記憶をしやすくするちょっとした工夫

以前からこのブログでは、記憶についてしばしば呟いている。

以前、記憶とは、「記憶する物事に対する感覚・感情・印象のことである」と私見を述べた。従って、日頃から感性を豊かにしたり、瞑想をして感情の制御を柔軟にできるようにすることで、記憶力が向上すると述べてきた。

さて、今回は、最近気が付いた、記憶がしやすくなるちょっとした工夫について紹介する。それは、

「対象を大きく捉える」ということである。例えば、ここに体長1mと、体長0.1mmのゴキブリがいたとする。どちらのゴキブリに、より注目できるであろうか??当然、1mのゴキブリの方であろう。そして、一発で、この出来事は記憶に深く刻まれることであろう。。。

覚えたい対象を大きく捉えることは、そのものへの注意を促すことを意味する。

逆に、小さく捉えることは、そのものへの注意を散漫にすることを意味すると私は思う。

というのも、小さく捉えることは、「視野角で捉えた像の中から必要な情報を選別する作業が、より必要となる行い」であると思うからである。例え、真っ白な紙に、黒のインクで小さな文字を書いたとしても、脳内では、「その広大な空白を意味のない情報であると選別する作業」を無意識に行っているのである。

今後、何かノートにメモを取るときは、できるだけ大きな文字で書くことを推奨したい。

また、ノートがなくても見た物をより強く記憶したければ、対象を脳内のイメージであらん限り大きくし、印象を強くするなどをすると良いと思う。( もっとも、これは昔からよく言われている記憶術ですが… )

【本日の動画】

何気ない自然の風景でも、目立つものは大きな物体です。覚えたい物を目立たせる工夫をして、仕事や勉強を効率的にやっていきたいですね!

アイデアの種類の見極め

世の中には、アイデアマンとか、アイデアメーカーと呼ばれる者たちがいる。

例えば、ある人は「藤子不二雄はアイデアマンだ!だって、ドラえもんの道具をあんなに沢山考えられるんだもん!」という。

ある人は、「某文具メーカーって毎年、ちょっとした工夫を盛り込んだ新しい文具を提案してくれる!アイデアメーカーだよね!百均のダイソーも同じ感じだよね!」という。

またある人は、「(ある重機メーカーの社内で)あの人って、量産機種を開発しているわけでもないのに、毎期特許を何十件も出して凄いアイデアマンだよね。技術報告書や論文も良く出すし、関心させられます。」という。

これらの例に示されるアイデアマンたちの出すアイデアは、その意識の置き方や成果物に違いがあるように思う。文具大賞のランキングに出てくるアイデアと、特許公報に出るアイデアは、私には同質には思えないからである。そこで、本日は、上記のアイデアの違いをそれとなくまとめてみた。俗にアイデアメーカーと呼ばれる人たちが、どこに属する人なのかを分類し、彼らの発想がご自身の参考になるかどうかを見極める一つの指標にしていただければ幸いである。

まず、私が何となく感じているアイデアの種類とは、下図のようなものである。

発案の程度が、高度なものとそうでないもの、実現性を問うものと問わないもので分けてみた。そして、その中にどういった系統のアイデアが多そうかを記入したみた。なお、実現性とは、実際に科学法則に従って作れるということである。現在の技術では作れないものは、実現性は不問とした。

ここで、概念式について簡単に述べておく。これは、発案の程度を、文字式で表現したものである。私のイメージを文字に落とし込んだものなので、一般的なものではないことをお許し願いたい。さて、前提として、私は、「発案というのは、公知の概念の和か積」と考えている。新規のものは、公知の技術から生まれるからである。ここで、ある公知の技術をAやBと言う具合に文字にした。次に、A+B と A×B という和と積についてであるが、これは具体例で示す。例えば、「A=のり、B=紙」とする。このとき、「A+B=のり+紙」であり、それは、のりと紙がその特性と外観を維持しながら一緒になったものをさす。すなわち「 テープ」のようなものができる。一方、「A×B=のり×紙」とは、「のりでもあり、紙でもある」ということである。よって、例えば、「やや粘度を帯びたゲル状の膜」とすれば、「物と物を( 弱くであっても )接着でき、かつ( 特定条件、例えば、乾燥時や特殊インクで )文字を書くことができる」と言う具合にのモノを創造できる。これは、もはや、のりや紙ではない。しかし、のりや紙の特性を有している。このように、A×Bとは、その外観的特徴はAやBには属さず、それでいてAやBの特性を必要、または十分に備えている新たな形態をいう。

