戦争で兵士が突撃できる心理

今、世界の情勢は不味い方向に向かっている。巨大国間の思想の相違は色濃さを増し、その傀儡国家と化した貧国や武装組織を媒体として、世界各地で紛争が起こっている。

我が日本の領海も、ロシア、中国、北朝鮮によって、日々侵されている。自衛隊や海上保安庁の方々と、日本国の安寧を祈って下さる天皇には、敬意と感謝の気持ちをもってやまない。

こんな時代、私は一人の国民として、常に、真に命をかけた戦闘をする心構えを養ってくことが大事であると思うのである。

さて、このように考えた時、今の自分や、周囲の者たちを見てみて、国家によって徴兵され、眼前の敵に対して下知された突撃をできる者は何人いると思うであろうか?

私は、今の日本人には、自殺志願者と薬をやっている者を除いて、突撃は不可能であると思うのである。なぜなら、我々はあまりにも利己的になり過ぎてしまったからである。利己的というのは、自分(たち)の利益のみを追求する様 をさす。

利己的である人は、自分の利益、つまり自分の幸せのみを考える。だから、誰かに「死ぬかもしれない場所に、突撃しろ!」と言われても、不可能である。

良く、戦争の節目となる事件のあった日がくると、テレビでそのドキュメンタリーが放送され、それに対するネット書き込みを目にする。するとそこには、例えば、「特攻隊の人は、きっと薬を飲まされていたに違いない」とか、「洗脳教育をされていたに違いない」とか、「自殺しに行くなんて絶対にまともじゃない。異常者だ。」とかいうニュアンスの書き込みが散見される。

平和な時代が偶然続いた今の時代背景を前提として、その結果、利己的になってしまった現代日本人からすれば、そうとしか思えないのが当然である。だが、戦前の日本人は、きっと違った考えを持っていたはずである。それは、大きく二つの背景を知れば、自ずと理解できるように思うからである。

① 「国家による徴兵制、それを拒んだ者への法的な制裁(=死刑)と、それによる世間の目による家族への影響から、行かざるを得ないという」受動的背景

② (国家への帰属意識と愛国心が高いことが前提で)「愛する国土、家族、恋人、次の世代の子供達が生きる為の殺し合いならば、刺し違えてでも、是が非でも勝たなければならないという」能動的背景

これらの概念的背景があると、「拒んでも死、しかも残った家族が社会的に辱めを受けるなら、前進して僅かな生を掴もう」「国の一般兵器で敗戦がほぼ確定てきなら、このまま戦っても無駄死にしかない。是が非でも勝ち、国土や愛する者を守らねばならない。ならば、最高の兵器で突撃し、一人でも多くの敵を道ずれにして死のう」という発想になると思うのである。少なくとも、私は、自分の母や、まだ見ぬ妻や子が、自分が死んだときに確実に敵に弄ばれて殺されると思うのならば、自分がどうなろうと相手との戦いを選ぶからである。ただ、私もむやみに命を投げ出すつもりはない。その為に、「敵が、私の愛する者たちにどんな危害を加えうるのか?」を瞬間的に察知する分析力と、「いざ戦ったさいに制圧する力と精神」を生涯にわたって養っておきたいと思うのである。

私の祖母には、12人の兄弟姉妹がいた。祖母は、12番目の子であり、上に9人の兄がいた。その内7人が特攻した。祖母の兄たちは皆、師範学校を主席か次席で卒業する秀才たちであったらしい。祖母は、数年前に他界したが、90歳近くまで一生懸命に生きたのは、恐らく、兄たちの死に報いる為であったと思うのである。祖母の兄らの悲願は、日本国の敗戦で叶わなかったが、米兵は兄たちが守ろうとした者の一部である家族の命を奪うことはしなかったので、そこは救いであったと思うのである。もし、エリートであった祖母の兄らが、敗戦しても国土や愛する者は奪われないと予測できたのならば、敗戦しても日本国の誇りが失われない、欧米との関係はABCD包囲網の前と同じになると分かっていたら、特攻などはしなかったであろう。。が、そんなことはあり得ないので、私には、どう考えても、当時の祖母の兄たちは、そう選択せざるを得ないと思うのである。

