むき出しの動物に対して可哀想云々をいっていたら自分や仲間の命が脅かされるからである。百歩譲って動物愛護の観点に少し配慮した議論をするとすれば、人の生活圏に現れる頻度によって生活圏にいるか否かを判定し、駆除方針を定めることであろう。

例えば下図の赤枠のように、生活圏での目撃頻度で、生活圏にいるかどうかを判断する。この辺りは、地方行政で話し合い、ことが起こった時に粛々と対応できるガイドラインを整備しておくことが大事だと思う。なお、目撃は、町中の監視カメラも含めるとする。

私個人としては、熊のように出会ってしまった場合に殺傷本能のスイッチがONになる生き物の場合は、町中で一件でも目撃された場合は即駆除するべきだと思う。誰かが殺傷されてからでは遅いからである。

以上、駆除してよいものとそうでないものの判定について、呟いてみた。可哀想云々という感情論を言う前に、自分や大切な人たちの安全と、対象生物の殺傷本能を理解した上で、どう対処するべきか考えてほしいと思う。