ここまで述べてきたように、A+B と A×B は、異なる。前者は、見た目も特性も維持しながら別のものが合体したものであるが、後者は、特性の程度に差こそあれそれを維持しつつ、見た目は別次元のものになったいるものである。一般に、積の方が数段難しい。また、AやBは、どちらかが場であってもよい。例えば、オフィスの机の上、家のベッドの上、棚の上、テントの中、水の中とと言う具合にである。使う場所と、公知の形態がミックスされると、新たな形態が自然と生まれるからである。

さて、では、先ほどの図について少し説明を追加する。「空想世界」の箇所は、最早語る必要はない。ファンタジー小説や漫画の構想を練る人は、ここに属する人なので、今更語るに及ばないであろう。むしろ、意識するべきなのは、こうした空想物語のネタを出すことで評価され、アイデアマンとされる人の発想を、、メーカーの企画部や、技術者、研究者といった実現性を問われる人たちは、参考にしてはならないということである。実現性がなく、出来ないのが目に見えているからである。では、実現性を問われる人の中で、必ずしも高度ではない発案をする人たちについて述べる。

上図のように、こうした人たちは、公知の技術の「ちょこ変え」が得意な人たちである。昨今の、ユニークな立体的なメモパッド、サクラクラフトの拘りのペンなどもそうである。ちょこ変えと言ったが、もう少し具体的に言うと、「微変更によって利便性向上を目的としたアイデア」を出すのが得意なのである。文具や雑貨、ファッション業界は、基本的な製品の形態と言うのが決まっている。生活に直結する物が多いからである。こうしたとき、全く新規のモノが提案しても、皆、恐ろしくて中々手が出せない。そこで、「既存の概念を色濃く残しつつ、こういった形態追加でこんな使い方もできますよ!便利ですよ!」という塩梅の製品を作るのである。よって、有名な文具メーカーや一般公募のコンペで実績を重ね、アイデアメーカーと呼ばれる人たちは、この「ちょこ変え」が得意な人たちである。専門知識に乏しい新人技師や、同じく専門知識が乏しいのに企業の企画部にいる企画者は、、このちょこ変えの意識で新規の考案や企画をしてみると、シンプル故に皆に受け入れられやすく、当人も充実感がえられるかもしれない。

最後に、高度であって実現性のあるものである、特許系アイデアについてである。

これは、文具などのちょこ変えでは中々上手くいかない。理由は二つ。一つは、ちょっと変えた程度だと直ぐに「進歩性なし」とされ特許性無しとされかねないからである。進歩性というのは、「関係分野の専門家が公知技術を見て、容易に思いつかない」ということである。ちょこ変えだと、進歩性がないとみなされる可能性が高い。もう一つは、ちょこ変え程度だと、先の理由から特許になりにくく、競合に容易に模倣されたり、別の技術で回避されるので利益にならないからである。

乗り物、電気メーカー、部品メーカーなど製造業に従事されている技師、企画者は、特許性のある付加価値のある提案をしなければならないので、ちょこ変えを得意とする人たちの助言を鵜呑みにしてはならない。また、そうした人たちに称賛されたからと言って、喜んではならない。むしろ、自分の発案は、浅はかな可能性があったのではないかと反省するべきある。

以上、簡単にではあるが、一言にアイデアといっても、複数の程度があることを私なりに示してきた。自分が求められる考案が、高度なものか?実現性を問われるものか?をよくよく考えて、それに適したアイデアメーカーの方の本や書籍を参照されると良いと思う。

なお、実現性が問われる考案で高度なものは、「トリーズ」を利用することをお勧めする。これは、科学的に高度な発案を促すアイデア補助ツールである。また、ちょこ変え考案は、先の「微変更によって利便性向上を目的としたアイデア」を心に留めながら、ロフト、百均、雑貨屋の商品に触れると良いと思う。その着眼( 想定使用場+公知概念、公知概念+公知概念 )の理解を深めることができるであろう。さらに、全く新規の高度な考案をしたい場合は、「NM法」をお勧めする。これは、閃きのような着想を論理的に導く方法であり、A×B に適したものでる。是非、関係書籍やブログなどを見て活用してほしいと思う。