【本日の動画】そうせいの滝

地元相模原にある、「そうせいの滝」と呼ばれる滝不動様です。

多くの兵士が突撃により命を落とした日露戦争、太平洋戦争で出征した者の無事を、その家族や恋人がこの滝に戦勝祈願に来ていたと言います。密林の中、滝の音が滝壺に響き渡り、心を清めてくださいます。

自伝 -上-

自分の人生を日々見つめなおしています。その中で、私という人間の成り立ちを分析する意味も込めて、「自伝」を書くことにしました。ある種の物語になっているので、時間のある方は読んでみてください。

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私は、バブル華やかりし時代に、生まれた。

父は自営業を営み、母は専業主婦。姉と二人の兄がいた。(姉は後に他界)

祖父と祖母は、神社と農業の仕事をしていた。戦前は、先祖が開拓した広大な土地を代々相続する地主であった。終戦直前に土地の無条件割譲を軍に要求され、戦後は農地改革で全ての土地を失った。その後、怒涛の如く入植してきた素性の知れない者たちに、自分の命を懸けて守り、育ててきた土地が蹂躙されていくのを、どのような気持ちで過ごしてきたかと思うと、神社の仕事と農業を営んでいた理由が分かる気がする。祖父の姉は尼僧であり、渋谷で尼寺を営んでいた。私が生まれたのは、その祖父の姉が亡くなった三か月後であった。

私の記憶の中にある、この世界の初めての光景は、黄色い光。色んな人が私を覗き込む顔であった。次に覚えているのは、歩き出して自由気ままに過ごす快適さと、我がままをすることへの喜びの感情であった。何をしても、周りの人は、私を正義とし、尊び、支えてくれた。そしてしばらくして言葉を話すようになると、物事の善悪を教えられ、今度は、毎日泣く日々であった。

5歳を過ぎると、自分の家族の関係を理解し、良いこと、悪いことが何となく分かり、毎日遊んでいたと思う。毎日無邪気に遊んだ。砂でお城を作ったり、秘密基地を作ったり、走り回ったり、アニメを見たり、ゲームをしたり、竹藪で竹を切ってきて弓矢を作ったり、父の職場に潜入したり、母の買物についていったりするのが楽しみであった。毎日が、楽しかった。

7歳になり小学校に入学すると、習い事が始まった。私の無邪気な時代は、終わりを迎えた。公文、そろばん、ピアノ、学研の科学実験キット、水泳etc 、、どれも今思うと魅力的なスキルであるが、当時は、嫌いであった。特に水泳はダメで。。水が怖くて、プールサイドにしがみついて泣き、コーチを困らせた記憶がある。。が、不思議なことに最も大成したのは水泳であった。5年後には、10個の階級をクリアし、選手コースにまで進むことができた。これは、兄弟の中で最も出来の悪かった私の、、幼少期の唯一の勝利であった。。誰にも、たたえられなかったが。。

小学生も高学年になると、中学受験の勉強が始まった。親からは、中学受験は「するもの」と教えられていたので、全く先入観なく塾に通っていたが、二次成長に至っていなかった私は、兄たちと違い論理的思考も遅れていて、全くできなかった。。。算数:偏差値48、国語:偏差値53、社会:偏差値62、理科:偏差値41、これが当時の私の精一杯の実力であった。

全ての科目で偏差値65を超えていた二人の兄からすれば、恥ずかしい、馬鹿な弟であった。純粋だった私は、それを恥じ、毎日が辛かった。何をされても言い返すことができなかった。毎日神頼みし、毎日勉強して、毎日泣いて眠った。

二人の兄を当然のように見てきた父母は、偏差値60を超えるのは普通だと思っていたので、私を激しく叱責し、罵詈雑言という言葉の暴力を三年間、私に与え続けた。手を挙げなかったのは親心であろうが、代わりに兄たちがそれを代行した。

幾つか上げると、

・豆腐屋の角に頭をぶつけて死ね!

・顔もダメ、頭もダメなら、何のとりえもない。そんな奴は、我家の人間じゃない。

・馬鹿な理由を説明しろ!親を馬鹿にしているのか?

