改良設計ではなく、創造設計を目指そう

昔から日本人は「猿真似博士」と揶揄されることがある。というのも、古代から海外の新たな概念を柔軟に受け入れ、分析と創意工夫によって真似て、短期間で彼ら以上の物を作ってきたからだ。その真骨頂は、「分析と改良能力」である。しかし、こうした能力は、技術が飽和したり、新たな技術が入ってこなくなったときに一気に弱さを露呈する。例えば、太平洋戦争時の日本は、模倣するべきエンジンや過給機などの先進的な技術をドイツを除いた欧米から仕入れることができなくなったり、良質な材料が得られなかったりで改良の限界に直面し、技術的に敗北した。そんなことは無いという人がいるが、冷静に当時の兵器を見れば、多くの点で欧米に劣っている。また、日本の電機産業がこの30年弱で一気に弱体化した一つの大きな原因は、日本の半導体産業を抑え込むために欧米諸国から強制的に結ばされた半導体協定である。これにより、開発と販売が自由にできなくなり、その間に、台湾・中国・韓国の台頭を許すことになってしまった。半導体の高度な技術がなければ、あらゆる電気製品は高額な二流三流品を作ることになる。昨今のパソコンやタブレットの日本製品の少なさ、あってもその低性能かつ高価格ぶりには、泣きたくなってしまう。また、AIの進歩により、自動分析や複合的な問題解決手法の立案が進む中、日本人の能力の価値が薄れてきている。これは国力の衰退に拍車をかける、深刻な現実である。

ここまでで何が言いたいかというと、従来の単なる改良設計の延長上には、我々日本の産業は、欧米中韓とAIに仕事を奪われ、その稀少な能力も国力も衰退し、彼らの産業的かつ知的奴隷になり下がるということである。日本の代名詞であった電機産業の衰退をみれば、この現状を楽観視する愚か者はいないことを信じたい。そうならないために、私は、改良設計に加え、創造設計を意識的に行える体制を整えることを提言したい。

創造設計とは何かを述べる前に、既存の在り方について改めて整理することにする。下に、ある製品種に、改良設計の対象となりうるような問題意識を施した場合、未来にどういった製品種になるかの私のイメージを記した。

図1. 改良設計を施した未来にあるのは、今ある製品種が良くなった物でしかない

車に、SDGsや人間工学、高効率化とった個別の視点で技術的な改良を施しても、それは車でしかない。それでは、社会生活は変わらないし、国際条約、協定、法律によって車の急な規制追加がされたときに急に販売が滞ることになる。そして、こうした条約や協定に抗う力をもつ帝国主義や独裁国家の産業戦争に敗北するのである。これは、半導体、CPU、携帯電話、スマートフォン、パソコン、タブレットで今まさに起こったこと、起こっていることである。こうした敗北を回避するためには、常に複数の産業を育む戦略方針を設け、その時々で柔軟に調整していくことが必要である。そのために、日本はその民族的に得意とする分析力によって、改良だけでなく、革新のための開発形態を整えていくことが重要だと思うのである。では、革新を起こすには、どんな設計をしなければならないであろうか?下に、私のイメージを描いた。

図2. 既存製品が、革新によって生まれ変わるイメージ

上図において、改良設計から創造設計に意識を変えることで、時間軸が変わり、作られる製品種が変わるイメージを示した。改良設計というのは、まず模倣とする対象があり、その問題を見つけ、改良する方法である。それに対して創造設計というのは、一から目的のモノを作る方法である。一から作るためには、まず設計対象を簡単化し、自然科学の法則を使って組み合わせ、目的のモノを作っていく必要がある。ここで重要なのは、改良設計は一番最初の模倣とするべき物に縛られるのに対し、創造設計は自然科学の法則に縛られるということである。従って、例えば、移動するためには「車を使わねばらない」という発想ではなく、速度や時間のレベルで最適な実現方法を学術的であったり、自然現象の観察であったりから模索しようとし、その次に効率や快適性を模索しようとするのである。これが、「抽象化&集合知」「自然模倣」の意味するところである。「極小多機能化」は、とにかく多くの機能を極限まで小さくすることを目指す発想である。つまり、問題が起ころうが、目的のために限界を常に突破させる方法である。この際、コストや法律、利便性といった実用性という概念を持ち出すと、この試みは必ず失敗する。日本の電機産業衰退のまた別の一つの理由がこういった新技術開発における譲歩無き実用性の要求にある。話を戻して、「複合改良設計」である。これは、複数の改良設計を擦り合わせる方法である。一番日本人が得意とする方法であり、(言語や宗教的に)我の強い外国人は苦手である。実は、改良設計として30年以上前ではよく行われていたのだが、物事のシステム化が進む中で開発対象の細分化が進み、その結果、他分野から知識を吸収し融合させる意識が薄れてしまった。そこで、改めてそれを定義することにした。最後に「曖昧さの許容」である。物事を白と黒に明確に分けたがる人は多いが、物事がどちらかに割り切れない曖昧な要素を帯びていることを我々は知っている。むしろ、この曖昧性こそが自然の一つの本質的な在り方である。生物には、曖昧性があるからこそ環境への適応や進化が可能となるのである。であるにもかかわらず、何か物を作ろうする我々は、この曖昧性を許さないところがある。その結果、ユーザーが限定されたり、何より進化や適応性の乏しい製品が出来上がり早々に市場から淘汰されるのである。曖昧な要素を削り取るだけではなく、あえて残し進化や適応の可能性を探る、そうした視点を意識づけるためにここに定義することにした。

