電子辞書の未来って…

日本には、「電子辞書」という専門の機械がある。

シャープやカシオがこの業界をけん引してきた。かくいう私も、学生時代は大いに使わせてもらった。

特に、大学受験や語学の勉強に関しては、その利便性もさることながら、耐久性、長寿命と言う点でも感謝しかない。

そんな電子辞書であるが、大学院時代にアメリカに行ったり、社会人になって自分が電気製品の機構設計者になったりして感じたのは、この製品が、ほぼ日本でしか流行っていないガラパゴス商品であるということである。そして、近い未来、必ず消えるという時期は分からないが確実と思える予感であった。

話は変わるが、電車の中で見かける中高生たちの中には、一生懸命勉強している者が少なからずいる。彼らの勉強内容や方法をそれとなく観察するのが、実は私は好きなのだが、最近少し変わってきたと感じることがある。それは、タブレットで勉強をしているということである。しかも、分からない用語や現象は、辞書アプリやYoutubeで調べて勉強しているのである。私の時代の電子辞書が、アプリと無料動画に置き換わった訳である。一時期、「電子辞書の存在意義は、ネットが制約される教育現場での情報検索と、信頼性の高い情報にある。よって、電子辞書が消えることはない。」という考え方があったが、それが辞書アプリで補完された今、もはや、電子辞書の存在意義は消えたと考えるのが、一般的であろう。。。

話が長くなったが、今日は、電子辞書の新たな意義を私なりに考えてみたいと思う。

まず、そもそも辞書とは何のためにあるのか?どんな時に使うのか?から考える。

辞書とは、読んでいるときに分からない用語に直面したり、書いているときに正しく用語の文字や意味、使い方を思い出せないときに、調べるためのものである。

インターネットが定着した今日、読む物の多くは電子化された。その電子化された装置はインターネットとつながっており、直ぐに用語を調べられる。また、文章を書くときには、うる覚えの情報の読みだけでも打ち込めば、予測変換リストを表示してくれる。別に、打ち込まなくても類似した文字を書けば、やはり予測変換リストを表示してくれる。

さて、このように、電子辞書は、はやり検索ツールと言う点では、インターネットと連動した装置には勝てない。であるならば、徹底的に「専用機」となり、その情報の質と、使いやすさに磨きをかけるしかない。デジタルカメラが、スマホとの差別化を図るために、高級コンデジから一眼へシフトしたようにである。では、電子辞書でいえば、どうすれば情報の質を高め、使いやすさに磨きをかけられるであろうか???

◎情報の質を高める

 まず、情報のメモリへの保存はもうやめて、クラウドに保存管理するようにする。情報の管理場所をハードからクラウドにする技術的潮流はもう止められないのと、これに反することは情報からおいてかれることになるので、むしろいち早く受け入れ、整備する。特に、「クラウドコンピューティングとAI判断による情報の更新、情報の安全管理、耐久性」のある独自の仕組み(といっても、新基幹産業を支える巨大企業の枠組みに便乗する形であろうが…)を構築する。こうなると、将来の辞書は、「用語数」「情報信頼度」「更新頻度」「安全管理指数」「接続耐久度」などの総合指標を定義し、社会に配信し、信用を先手先手で獲得することになるであろうと私は思ったりしている。そして、「通常のネット検索より良質な情報ですよ!」ということを数値で示すのである。

◎ 使いやすさに磨きをかける

 次に、使いやすさであるが、、先ほどの現在のネット検索の在り方を考えたとき、三つの検索方法がに気が付くであろう。「コピー&ペースト」「打ち込み(フリック)」「書き込み」である。この中で、個人的に不快さを感じるのは、「打ち込み(フリック)」という動作である。そもそも、我々は「文字」を扱う生物である。しかし、その文字をコンピュータに読み込ませるために、わざわざキーボードの羅列を編み出し、それで操作している。今、我々が不便さを感じていないのは、単に、慣れ過ぎたからで、頭の中では変換作業が行われているわけだから、余計なエネルギーを浪費しているのは間違いない。つまり、用語の検索において、「打ち込み(フリック)」は、今のPCやタブレットとの互換性の観点からそうなっているだけで、、文字を調べるという点においては、一画、手間の多い作業なのである。したがって、もし、新しい電子辞書を作るのならば、「コピー&ペースト」と「書き込み」の作業性と検知精度を高めた物にするべきである。打ち込み表示や、フリックは不要である。取り除く勇気が必要である。下手にあると、タブレットとの差別化が「情報の質」だけになってしまう。コピペをするには、カメラと画像処理技術は必須であろう。また、書き込みについては、昨今の電子メモ帳のような多少ザラツキと弾性のある画面が理想であろう。その方が、文字を綺麗に書けるので、検知精度も上がるからである。