・○○?あいつは、出来ない奴だからな。。

・何でいつも怒られると黙り込むの?何を考えているの?何で泣くの?何時間泣いているのか?今日は一晩、外で正座してなさい。

である。私は、この時、本気で自分は父母の子ではないと思った。

今は穏やかな親や兄たちからは想像もできない時代があったのである。本人たちは、忘れているが、、。私は、この時代、自殺することを真剣に考えていた。しかし、学校の愉快な仲間たち、可愛いワンコとの思い出を一瞬でも思い出すと、彼らと離れたくなくて死ぬことができなかった。彼らは、私の救いだった。7歳から始まったスパルタ教育は、こうして私の知能の成長を鈍化させ、精神を歪めることになった。一方で、地主や金持ち連中が放つ、根拠のない自信や他人を見下す雰囲気が良くないことに気づき、公平な目線を養うことになったことは、良いことであったと今も思う。

こんな生き地獄のような時をへて、私は、当時偏差値51だった私学に合格した。兄たちは、私を揶揄うことを止めなかったが、私にはやっと地獄から地上に出た気持ちで、その都会的な、キザで、馬鹿で、大雑把で、欲におぼれた校風に、おぼれた。こうして2年の月日が流れ、私は中学三年生になった。

ここまでの人生で学んだことは、下記である。

◎ 人は公平ではない。

◎ 神様は神頼みしても助けてくれない。でも、神頼みすると心は救われる

◎ 友達と犬、良い思い出、夢は、人を救う。

◎ 傲慢は悪、謙虚が正義。

◎ 言葉の力は、とても強い。その扱いには注意しなければならない。

◎ 暴力は、絶対にしない。暴力をするのは、精神が弱いからだ。

(-中- に続く)

秋-初冬 楽しんでます。

最近の自然写真をUPしました。どうぞ、ゆっくりしていってください☕

◆ 相模川

山王坂からの風景。紅葉が美しい。お、ニャンコがいますね😄

手が可愛い。。

ぐーぐー。。。

にゃんだよ!って感じか。。。

崖を伝って流れる、湧水。。

打ち寄せる河波

立石公園@逗子

神奈川県の逗子にある、立石公園に着ました!(11/21_土)

写真の真中にある海から飛び出した烏帽子みたいな岩が、立石のようです。

場所は、三浦半島の真中くらいです。地図から分かる通り、この公園から望む海は、相模湾です。そして、富士山が見えることが分かると思います。

実際、富士山がとてもよく観察できました!ありがたや~!

この浜辺には、シーグラス、メノウ、陶器が流れ着きます。これらを収集したい人には、ちょっとした人気スポットになっております。

いるいる^^

写真の場所は、砂利浜です。

上の写真のように、ぱっと見でも色んな石が目に入ります。シーグラスや、メノウも比較的すぐにみつかります。。が、、シーグラスは小さい!!個人的な感想としては、茶色が多いかったです。青や緑は、中々ないのと、ライバルたちに拾われてしまっているので、少し掘った方がいいかもしれません。。

私も、小一時間ほどお散歩しながら、拾いました。

立石公園での収穫物

何となく見た目で分類してみた。

A:色々おもろい奴。色が光で透けない奴ら。

B:シーガラス

C:貝殻

D:陶器の破片

E:水晶か!?透明の箇所は、透明度が高い。。

F:王髄とか、メノウとか、、光に透けます!本日力を入れたとこ。。🤪

G:緑っぽい奴。相模川でおなじみの、セラドン石っぽい奴も発見し、感動😆

A群の丸い凹部のある石、これはアロマ台に使いたいと思った。因みに、この凹部は、貝が巣穴を作るときに出す酸性液で掘られた物だとか、、、うーむ、凄い。。

F群のとある奴。このチェルシーみたいな美味しそうな奴は、きっと、メノウに違いない。。

E群の透明な石。これは、チャートじゃなくて、水晶だよね?

とまあ、こんな感じで拾ってきました。。シーグラスが中々良かったので、今度行くときはもっと拾いたいなと思いました!