工業デザイナーについて

企業が新製品発表会を開くと、その場には役員、企画者、そして工業デザイナーが出席し、製品の素晴らしさを雄弁に語る。

後日、Wikipediaなどの情報サイトで、その製品の記事をみると、開発者のところに主任工業デザイナーの名前が記されることが多い。

正直、機構設計者として働いてきた私としては、こうった扱いを目の当たりにする度に、残念な気持ちでならない。優秀なエンジニアが日本企業を見限って去っていくのも納得である。なぜなら、だれよりも、その製品のことをはじめから真剣に考え、何千回もテストし、苦しんで生み出した製品を、、そのお披露目の場で企画者と工業デザイナーに手柄を全て持っていかれるからである。せめて、自分たちを鼓舞し、監督をした設計部長と設計主任が出席し、一言述べてもらわなければ納得いかないと思う。。

ところで、日本の多くの工業デザイナーがどういった仕事をしているのかを、簡単に述べる。

今日の彼らは、反感覚悟であえて一言でいえば、「芸術家」である。現状、機構設計者としての私から見た彼らは、「自分(たち)の中に独自にモチーフを定め、その特徴を新製品に反映させる」ことをやっているだけの人である。「工業」という肩書を持っていながら、物の作られ方、強度、製品に求められている事項、及びその優先度を理解していない人が大多数である。今まで公私問わず出会ってきた工業デザイナーは20人近くいるが、1人の方を除いて皆、芸術家に過ぎなかった。某車メーカーの有名な車種の主任デザイナーと胸を張っていた方々も、その車の設計概念、想定顧客を理解されていないようであった。具体例を挙げると、ある人などは、「俺が学生時代に作ろうと思った形を具現化させたんだ!設計部の連中が空力抵抗とか、予算内で製造できないとか、法律とか言っていたが、引かなかったね。だって、俺らデザイナーが首を縦にふらなきゃ製品Goされないんだから。」 などと言う始末。これが異常であることは、最早説明をする必要はないであろう。

本来、工業デザイナーとは、機構設計者などが、製品に求められる在り方( 顧客、機能、強度、予算、製造方法、法律 etc )を具現化した粗削りな形状を、その機能を損なわない中で洗練させていくのが仕事である。その洗練の際に、担当デザイナーが独自にモチーフを定め、反映させるのは自由である。しかし、その為に、単価が1.5倍、2倍も跳ね上がって良いはずがない。彼らが影響力を持てる要素は、初めから極めて少ないのである。

つまり、彼らの仕事は、成果を示しにくい極めて泥臭く、深遠な世界なのである。というのは、彼らがデザインの元とする「機構設計者の粗削りな形状」は、その80%以上は全て構造的に意味のある形で変更は基本不可能なので、工業デザイナーは、残りの多くとも20%で独自性を示さねばならないからである。華々しいわけがなく、しかもその僅かな関わりに誇りを見出さねばならない。これを深遠な世界と呼ばずして何と表現すればよいのであろうか。

あるデザイナーの仕事を一例に説明する。例えば、ある製品のデザインを担当するとき、あるデザイナーは、「ガンダムをモチーフにして、製品の一部の凹凸を額当て部と分かるようにC面、R、勾配を設定し、配色に拘りました!」などといったりする。この際、C,R,勾配設定が、製品の機能や強度に影響を及ぼす場合は、設計部は強くその具現化を拒む。なぜなら、お客様の安心と安全に直結するからである。そこで、このデザイナーは自分の業務成果である額当て部の形状を高確率で妥協することになり、ガンダムをモチーフにしたものの、配色しか成果がないことになる。しかし、ここで腐らず、「○○しているときのガンダムには、原色に加え、度重なる戦闘で被った荒廃色(←?)があり、それが見る者の視覚を強く刺激し、臨場感を生み出しています。多くのファンは、この原色+荒廃色に惹かれ、益々愛着を感じるのであります!」などと語られたときには、私は涙してしまう。その者の熱意と深い世界観が奥にあるように感じるからである。

これは、如何に工業デザイナーの仕事が泥臭く深遠であるかを示した例であり、本来の姿である。これが華々しく、外観の根本的な形状をデザイナーが作ったことになっている場合は、メディの力が異常か、機構設計者が仕事をしていないか、その会社の企画・営業・デザイナーの権力が異常であるかである( 特に本当に最後の場合である場合は、不正や不備があることを覚悟した方が良い )。

最後に、機構設計者として、工業デザイナーの方に心がけて頂きたい仕事への取組み方をまとめておきたいと思う。

①. 製品コンセプト( 想定顧客, 想定される使われ方, 機能, 予算 )は、必ず理解しましょう。企画や設計者の考えを理解することに大いに役立ちます。何より、お客様の顔が理解できます。