〈まとめ〉新しい電子辞書の姿

★ 情報は、ハードからクラウドを出所とする。

★ 情報に対する信頼性・安全管理・耐久性を定義して示し、一般のネット検索より優性であることを示すことで、用語検索の「専門機」とする

★ 検索の際の打ち込みやフリックは、「文字を調べる」と言う点において、実は一画余計な作業である。よって、この機能を勇気をもって削除し、カメラによる「コピー&ペースト」と、電子パッドのような「書き込み」の操作感に優れた仕様で、さらなる直感操作を実現し、用語検索の「専門機」とする

⇒ 以上から、全体サイズとしては今の電子辞書とほぼ同じくらいのA6、A7サイズ。「大画面とカメラ、タッチペン、及び、画面カバー」のついた外観になると予想している。直感性が増せば、子供や老人も簡単に使えるので意外にはやる気がしないでもない。というのも、彼らは、PCやタブレット操作を、今の働き世代が想像する以上に敬遠する傾向がある、、かといって、文字入力ができるアプリの立ち上げをする知恵を持ちえなかったり、それを教えても理解できなかったり、秒速で忘れる者が多かったりする。よって、こうした知能事情を背景に考えると、PCやタブレットすら使いこなせない人々が実はとても多く、彼らにとって優しい専門機を提供することの価値を感じずにはいられないのである。

久々にユニクロに行って驚いたこと。

直近の一カ月、冬物の部屋着を買いそろえるために、頼まれごとも含めてユニクロに四回も行った。

実に一年ぶりに足を踏み入れ、無事、目的のものを購入することができた。

しかし、買い物中、常にストレスを抱えることになり、つい呟きたくなった。

もしこの記事を当該社の者が目にすることがあったとしたら、一つ、考え直す時間を持っていただきたい。。もっとも、わざとそうしているのかもしれないので、激しく批判するつもりはないが、一人の消費者としての感想として、受け取って頂きたい。

何が不快だったかと言うと、主に4点ある。

1.店員の急かつ大声の、独り言のような声掛けとサービス説明は、うるさ過ぎる

2.店員が多すぎる、または、密集し過ぎである

3.店員が多すぎるくせに、会計が混雑しすぎ

4.これはユニクロに限った話ではないが、陳列方法がまったく文明開化していない

1は、店内の商品アナウンスにつられて店員さんが言う謝辞と、アナウンスがないときに彼らがいう商品説明の声の大きさについてである。現状は、あまりにも煩い。ビックリしてしまい、落ち着いて商品を見ていられない。あなたは、自分が商品を見ているとき、いきなり横の人が大声で「ありがとうございます!」「今、キャンペーンをやっています!」などとしゃべりだしたらどう思うであろうか???この声出しによって、万引き防止や、お客様が声掛しやすい空間作りを演出しているのかもしれない。しかし、そうであるならば大声である必要はない。穏やかで、ゆっくりと明確な、よどみのない発音でしゃべれば、声は通る。こうしたした店員さんの発声方法に関する教育を改善してほしい。

2は、店員さんの数についてである。感覚として、一つか二つの棚に一人の割合で店員がいるような感じがする。彼らは、防犯の観点、お客様要望に迅速に対応するため、さらに、陳列物の整理のためにいるのであろうが、正直、自分が商品を触るのを、常に舐めるように監視されている気がして気持ちが悪い。棚と言うより、別の場所でのサービスに人を回した方が良いと思う。例えば、会計、裁縫室、フィッティングルーム、店裏業務である。厳しいことをいうようだが、お客様が、ゆっくり買い物を楽しめる空間作りを考えるのも、お店を持つ者の重要な使命ではないかと思う。

