求めるもの

友人に、「お前は理想が高過ぎなのでは?」と言われることがある。

そうかもしれない。。

私は、「社会生活上は男女平等が謳われ、男女関係では女尊男卑(レディーファースト)が常識とされ、職場でもそれが適用されることの多い現状」に正直、嫌気がさしてしまっているのだ。

私は、ただ「分をわきまえ、互いに協力し合い、常に将来を会話できる(=向上心がある?)」人を求めているだけである。つまり、対等な関係で接することのできる人を求めているだけである。ここが、出会う女性たちの描く、レディーファーストの感覚とずれているためか、いつも私から引いてしまう(上手くいかないことは明白だからである)。私は、協力できるかどうか、向上心があるかどうかを、趣味やちょっとした雑談から感じ取っている。例えば休日に、創造的な活動、健康的な活動、協調性を必要とする活動を何一つせず、受動的に生きている人は、たとえ私がその人の外見を凄く愛し、献身的に尽くしたとしても、1年と持たないであろう。。。世の中を見渡してみて、創造的、健康的、協調性を必要とする活動を何一つしていない人は、、大変多い。

音楽、美術、料理、DIY、運動、資格習得など、鑑賞するだけでなく、自らもやろうとする人を私は心から尊敬し、愛したい。それは、その活動をする人を見ているだけで、私が癒されるし、自分も成長できると思うからである。。そんな人は、恋人や夫婦になっても、共に協力してやっていけると感じる。

※ 私が、モノ作りが好きで、そのために鑑賞を愛し感性の上達を怠らず、禁欲に勤め倹約を良しとする健康オタクであり、平日は多くの人と協力しながら仕事をしていることを、改めて申し上げておく。

一方で、趣味は鑑賞、旅行、、ディズニーなどの人は、、私はとても胸が苦しくなる。それは、疲れていたり、見るだけの人たちだったりするからだ。。そんな人は、恋人や夫婦になっても、私に依存し、何か問題があれば私を貶し、互いに離れることになると予想できる。私は、私に依存してほしくない。縁あって私の人生のパートナーになる方には、一人の人間として、活き活きとして欲しいのだ。

私の周りの既婚者たちをみると、、与えられることを求める妻をもったために、苦労し、ボロボロになっている者たちがとても多い。その逆もしかり。希望の光は、子供であるようにみえるが、、子供がいなければとっくに分かれていると感じられる人があまりにも多い。。

私の理想が高すぎるかもしれないと申し上げたのは、こういう理由からである。

ところで、男女の社会的平等性は、実は、昔から現在まで何も変わっていないと感じることが最近増えた。。

昔は、生きるための仕事とは、主に戦いであった。戦場である。そこは、力が生存を大きく左右する世界である。そこに、力の弱い者、守りたい者へのルールなどありようがないのだ。あえていえば、邪魔をするなだろうか。。逆に、家事や子育てという重要な仕事もあり、女性の母性や愛情、知性が極めて大事であったので、むしろ男性が邪魔であり、不入の場であった。こうした適材適所を、忘れているのではないだろうか。。

力の弱い者、男が守りたい者とは、それは、女性と子供である。

時代が平和になり、命を取り合う戦いの気配が遠のいた日本において、戦場は、一般的な職場に置き換えて表現されるようになった( 近いうちに、また戦争が来る気がしてならないが..)。そこは、力ではなく、頭脳が求められる場所である。よって、頭脳が優れていれば、性差は関係ない。そこで、戦場では必要のなかった女性や子供のルールが求められることになった。

男尊女卑!レディーファースト!女性が台頭するべきなのだ!などという表現は、戦場から置き換わった現代の職場における、女性のルール化が遅れているだけだからである。私は、こういう時代なので、女性と対等に接したいのである。職場では一人の戦士として、プライベートでも一人の人として。。

ところで、なぜ同じ人間なのにルール化が必要なのか?それは、男がいて、女がいれば、互いに本能的にひかれあうからである。ひかれあった結果することは、仕事ではない。したがって、ルール化が必要なのである。ただ、この手のルール化は、今、遅れている。というより暗礁に乗り上げているように見える。それは、、、またの機会に書くことにする。

同様に、力(権力も含む)の弱い者と強い者が同じ空間にいたら、強い者は弱い者を貶める傾向にあるのも必然である。このままでは、力が弱くて、知能や将来のある者をつぶしてしまう。そこで、そうした弱い者を守るルールが必要なのである。

【本日の動画】中津川

水の流れは、心を癒してくれます。中津川のこの透き通った流れに触れていると、体中に力が湧いてくる気がします。水の中には、魚がいっぱい!

もう少しだ!

今週を乗り切れば、ぐっすり眠れる!!

