一つ思うこと

生きていると色んな人に出会う。その一人一人に、色んな感情を抱く。

好き、嫌い、カッコいい、優しい、死ね、クズ、消えろ、馬鹿、尊敬、崇拝、反省、嫉妬、ライバル、殺意、遊び、協力、愛している、、、

その感情によって、行動がうまれ、出来事が成立する。

好きが、告白という行動をいざない、愛が成立する。

殺意が、殺人という行動をいざない、犯罪が成立する。

競争意識をもつことで、切磋琢磨し、成長する。

その中で、ライバル、敵、仲間、伴侶、パートナー、指導者、友人、家族などといった、自分と人との関係が定まる。

そして、喜怒哀楽をしながら、人は生きていく。

その行きつく先は、死 であるが、その前にふと思うであろうことに最近気が付いた。それは、、、

世の中で出会った全ての人は、皆、仲間であるということである。

共に笑い、泣き、遊び、苦しみ、、、

共に競い、罵りあい、殺し合い、勝ち上がり、逃げ落ち、、、

共に気になり、好きになり、愛し合い、助け合い、、、

皆、同じ時代を生きた仲間たちである。彼らがいなければ、自分のこの人生は成り立たなかったのである。

こう思えれば、過去・現在・未来のあらゆる迷惑な、不愉快な、我の尊厳を打ち砕くような出会いをもたらしてくれた人々でさえも、我が人生を一緒に作ってくれた仲間であり、大切な人達なのだ。

許すこととは、別であるが、これは重要な気づきである。

「分解」と「組み立て」は大事

私の勤めている会社には、今年も新入社員が入ってきた。様々な人事研修があるのだが、そのうちの一つを私がやることになった。

内容は、金型、CAD、解析、試験法についてである。皆、業務の一環で参加していることを人事からきつく言われてか、眠りもせず、しっかり聞いてくれた。

時折、知識を問う感じではなく、過去の経験や直感的な感想を問う質問を交えたり、その内容にまつわる関係エピソードを聞かせたのが良かったのかもしれない。

例えば、「分解」業務というのがある。これは、競合他社製品を購入し、分解して、構造、技術、コストの分析を行い、次機種の開発に活用するために整理する業務である。

関係するエピソードとして、私が知っているのは、二つの話である。

「種子島の鉄砲伝来」

「シャープ創業者:早川氏のラジオ」

 1543年8月25日、種子島にポルトガルの商船が漂着。商人が、鉄砲という武器を日本人に紹介した。領主:種子島時堯(種子島氏14代当主、当時16歳)は、鉄砲の威力を知り、2挺(チョウ)の火縄銃を即購入した。現代の額にして数億円である。 その後、 1挺を幕府に献上し、もう 1挺 を鍛冶職人に分析させ、自力生産を命令した。そのとき、鍛冶職人:八坂金兵衛の取った方法が、丁寧な分解と組み立てを行い、「構造、仕組み、材料、長所、短所」を整理することであった。そして、必要な物は作り、無いものは代替材料を使いながら、試行錯誤を繰り返し、2年後に国産化に成功した。

 当時、ポルトガルやスペインは、鉄砲を餌に興味を引かせ、法外な値で売り付け、それができない場合は巨大艦隊で押し寄せ強制的に植民地化を行う政策を世界各国で行っていた。いわゆる、大航海時代である。日本にもそうした時代の流れの中でやってきた。しかし、大量の鉄砲を日本に売りつけ、不条理な要求を突きつけようとしたときには、日本は、独自に高品質な鉄砲を大量生産する体制を整えてしまっていたのである。その火力は、当時のヨーロッパ全土の3倍という予測を立てる人もいる。そのため、侵略を断念したという。

 未知の道具に対し、知識が無くても、分解と組み立てを丁寧に行い、整理し、独自の鉄砲を作り上げた、鍛冶職人の努力がもたらした勝利である。我が国を、守ってくれた尊い考え方なのである。

数理モデル、シミュレーションなどがもてはやされる昨今だが、この職人魂を我々は忘れてはならない。

同じような話が、シャープ創業者の早川徳治氏にもある。。。が、これは、また今後。お休み。



記憶について思考錯誤

 目で見たものを覚えていて、その細部を完全に再現できる人が少なからずいるようだ。この人たちは、例えば、教科書を一度「見た」だけで、何ページの何処にどのような物が書いてあるかを思い出すことができるという。

 なんと羨ましい能力であろうか・・・。図書館や本屋さんに行けば、無限の知識を手に入れられる。かかるのは、ページをパララララとめくる時間だけである。得た知識は、資格習得や仕事に活用して収入UPにもつなげられるし、生活の質を高めることもできる。

 自分にはできないのだろうか???