3は、会計が少なくとも四回別々の曜日の別々の時間にしたが、いつ来ても行列である。店員に袋詰めをしてもらう人も少なくなったのに、何で並んでいるのかと観察していたところ、「電子決済やアプリの説明と対応」「客がセルフレジの使い方が分からず、まごつく」「客が自分での袋詰めに慣れておらず、まごつく」の三点が目についた。アプリなどは会計の際に初めて懐からだすようでは、回転が悪くてかなわない。また、同じく会計の場で登録するようでは話にならない。よって、会計前の順番待ち空間に入る前に、、一つ小区画を設け、そこをアプリの用意を促したり、アプリ登録をする場にしたりした方が良いと思う。そして、会計の場では、店員さんは淡々と会計を済まし、人を流す。。こうあってほしい。アプリの登録方法や、セルフレジの使い方については、常に担当者を所定の場に置き、対応に当たらせればよい。人の好いおばあちゃんなどは、担当が立っていれば、ちゃんと話しかけてくれるはずである。彼らが、レジ前で初めて作業を始めたら20分は立ってしまうことを思えば、是非検討して頂きたい。最後に、客の袋詰めであるが、本当にのそのそした奴が多い。よって、ここでいうのも申し訳ないが、店員さんがお客様の買物バックを拝借して品物を入れる無料サービスなどを行ったらどうかと思えてならない。お店は、お客様への説明対応以外は、「ハイ、ハイ、ハイ。。。」というリズムで物事を進めなければならない。なぜなら、利己的な客は、行きつく間もなく、流れ込むだけだからである。これを外に円滑に通すには、素早い意識と行動、そしてそれができやすい仕組みを作ることが肝要であろう。

4についてであるが、どの店も陳列棚間が狭すぎる。コロナ以降、お家時間も増えて、規律を守る意識が薄れる昨今において、どの公共の場所でも、相手を思いやる行動ができる人が本当に少なくなった。譲り合い、助け合い、狭い道や場所では荷物は(制御しやすくするために)前に抱えるなどする人は、本当に見なくなった。そんなご時世で、昭和以前から変わらないであろう陳列方法では、、大きなバックを背負ったり、飲食する客がいたり、買い物かごが置かれていたりするような場所で、そうでない人々が遮られ、、ゆっくり商品を楽しめなくなる。いい加減、優秀なユニクロの企画人の知恵を結集させて、陳列の方法を変えて欲しい。提案だが、「お客には買い物かごの代わりに専用タブレットやアプリを携帯させ、各種服は全て段差ハンガーにサイズと色別にサンプルを一枚づつかけて展示するだけにする。そして、お客が気に入ったら、商品コードをアプリなどに読み込ませる。そして、最後に客が会計ボタンを押したとき、その信号を読み取った店舗裏のシステムが作動して、会計金額と予想待ち時間をお客様に表示する。同時に、その内容で良いか同意を得るボタンを表示する。これにお客様がOKしたとき、店の裏方で人かロボットが商品一式を籠に放り込んでいく。そして、予想時間に、会計」と言う仕組みである。こうすれば、店内のコンパクト化が図れるし、お客も買い物かごを持ち歩く必要がなくなる。こういうシンプルな店舗作りを今からしておくことで、「高速通信、クラウドコンピューティング、AI判断」を基幹産業とする新時代に柔軟にシフトしていく土壌が培われると私は思う。というのも、現在、一部の貴金属やウェアラブル端末においてVRでのフィッティング体験が始まっているが、今後、こうしたことが前述の基幹産業の醸成により、直ぐに、洋服試着まで満足い程度のVRができると私は思っている。そんなとき、陳列棚から選んで・・・かご内の品物会計などやっていたら、不便でしょうがない。。いや、今の我々からみれば、現状を受け入れてしまっているので不便に感じないが、、情報通信処理がより高度高速化した世界に生きる未来の人々にとっては、不便であるはずなのである。なぜなら、「待つ・停滞・行列」と言う概念が、受け入れがたいものであるからである。そこに、美徳はないのである。え?技術ができてから、店舗を作り返ればよいって??そんな意識だと、別の会社が社会認知したときに遅れをとり、敗北する可能性が高まります。ですから、常に、時代の先端を模索し、試み、改善する姿勢を社会に示し続けることを、期待します。どうぞお願いします。