以上、いわゆるパラダイムシフト、ブレイクスルーを起こすための私なりの考え方として創造設計というのを提言してみた。私のいうことが全て正しいと言うつもりはまったくない。しかし、この記事を読んだ方が日本や世界をよりよくするために考えるきっかけとなり、それが世の中のモノ作りを変える小さな原動力になれば幸いである。

性的少数について理解しろといってもね…

体と心の性が違う人は、少数派である。

民主主義は、多数決の原理を採用する組織の意思決定の在り方である。しかし、民主主義は、少数意見を尊重するという理念も含む。この尊重というのは、配慮するということであって、絶対ではない。絶対にしてしまうと多数決をする意味がなくなるからである。この少数意見の尊重を、絶対的に守られるべきものととらえて声を荒げる少数派が極めて多いが、あなた方は、あくまでも穏やかに、そして社会に対して「お願いをする」立場であるのであるというのを忘れてはならない。

以上から、少数派は、大多数派にお願いをして、「自分たちの主張を全面的に勝ち取ること」を目指すのではなく、「妥協案・折衷案を得ること」を目指すべきなのである。この妥協案や折衷案を得ることすら拒否する輩は、精神的に幼い子供と同じなので、まず正しい知識教育によって自分たちの立場を教え、その上で再度議論することが必要となる。この手間すら許されない場合は、そうした方を、社会的に抹殺するか、無視・放置するしかない。なぜなら、民主主義体制を乱す要素にしかならないからである。害にしかならない要素は、取り除くか、時間が解決するのに任せるしかない。

ところで、公共施設や服装は、主に、体の性の違いに基づいて作られている。これは、体の性の違いによって、社会的に不合理が起こらないように「区別」するためのものである。この区別を差別として騒ぐ人がいないのは、刷り込み教育と、男女それぞれにとってそうあることが合理的かつ安全であるからである。お手洗いの入り口で、第三者からも分かるように、自分の体の性に合わせた空間を選ぶ行為は、本来は自分の体の性という情報を外に表現することなので、恥ずかしい行為である。もし、これらに精神的反発を覚える者がいるのならば、お手洗いなどの公共施設の入り口に壁を立て、壁の内側でどちらを選択するかが、外から見えないようにするなどの配慮が必要であろう。

さて、話を戻してジェンダーレスの人たちの扱い方について考えてみる。彼らを扱うときに何が困るかというと、一つは、「心の性別が外見からは分からないこと」である。もう一つは、「心と体の性が異なる人が、心の性のままに設備を使うこと」である。

一つ目がなぜ問題かというと、少数派の人を外見から区別できないからである。そしてそれによって、二つ目の問題がおき、大多数の人の設備の安全な利用が脅かされるからである。例えば、心と体が女性の方が女性用のお手洗いを使うときに、どうみてもオネエの方( 心は女性、体は男性 )が入ってきたとする。このとき、騒ぐであろう。なぜか?それは、自分の女性の体が脅威に晒される可能性を感じるからである。オネエといっても、体には男性器がある(かもしれず)、したがって男性ホルモンの働きによる筋力的強さと、女性を妊娠させる生殖機能を備えている(かもしれない)。いわゆる戦闘力を察知するので、騒ぐのである。ちなみに、この逆の場合は、当事者が身の危険を感じて、女性トイレを使うことで自然と落ち着く気がしている。狼の群れに自分から入る羊がいないのと同じだからである。