 試しに、適当な本を一秒ほどの速度でめくってみる。。。到底、内容などは頭に入ってこない。覚えているのは、「ページをめくったという行動」「本のページのボンヤリした風景」だけである。肝心の詳細な「文字や絵」は、全く思い出すことはできない。

 ここで、今、できたことと、できなかったことは何だろう?

 ・できたこと:行動そのもの、ぼんやりした風景

 ・できなかったこと:詳細な文字や絵の再現


 できたことは、何故できたのだろうか?

行動は、自分で決めたことである。また、その行動を実際に時間をかけて行うことで、記憶に重みずけがされている。だから、容易にできたのであろう。。。

ぼんやりした風景を思い出すことができたのは、その道具を行動の間中、ぼんやりと認知し続けていたからだと思っている。記憶が、インパクトとそれにふれた回数(時間)で強化されると聞いたことがあるので、ぼんやり覚えているということは、ぼんやりした理解を繰り返していたと考えたからである。

でもここで疑問が生まれる。なんで、ぼんやりなの?紙面上の文字を図形として眺めることは容易である。一つ一つ、しっかりと眺めることも容易である。瞳でとらえられる領域のピントを合わせるのも容易である。ピントを合わせることは、ぼんやりとではなく、明確に風景を見ている証拠である。しかし、その再現はできないのである。

見る時間が足りないのだろうか?見る回数が足りないのだろうか?試しに、5秒から30秒に見る時間を伸ばしてみる。そして、目を閉じて、その風景を思い出そうとしてみる。何となく、文字列らしきものが思い出されそうな気がするが、詳細は無理である。

一方、5秒見て目を閉じて思い出そうとする。また5秒見て目を閉じて思い出そうとする。を6回行う。こちらは、先ほどより思い出すことができる。

この実験では、見るとき、思い出すときに、言葉は絶対に使わないと決心している。

ここまでやって、見たものを言語でとらえなおさないで直接思い出そうとした場合、「見る&思い出す」を何度か繰り返さないと思い出せないと分かった。

つまり、カメラアイを持っている人は、どうやら、思い出す力が凄いようだ。

こう考えると、カメラアイの持ち主は、思い出し方が常人と異なるのではないかと思うようになる。

人は、思いだすとき、どうしているのだろうか?目をつむる?目をつむったら、思い出せる?

私が、昔から思い出すためにやっていることは、関連しそうな言葉の列挙である。そして、何かの言葉をきっかけに、言葉で記憶していたことが思い出されるのである。

ex). あの女優 →Xというドラマに出ていて、A子の役やっていた。→ YやZというドラマにも出ていた→Zについて友人と話した場面を思い出し、さんざん口にしたBという女優の名前を思い出す

風景を思い出すことはできるだろうか?目を閉じても視界は暗いか、眼球がかすかに捉えた光を脳が何物かに解釈しようとして薄ぼんやりした像が色々変わりながらまぶたに移るだけである。

ただ、「椅子」と聞けば、自分で好き勝手に作った心の中の場に、ポツンとある椅子をイメージできる。その世界の色は自由自在であり、椅子と聞けば、椅子が中心に静止しているのをイメージできる。

このとき登場する椅子は、多分、昔見たことがある物がベースになっていて、自分の理解の中で無意識に加工された物が出てくるのではないかと思う。というのは、見たことが無いものは、知っているものを組み合わせて作るしかないからである。

ここで、この私のイメージは、頭に力を入れていてもボンヤリとしかできず、胸?に意識を向けたときに、少し明瞭にできる。イメージしている物が、過去の記憶だとして、それが頭や瞼に力を入れても上手く出来ず、胸の辺りでやろうとすると少し改善される。このことから、想起する際のコツは、意識を頭以外の場所におくことが大事なのではないかと思うのである。

じゃあ、目に力を入れて物を5秒間明瞭にみて、目を閉じて、胸に力を入れて思い出せるであろうか??

→ やってみてもあまり変わらない。

目と胸に力を入れて物を5秒間明瞭にみて、目を閉じて、胸に力を入れて思い出せるであろうか?

→ 何となく、風景が左目の後ろ辺りに残りそうな残像感がある。

このことから、今の私が思うのは、カメラアイの人は、見るときの意識を置く場所と、思い出す時の意識の場所が、頭以外にあると思う。

今日はここまで。引き続き、記憶と想起について、独自に試行錯誤していきたいと思う。