技術の進歩の先にある、苦しみの無い世界

科学技術は日々進歩する

19世紀に急速に進歩した電気磁気学により、電気回路、電子回路、通信手段、電磁モーターが次々に発明された。

20世紀は、そうした技術の高効率・高集積化により、コンパクトな電子情報機器が身近なものとなった。そして、目に見えないが、コンピューター同士が理解し合えるクラウドという信号集合に、情報を保存し、処理し、高速でやり取りする時代に突入した。この技術においては、米中の国家的な開発戦争、もとい、「FAANG+M」 vs 「BATH」の産学官巻き込んた競争は熾烈であり、、他国他企業が中途半端な「資本、頭脳、情報数(国力)、覚悟」で参入しても勝てるはずがない。参入が遅すぎる。

こうした状況下、今後の世界は、「高速通信、AI判断、クラウドコンピューティング」を基幹産業とした社会になっていくはずである。これにより、物事の自動化・自律化が加速する。

電気情報機器は、「筐体設計、入出力装置設計、センサー、無線、給電装置」だけで成立することになる。なぜなら、演算装置や情報の保存は、全てクラウドで行うからである。

このような世界になったとき、持ち運ぶ装置は、コンパクトで、できることが多様になってくる。そうすると、その膨大な情報コンテンツという麻薬的な魅力に人々はどっぷり浸かり、今以上に片時も離れなくなる。歩くときも、走るときも、寝床の中でも、仕事の時も、用を足すときも、食事の時も、誰かと共に過ごしていても、である。そして、人々は極めて利己的になり、視野が狭くなり、知能が退化し、その結果、、思いやる心が無くなってしまう。歩きスマホをしている者同士がぶつかったとき、どちらも相手のせいにする。しかし、次にそうならないように改善しようともしない。そんな社会になるのである。

こうした近未来の世を憂うとき、私は、どうすれば本当の平和 が来るのか考えることがある。

この先、科学技術がさらに進み、「人の脳、感覚、魂、エネルギー」の情報化が出来た暁には、、人の肉体は全て地上から消え去り、全人類はクラウド内の仮想世界で、生まれ、育ち、学び、生きることになるのではないかと思うのである。その世界では、互いに、思うだけで意思疎通が成立する。思わなければ、何も聞こえない。また、互いに、意識したときだけ、肌のぬくもりのある接触ができ、そうじゃないときはすり抜ける。容姿も、衣食住も、全て各自の思うままの在り方が無限の世界に瞬時に登場する。こんな世界になるのではないかと思うのである。その世界では、物質的な影響の観点から皆が気持ちよく過ごせるように築いてきた規範・道徳・常識というものはない。意味がないからである。

こんな世界が作られたとき、つまり、皆が究極的に利己的であってよい世界が作られたときに、真の平和が来ると思うのである。仮に、その世界で、ある人Aが別のある人Bを殺害したとする。AにとってはBは世界から消えている。しかし、BにとってはAが生きている世界が続くのである。

では、そんな世界が作られたとき、そこに生きる者たちの生きる目的とは何なのか??それは、例えば、、物質世界に生きる者たち( つまり、今の我々 )に知恵を与えるために、自分たちが物質化する技術を編み出すことなのかもしれない。そう考えると、我々が今、この肉体を持って生きていること、規範を遂行しながら生きていること、それは肉体を持つ者のみが意識できる尊い行動ではなかろうか。。いや、ひょっとしたら、我々はそうした世界から来た意識体なのかもしれない。。だとすればなおさらこの世は大事で、尊いと思うのである。

現代人の麻薬

道を行きかう人々

信号、カフェ、レストラン、病院、乗り物で待ちゆく人々

休み時間に休憩する人々

これら全ての行動をするのに、現代人はスマートフォンを手放すことができない。

これらはどういうことかというと、無料であれ、有料であれ、スマートフォンが提供してくれるコンテンツの刺激を手放せないということである。

大陸において、清朝末期、中国人の多くは、アヘンの快楽のために日々働き、アヘンに酔いしれ、日々衰え動けなくなるほど身体が侵されてもアヘンを求め、死を迎えたという。なお、アヘンの快楽を得るために、誰かにアヘンを売って金を稼ぎ、その金で自分がアヘンにおぼれたという。。何ともおぞましい時代であろうか。。。

適度な刺激は心身の健康を呼び込むが、過度な刺激は自他ともに破滅させるのである。

今、現代人はジョブズが広めたスマートフォンを、必要に迫られていないときでさえほぼ常に持ち歩き、画面を覗き込んで、情報コンテンツにアクセスしている。

これにより、既に、交通は乱れ、行きかう人々の譲り合いや挨拶といった文化もなくなりつつある。皆が利己的になりつつある。利己的になると社会規範は瓦解する。問題が起こると、自分の正義を前提として、他人を攻めるからである。