では、本題だが、彼らを扱うときに、まず、絶対に確保しなければならないのは、民主主義の原則である、大多数の意見、今回の場合は、心と体の性が一致した者たちが使う設備の安全である。ここに、心と体が不一致の者が入ってこないようにしなければならない。これが基本である。したがって、ジェンダーレスの人用の設備を新たに増設するのが合理的である。こうすれば、「心は女性で体は男性」が、女性用トイレに入ってくる心配はない。女性の安全が守られる。逆の場合も、男たちが変に気をつかうこともなく、当事者の安全もいったん守られる。次に、ジェンダーレスの人たちのトイレの構造についてであるが、厳密には、体の構造別に設備を分けなければならない。やはり、体の構造別に備えておく設備が異なるからである。また、ジェンダーレスの設備を、そうでない者が使って、本来使うべき人が被害を受けるリスクを軽減させることにもなるからである。例えば、心は男性で体は女性の方の設備を、全ての体が男性の人が使える状態になっていたら、本来の使用者は不届き者の餌食になる犯罪が大いに予想できる。よって、設備はしっかり分ける必要があるのである。これらの設備の区別を予算の都合上やらないとするならば、従来通り、ジェンダーレスの方には公共のお手洗いを利用するときは「心を殺して、体の性にあった方の利用」を民意に基づく権力を行使して指示しなければならない。この際、間違っても「補償」などはしてはならない。補償目当ての不届き者が増大するからである。こうした毅然とした在り方が、本来の法治国家であり、我々が縛られるべきものである。

図1. トランスの方々のためのトイレの在り方案

最近身近でよく見かける生き物

9月に入り、夜はやっと30℃を下回るような気候になってきました。

東京、神奈川では、蝉の声も一気に少なくなりました。ただ、日中は相変わらずの暑さです。熱中症には注意したいところです。あと、コロナにも。。。

ところで、最近、家でも、会社でも、よく見かける生き物がいるので、今日はそれを紹介したいと思います。まずは写真から、、、

この写真は、先週の夜8:00に仕事を終えて退社するときに、会社の壁に貼り付いていた奴です。私が子供の頃からしばしば目にしてきたトカゲよりはプックリしている奴です。こいつが、会社の広い壁に結構へばりついていたのです。因みに、私の自宅でもこの小さい奴がたまに出没します。。。

調べると、これは「日本ヤモリ」という日本原生種だそうです。北海道と九州の一部を除いて国内に広く生息している生き物だそうです。でも、こんなに沢山いるとは思いませんでした。。。それよりもなによりも、三十数年生きてきて、こんな身近に、こんな生物がいることに気が付かなかったことに、とても驚かされました。精神状態や意識が少しだけ変わったのだろうか。。。

話は少し変わりますが、ヤモリは、漢字で書くと「家守」だそうです。

古来より、火事などの厄災を防ぐ、つまり家を守ってくれる存在として崇められてきた生き物だそうです。また、家を守る、つまり、家を繁栄させるという解釈から、財運や良縁、子孫繁栄の吉兆を示す生き物としてやはり大切にされてきたそうです。さらに、家の内外にいる蟻や蜘蛛、ダニ、コバエなど野害虫を食べてくれるので、とても良い奴だそうです。ということで、最近のこの発見を吉兆として、これから起こることを楽しみたいと思います🤗

都内にもいたるところに出没するそうなので、皆さんも夜、塀や壁をよーーーく見てみてください。きっと、体長10cm前後の日本ヤモリが、壁にピトンッ!と貼り付いているのに気が付くと思います!

ではでは!