ところで、何でこんなにシーグラスや陶器が流れ着くのか気になって、相模湾の海流を調べてみました。

ざっと、こんな感じです。相模湾内に、大きく三つの渦があるそうです。この立石の海岸に流れ着く物は、多くは、「太平洋から直接きた物」、「平塚→江ノ島→鎌倉辺りを経由してきた物」で、残りは、「平塚→小田原を経由する渦から、江ノ島→鎌倉を経由する渦に乗った物」、「熱海の渦から江ノ島→鎌倉経由の渦に乗った物」と考えました。でも、シーグラスを小田原や熱海でよく拾えるとは聞かないので、立石海岸の物は、「平塚→江ノ島→鎌倉経由の物」がほとんどだと思うのです。。何十年も前に、茅ヶ崎や江ノ島、由比ヶ浜辺りから海に捨てられた瓶などが割れて、自然が磨き、そして今日、私が立石でそれを拾う。。何だかロマンを感じてしまいました。( でも、ゴミを捨てるのはダメです。 )

立石公園、立石海岸は、実に風光明媚な良い場所でした。。

◆アクセス

 横須賀線逗子駅下車、京急バス長井行「立石」下車。。

【本日の動画】

◎ 山王坂の渡し@相模川

◎ 立石公園から見る富士

河に行き、石を拾い、海に行きたくなった。。

自然を愛するために、近場にある大きな川である、相模川によく行く。。

この川が好きである。そこに落ちている石とその多様性に興奮している。。

花崗岩、安山岩、チャート、水晶、珪化木(けいかぼく)、セラドナイト、、

私には夢がある。それは、、、私の愛する自然とテクノロジーを融合させた家を建てることである。二階建ての空中庭園。。。家が周囲に隣接していても、木々が視線を遮ってくれるので、プライベート空間が確保される。。。

カーテンもせずに、窓辺に寝る。星の数や暗い雲、雨を見ながら眠りぬつく。そして、朝、空の明るさで目を覚ます。。。

その庭から、自然の姿の水辺が見えたら、、、何と素晴らしいことだろうか!!

植える木は、何が良いだろう。。高さ2.0mもあれば十分である。。四季を感じたい。四季折々の花をめで、実を積み、落葉を掃除することを楽しみたい。。この視点で、いずれ候補となる木をリストアップしたいと思う。

土は、これは慎重に選ぼうと思う。。。でも、土の上には、私が丹精込めて集めた綺麗な小石を少しばらまきたい。セラドナイト、純度の低い水晶、、メノウとか欲しい。。。でも、メノウは相模川では採れない。。

ということで、明日、メノウが拾える逗子(立石海岸)に行ってきます。ではでは、、

【本日の動画】山王坂@相模川

ここは昔、対岸の「葉山島」という場所をつなぐ船着き場でした。有名な高田橋ができてから、使われなくなり、今では釣り人と野生動物しかいないような場所です。。しかし、河岸段丘に見られる迫力の断層、散乱する反射光が描く幻想的なプロジェクション、水や風、鳥の声、、、そしてゆったりとした川の流れ、、癒されます。。遠くの県道をせわしく走る車と対比すると、ちょっと自然っぽいところに足を延ばすことで、大自然に触れられるような気がしてきます。

純潔の価値について

一般的に、男性が女性に、純潔であることを願うしょうもない妄想がある。

この考えは理想主義の一つである。女性が、心をたった一人の異性にのみ許すことが、迷いなき真実の愛とし、そして体を許すことで愛が深まり、新たな生命を得ることで愛がより育まれるという方向性の考えである。

数々の神話において、女神は夫を持つまでは純潔であることが多い。

時代小説も、メロドラマも、純潔は尊重される。主人公の女性が、その操(みさお)を守るために力に必死に抗い、力尽き、死を選ぶというような話もある。死を選ぶというのは、その人が、生きる価値の重きを純潔においていたことに他ならない。純潔を失うことは、神の意志に反する行為だと捉えていることに他ならない。

一方、男性の純潔、つまり、童貞であるが、、この点については、あまり尊さが強調されることはない。むしろ、男からも、女性からも嘲笑の対象とされることが多い。神話の世界では、むしろ男性神はやりたい放題である。全知全能の主神:ゼウスの行いを知った者は、どう思うであろうか?