また、気軽な情報コンテンツにアクセスし、大量の情報に浸り過ぎて、主体性や感受性、創造性が著しく欠如した者たちも多く見かける。つまり、無関心・無気力な者たちが増えた。特に、学問から遠ざかっているような社会人にこうした傾向をよく見かける。。舞台をみても「踊りだ、跳ねた、泣いた、笑った、何と言ったらよいか分からない…完」、自然をみても「花だ、山だ、雲だ…完」、モノ作りをしても「なんとなく作ってみました。どうなるか分からないです…完」という具合で、見た物事を評するときに直接的な単語を述べるのが精一杯で、感情を表現したり、膨らめたり、想いやる言葉を組みたてたりすることが苦手に見える。こんな人が洒落にならないほど多い。多すぎる。

こんな世界は、明らかに異常である!そのことに我々はもう気が付かなければならない。

スマホは、本来の機能では通話、メール、SNS、カメラ程度におさえ、公共の場では基本的に使わない。待ち時間や乗車時間、休憩時間も、特に意思をもって欲しいわけでもないコンテンツにアクセスして、ただ受動的に情報を得るだけの時間を過ごしてはならない。無気力・無関心になるからである。

スマートフォンは、悪魔の道具です。麻薬です。

どうかそのことに多くの人が気が付き、自制し、元々備えている好奇心や主体性を健全な状態にし、利他的な人間性を取りもどして欲しいと願うばかりです。

「駅近くにない学校」について

私は、学校は、社会に役立てるための知識・知恵・精神性を養うために通う場所であると思っている。

「読み書き計算」という基本的な技能を元に、様々な学問に主体的に触れ、問題意識を持ち、自分なりに答えを導く、、こうしたことをする場所だと思っている。

特に、大学や専門学校は、そうである。

さて、話を少し変えるが、、人は何かに問題意識を持ったとき、まずどうするであろうか?

調べたり、試したりするであろう。

そのため、学生なら、大学図書館や研究室に行ったりするであろう。

自宅にいて、ネットの情報や、仮説推論を行うだけでは不十分なはずなのである。

そんなとき、自分の所属する学び舎が、近くにあったらどうであろうか??

やる気を維持しながら、直ぐに行動するであろう。

しかし、逆に行動したいときに、それができる場所が家から遠かったらどうであろうか??めんどくさいなー、、、次、何か用事があるときにやろうかなーという感情が芽生え、結局ヤラナイ姿が想像できないであろうか?( 私は、多くの人は、高い確率でそうなると思っている )

ところで、学校は、自分の家の近くにあるとは限らない。大学などは、まさにそうである。

そうしたとき、せめて「駅」から徒歩10分圏内に学校があれば、比較的、行動のモチベーションを維持したまま家を飛び出すことができるように私は思う。というのも、日本の首都圏を走る電車の多くは、海外に比べ時間に正確で本数も多いので、行動計画を立てやすいからである。これが、バスだと、日々の交通事情の影響を直接受けるので、行動計画が狂いやすい。よって、バス通学は、行動計画の修正を高い頻度で求められるので、だんだんと通学が面倒くさくなってしまう。よって、学校に行きたくなくなる。

直接的であれ、間接的であれ、通学事情の影響を受けて行きたくなくなるような学校なんて、悲しすぎる。なにより、当初の学びの目的を達成しにくくなってしまう。だから、私は思うのである。学校に通うならば、「家の近くに良い場所があるならそこ」が最良、それがダメなら「せめて駅の近くにある良い場所」を選ぶべきだと思うのである。今は、リモート学習が主流になりつつあるが、学びには、「現場で、自分で、実際に何かを試すこと」は絶対に欠かせない。どの学問でもこれは同じである。だからこそ、学校は、直ぐに行けたり、行動計画が立てやすくて意欲が損なわれにくい場所に行くべきだと思うのである。

毎朝、都心のとある大きな駅を通るとき、どこかの大学か専門の学生さんが、大名行列を作っている。どうやら耳に飛び込んでくる彼らの会話から、学校までは渋滞しなくても15~20分くらいかかるみたいである。だから、歩いて行くような距離ではない(時速40km/hでバスが走行したとして、少なくとも1/4hかかるのだから、10kmは離れている)。あなたは、こんな学校に通いたいと思いますか??