記憶をしやすくするちょっとした工夫

以前からこのブログでは、記憶についてしばしば呟いている。

以前、記憶とは、「記憶する物事に対する感覚・感情・印象のことである」と私見を述べた。従って、日頃から感性を豊かにしたり、瞑想をして感情の制御を柔軟にできるようにすることで、記憶力が向上すると述べてきた。

さて、今回は、最近気が付いた、記憶がしやすくなるちょっとした工夫について紹介する。それは、

「対象を大きく捉える」ということである。例えば、ここに体長1mと、体長0.1mmのゴキブリがいたとする。どちらのゴキブリに、より注目できるであろうか??当然、1mのゴキブリの方であろう。そして、一発で、この出来事は記憶に深く刻まれることであろう。。。

覚えたい対象を大きく捉えることは、そのものへの注意を促すことを意味する。

逆に、小さく捉えることは、そのものへの注意を散漫にすることを意味すると私は思う。

というのも、小さく捉えることは、「視野角で捉えた像の中から必要な情報を選別する作業が、より必要となる行い」であると思うからである。例え、真っ白な紙に、黒のインクで小さな文字を書いたとしても、脳内では、「その広大な空白を意味のない情報であると選別する作業」を無意識に行っているのである。

今後、何かノートにメモを取るときは、できるだけ大きな文字で書くことを推奨したい。

また、ノートがなくても見た物をより強く記憶したければ、対象を脳内のイメージであらん限り大きくし、印象を強くするなどをすると良いと思う。( もっとも、これは昔からよく言われている記憶術ですが… )

【本日の動画】

何気ない自然の風景でも、目立つものは大きな物体です。覚えたい物を目立たせる工夫をして、仕事や勉強を効率的にやっていきたいですね!

工業デザイナーについて

企業が新製品発表会を開くと、その場には役員、企画者、そして工業デザイナーが出席し、製品の素晴らしさを雄弁に語る。

後日、Wikipediaなどの情報サイトで、その製品の記事をみると、開発者のところに主任工業デザイナーの名前が記されることが多い。

正直、機構設計者として働いてきた私としては、こうった扱いを目の当たりにする度に、残念な気持ちでならない。優秀なエンジニアが日本企業を見限って去っていくのも納得である。なぜなら、だれよりも、その製品のことをはじめから真剣に考え、何千回もテストし、苦しんで生み出した製品を、、そのお披露目の場で企画者と工業デザイナーに手柄を全て持っていかれるからである。せめて、自分たちを鼓舞し、監督をした設計部長と設計主任が出席し、一言述べてもらわなければ納得いかないと思う。。

ところで、日本の多くの工業デザイナーがどういった仕事をしているのかを、簡単に述べる。

今日の彼らは、反感覚悟であえて一言でいえば、「芸術家」である。現状、機構設計者としての私から見た彼らは、「自分(たち)の中に独自にモチーフを定め、その特徴を新製品に反映させる」ことをやっているだけの人である。「工業」という肩書を持っていながら、物の作られ方、強度、製品に求められている事項、及びその優先度を理解していない人が大多数である。今まで公私問わず出会ってきた工業デザイナーは20人近くいるが、1人の方を除いて皆、芸術家に過ぎなかった。某車メーカーの有名な車種の主任デザイナーと胸を張っていた方々も、その車の設計概念、想定顧客を理解されていないようであった。具体例を挙げると、ある人などは、「俺が学生時代に作ろうと思った形を具現化させたんだ!設計部の連中が空力抵抗とか、予算内で製造できないとか、法律とか言っていたが、引かなかったね。だって、俺らデザイナーが首を縦にふらなきゃ製品Goされないんだから。」 などと言う始末。これが異常であることは、最早説明をする必要はないであろう。

本来、工業デザイナーとは、機構設計者などが、製品に求められる在り方( 顧客、機能、強度、予算、製造方法、法律 etc )を具現化した粗削りな形状を、その機能を損なわない中で洗練させていくのが仕事である。その洗練の際に、担当デザイナーが独自にモチーフを定め、反映させるのは自由である。しかし、その為に、単価が1.5倍、2倍も跳ね上がって良いはずがない。彼らが影響力を持てる要素は、初めから極めて少ないのである。

つまり、彼らの仕事は、成果を示しにくい極めて泥臭く、深遠な世界なのである。というのは、彼らがデザインの元とする「機構設計者の粗削りな形状」は、その80%以上は全て構造的に意味のある形で変更は基本不可能なので、工業デザイナーは、残りの多くとも20%で独自性を示さねばならないからである。華々しいわけがなく、しかもその僅かな関わりに誇りを見出さねばならない。これを深遠な世界と呼ばずして何と表現すればよいのであろうか。