私は、この「女性が純潔を守ることを正義とする在り方(=失うことを悪のように捉える在り方)」「男性が純潔であることを蔑む在り方」を、強く否定したい。

そして、純潔を失ったことを自分の価値の喪失のように捉えふさぎ込んでいる女性や、純潔であることに恥を感じて人生をあきらめている男性に、、、そんな心理状態は無意味であることを訴えたい。つまり、純潔の神聖性、、それは、「ない」と伝えたい。それを、自然界の動物と、古典、恋愛映画を例に、説明しようと思う。

まず、自然界である。自然界は、生きていくのが過酷な世界である。当然、子孫を残すことも大変である。例えば、鳥たちは、人で言えば雌雄ともに不倫が前提である。雄は、餌を取りに行くと思いきや、偶然出会った雌や、巣に一人でいる雌の所に行き、体の関係を迫る。そして、その雌も、その鳥世界固有の美観、フェロモンと照合し、それらが良ければ受け入れる。これが、鳥の世界の常識であり、正義であるのだ。ここには、純潔の神聖性などというのものは、ない。

そもそも純潔を喪失した先にある行為は、生殖である。生殖は、種の保存のための行為である。過酷な環境下に生きる野生動物たちには、純潔に価値を置いて手間取っていたら、種を残せない。これは、他の動物も基本的には同じである。見た目の美しい在り方を見ているだけでは分からない、真実がここにある。

次に、古典的な話である。「夜這い」という概念はご存知であろうか?男が、女性のいる寝所に忍び入り、合意の上、体の関係を持つというのものである。日本では、これは不貞行為とされながら、社会的には容認されてきた事実がある。江戸時代などの書物や神事でも、それを促す記述が散見される。神事においては、新月の日に祭を開催し、ある時間、全ての明かりが消える。その間、いかなる間柄でも情事にふけることは容認された。。という祭が、多摩地域にはある。もちろん、建前上は、夜這いは不貞行為であるから、発見されたら、男女共々、罰せられたり、責任を取らされるのは当然である。こうした話は、江戸時代ですら一般的であったことから、それ以前のまだ家制度や体制が整いつつあった時代ならば、より乱れていたと推察できる。平安時代の源氏物語を読むと分かるが、彼や彼女たちの頭の中に、純潔という概念を感じることは、あまりできない。

最後に、昨今の映画やドラマの恋愛表現をみると、、付き合うことの一部に、性行為があり、、そこには、純潔の神聖性なるものは、何も感じない。出会う男女のおかれる社会環境設定は違えど、結局は、美男美女が「知り合う→親しくなる→キス→性行為」を一つの盛り場として表現し、物語が推移していく。ここで、女神や天使たるヒロインが、最終回まで頑なに操を守るストーリーなど、昨今みたことがあるであろうか?少なくとも、50年代以降の時代を表現した映画やドラマを1000本弱みてきたが、結婚前の付き合っている男女が性行為をしないで最終回を迎えた話を私は知らない。西欧の映画では、白黒映画の時代は、キスの描写が肉体関係をもった合図であり、以降、その話ではその二人は強い絆で結ばれたことを表現している。ロミオとジュリエットも、、レ・ミゼラブルのコゼットも、、プラダを着た悪魔などは、彼氏がいながら、金持ちに身体を許す始末、、、話がビジネスという現実世界での葛藤と成長を描いているだけに、純潔という概念自体が絵空事であることを如実に感じさせられてしまう。

これに関係して、皆さんの周りのカップルたちを見てどう思うか?男子会、女子会が開催されれば、下の話は盛んではないか??これこそが、純潔の価値が妄想に過ぎないことの証明ではないか?

以上長くなったが、男女ともに、純潔に拘り、自分を蔑(さげ)すむことは、自然の在り方、人の歴史、周囲の感覚からみても、無意味なことだと私は思うのです。。長年自分がもった価値観を捨てるのは大変かもしれませんが、そこから一歩踏み出し、素敵な方と出会おうとすることが、正しいと思うのです。処女喪失?童貞?離婚?、、、そこに尊大な価値は不要です。もしそれによって神や悪魔の罰が下るならば、多くの動物達は天罰を受け、子孫を残すことが出来なくなるでしょう。生きる上で必然の出来事として、受け入れるのです。そう感じられると、素晴らしく思えますよ!

【本日の動画】鷺

この目、この体躯、、この動き、、本能的なギラつきを嫌というほど感じさせてくれます。何かの神聖性というのは、人間の知性が仰々しく作った概念なのです。肉体の一部の喪失に重要な価値を見出すのならば、歯の失うことにも同質の感覚を抱かなければおかしいです。しかし、歯にそこまでの価値を置く人は少ないことから、やはり、純潔は人の思い込みだと思うのです。。。