と思って、突っ走ってきた。。

次から次へと、問題が発生し、、、日本の製造業の欠陥を身に染みて感じ、それを憂いて生きてきた。( 欠陥のない電気製品は、この世に存在しません。 )

ぐっすり眠ることは出来ないが、、80点ほどの製品がもうすぐ出来そうである。

とりあえず、日々一生懸命頑張ろうと思う。。

それにしても、自分が望んでなった職種なのに、望んでやっているはずの仕事なのに、なんで幸せを感じないのだろう。。。

なんで自分は、自分のプライベートを捧げ( 恋人って何だっけ?)、確実に身も心もボロボロになりながら会社に尽くしているのだろう。。。

こんな自問を最近しばしばしてきた。

最近気が付いたのだが、好きな仕事をしているのに、幸せを感じないのは、、その好きという感覚やその実現方法において、自己中なところがあって、議論や準備に疲労しているからなんだなということである。

言葉の上では、「世の中の人のために!」という大義を掲げて頑張っているが、そのために「自分の範疇でやってよいと定めた設計」を行い、その概念を他人に押し付けていたのではないかと思うようになったのである。だから、それを他人に否定されたときに、ストレスを感じ疲弊しているのではないかと、、でも世の中のためにと思っているから前進をやめないのではないかと、、、

もちろん、私は、まがいなりにも粗末な設計論を語れるような知識はあるので、世の中を分析し、傾向分析し、要求仕様にまとめられた事項を、満たす設計をしてきたつもりである。しかし、その「満たす」が、合意できない人がおり、そこに強いストレスを抱えていたと分かったのだ。

この合意できない人も、視野を広げれば、世の人の一人であるので、その意見は大事だ。私は、(既に要求分析がされて整理された)要求仕様こそが全てで、今更何を言っているの?と邪見にし過ぎてきた。いや、基本的に、私のスタンスは正しいはずだが、その要求分析の解釈について(いつでも)議論をしなければならないということなのだ。言葉というものは、本当に人によって180度近く捉え方が違う。。。

ここに気が付いて、また少し成長できた気がする。他人にももっと優しくなれそうである。ここに気が付かないで偉くなったり、苦しんで貶されることを良しとしつぶれる人は多い。

この気づきに感謝したいと思う。

【本日の動画】:次から次へと現れる水鳥(オオバン)

自分らしさ

自分らしさとは何だろ。

私は、物事の判断の仕方 のことだと思っている。全ての物事は、判断の積み重ねであり、その過程と結果を自他ともに評するときに「らしさ」という表現が使われるからである。

物事は、無限にある。よって、判断の仕方も同じく無限にある。

しかし、判断を下すまでの過程は、あまり多くないように感じる。それは、私が今まで生きてきた中で、主に四つの考え方に集約されるように感じているからである。

① 情報収集する。

② できる奴を探して、やらせることを考える。

③ 自分の過去の経験との等価性を見出し、類推し、解決しようとする。

④ 何も考えずに、とりあえずやってみる。

①は、自分の強い考えがないので、とにかく話を聞きまわり、分析し、意思決定するという人である。

②は、社長や管理職に多い特性である。基本的に、自分はやらせることしか考えていない。ただし、物事の成功した在り方を明確に描けている人であり、自分でも何とかできる人でないと、只の暴君となってしまう。

③は、いかなることも、自分で解決しようとする人である。そのため、ときに無駄が多く、苦労が絶えないという欠点もあるが、出来ることが増え、世の中を落ち着いて観察し、自分事としてとらえられる人である。

④は、周りに流される者である。短絡的であり、終わりよければ全てよしとする人である。動物や子供がそうである。可愛いが、大人がそれじゃあね。。

どれも人間らしくて、良いと思う。

実務レベルでは、私は③の人であり、④の人とは馬が合わない。

この手の人は、とにかく誠意と一生懸命さでやる気を示し、同時に、良いことが起こりそうなことを感じさせれば、仲間になってくれることが多い気がしている。

また、①の人間は、新規性のある物を作るときには、ときに厄介である。というのも、前提として情報収集を行う時点で、その割合の大小に関わらず他人の模倣をしているからだ。ただし、新規性のある物は、既存技術の組み合わせであることも事実なので、①の人間の成果を活かす「気組み(=気持ち)」でいれば、共によい判断をしていけると確信している。

さらに、この①の人は、判断が遅い傾向もある。情報収集している途中に目的を見失ったり、情報に目移りして結局タイミングを逃したりである。この手の人種は、「分析力」と「判断するための期限を決め打ちする勇気」が必要である。

ご自分の判断の特性が①~④のどれになるかを考えてみると、好きな人をよりすきになる方法、苦手な人や嫌いな人を受け入れる心の在り方を見出せるかもしれません。