あるデザイナーの仕事を一例に説明する。例えば、ある製品のデザインを担当するとき、あるデザイナーは、「ガンダムをモチーフにして、製品の一部の凹凸を額当て部と分かるようにC面、R、勾配を設定し、配色に拘りました!」などといったりする。この際、C,R,勾配設定が、製品の機能や強度に影響を及ぼす場合は、設計部は強くその具現化を拒む。なぜなら、お客様の安心と安全に直結するからである。そこで、このデザイナーは自分の業務成果である額当て部の形状を高確率で妥協することになり、ガンダムをモチーフにしたものの、配色しか成果がないことになる。しかし、ここで腐らず、「○○しているときのガンダムには、原色に加え、度重なる戦闘で被った荒廃色(←?)があり、それが見る者の視覚を強く刺激し、臨場感を生み出しています。多くのファンは、この原色+荒廃色に惹かれ、益々愛着を感じるのであります!」などと語られたときには、私は涙してしまう。その者の熱意と深い世界観が奥にあるように感じるからである。

これは、如何に工業デザイナーの仕事が泥臭く深遠であるかを示した例であり、本来の姿である。これが華々しく、外観の根本的な形状をデザイナーが作ったことになっている場合は、メディの力が異常か、機構設計者が仕事をしていないか、その会社の企画・営業・デザイナーの権力が異常であるかである( 特に本当に最後の場合である場合は、不正や不備があることを覚悟した方が良い )。

最後に、機構設計者として、工業デザイナーの方に心がけて頂きたい仕事への取組み方をまとめておきたいと思う。

①. 製品コンセプト( 想定顧客, 想定される使われ方, 機能, 予算 )は、必ず理解しましょう。企画や設計者の考えを理解することに大いに役立ちます。何より、お客様の顔が理解できます。

②. 機構設計者と打ち合わせする際は、必要機能や強度を出すのに絶対必要な要素をヒアリングしましょう。言い換えれば、デザイン自由度を洗い出しましょう。曖昧な箇所には、手を出さないでおきましょう( 手を出したVerもデザインできればとても優秀です。 )

③. 日頃から、物の作られ方と強度について勉強しましょう。特に、樹脂と金属の金型の知識や加色技術については、知らなければなりません。それが、機構設計者の作った形状を理解することになりますし、自分たちが絵に描いた餅を作っているのではないというプロ意識を養うことになります。

④. 20%以下の自由度の中で、自分の独自性を盛り込む仕事であることを理解すること。構造的な領域に足を踏み入れ、自分のデザインの成立性を提案するのも良いですが、それが成功することは基本的にありません。理由は、あなたよりその分野に長けた設計部の技師たちが何千回もの検証してきた形を否定することになるからです。ただ、理論的に正しいという自信があるなら提案してみてください。例え失敗しても、あなたの努力と熱意は設計者の心を打ちます。それはあなたへの信用につながり、次の仕事を有意義なものにします。

なお、デザインをするときにモチーフを定めると思いますが、そのとき、多くの方が固有名詞に終始しがちです。ガンダム、ピカチュー、チーズケーキ、シュークリームなどです。これらは、既にとても有名で、その特徴的な外観も皆よく知っています。よって、デザイン後に特徴的な形状が否定されたら、あなたの独自性が容易に喪失してしまいます。そうならないように、おススメの方法があります。それは、「物体の動きを持たせたものをモチーフにする」ということです。例えば、改装完了で気力が充実しているときのガンダムは、アニメの演出上、特殊な光沢やオーラを放って表現されます。よって、もしあなたが「改装完了で気力満点で、出撃直後のガンダム」をモチーフに選んだのならば、、その時点であなたの独自性が強く発動します。その後のデザインの仕事も他のデザイナーの勝手な解釈に基づく入れ知恵(?)に悩まされることも減ります。だって、盛り込みたいモチーフを最も理解しているのは、他人ではなく、あなた自身なのですから。

以上、工業デザイナーの仕事と在り方について、私見を述べた。

工業デザイナーとは、「機構設計者の示した機能と強度を凝縮具現化した形状を崩さないで、芸術家の筆を入れる」者たちである。前述した某車のデザイナーのように、芸術ありきの工業製品など基本成立しない。無駄なコストアップや、機能未達、法律違反を招くからである。一昔前ならそれも許されたかもしれない。というのも、そういった機能未達や法律違反も見た目には分からず、露呈しにくかったからである。しかし、情報社会になり、多くの検証方法が民間でも気軽にできるようになってきた昨今では、そうもいかない。そういうわけで、これからの工業デザイナーは、益々、自分たちが背負った「工業」の肩書を深く理解し、天狗にならず、職務に当たるべきだと思うのである。