②. 機構設計者と打ち合わせする際は、必要機能や強度を出すのに絶対必要な要素をヒアリングしましょう。言い換えれば、デザイン自由度を洗い出しましょう。曖昧な箇所には、手を出さないでおきましょう( 手を出したVerもデザインできればとても優秀です。 )

③. 日頃から、物の作られ方と強度について勉強しましょう。特に、樹脂と金属の金型の知識や加色技術については、知らなければなりません。それが、機構設計者の作った形状を理解することになりますし、自分たちが絵に描いた餅を作っているのではないというプロ意識を養うことになります。

④. 20%以下の自由度の中で、自分の独自性を盛り込む仕事であることを理解すること。構造的な領域に足を踏み入れ、自分のデザインの成立性を提案するのも良いですが、それが成功することは基本的にありません。理由は、あなたよりその分野に長けた設計部の技師たちが何千回もの検証してきた形を否定することになるからです。ただ、理論的に正しいという自信があるなら提案してみてください。例え失敗しても、あなたの努力と熱意は設計者の心を打ちます。それはあなたへの信用につながり、次の仕事を有意義なものにします。

なお、デザインをするときにモチーフを定めると思いますが、そのとき、多くの方が固有名詞に終始しがちです。ガンダム、ピカチュー、チーズケーキ、シュークリームなどです。これらは、既にとても有名で、その特徴的な外観も皆よく知っています。よって、デザイン後に特徴的な形状が否定されたら、あなたの独自性が容易に喪失してしまいます。そうならないように、おススメの方法があります。それは、「物体の動きを持たせたものをモチーフにする」ということです。例えば、改装完了で気力が充実しているときのガンダムは、アニメの演出上、特殊な光沢やオーラを放って表現されます。よって、もしあなたが「改装完了で気力満点で、出撃直後のガンダム」をモチーフに選んだのならば、、その時点であなたの独自性が強く発動します。その後のデザインの仕事も他のデザイナーの勝手な解釈に基づく入れ知恵(?)に悩まされることも減ります。だって、盛り込みたいモチーフを最も理解しているのは、他人ではなく、あなた自身なのですから。

以上、工業デザイナーの仕事と在り方について、私見を述べた。

工業デザイナーとは、「機構設計者の示した機能と強度を凝縮具現化した形状を崩さないで、芸術家の筆を入れる」者たちである。前述した某車のデザイナーのように、芸術ありきの工業製品など基本成立しない。無駄なコストアップや、機能未達、法律違反を招くからである。一昔前ならそれも許されたかもしれない。というのも、そういった機能未達や法律違反も見た目には分からず、露呈しにくかったからである。しかし、情報社会になり、多くの検証方法が民間でも気軽にできるようになってきた昨今では、そうもいかない。そういうわけで、これからの工業デザイナーは、益々、自分たちが背負った「工業」の肩書を深く理解し、天狗にならず、職務に当たるべきだと思うのである。

エスカレータ問題

最近、エスカレータの歩行を禁じる社会的風潮が強まっている。一部の地域では、条令で禁止をしているくらいだ。

しかし、現実的に、エスカレータの歩行を完全に禁止してしまうと、人の流れが乱れてしまう。だから、多くの地域やインフラでは、「明確な禁止」はせず、「注意を促す」にとどまっている。

例えば、駅。ホームに行くために、エスカレータしかない、または階段が補足的にしか供えられていない構造が多い。電車の乗り降りで急ぐ者が沢山いることを想定して、そうした構造が採用されているのである。もし、「エスカレータは立ち止まって乗る物」という前提で駅を作ったのならば、「エスカレータの輸送速度は、一般的な人間が急ぐときの速度と同等」であったり、「ホームに乗り降りする人の想定最大数が、次の電車が来る前にエスカレータで解消できる予想」が立っていたりしているはずである。しかし、健康な人が階段を上る速度とほぼ同じ速度の現状のエスカレータでは、このいずれも充足できない。よって、ホームの設計側は、エスカレータを「立ち止まって乗る前提の乗物として設置していない」としか考えられない。

ところで、エスカレータ上の歩行が危険であるという主張が強くなってきたのは、2020年代に入ってからだと感じている。強弁に禁止を主張する方々の多くは、ニュースや記事から老人が多いように感じる。彼らの訴えの理由は、「エスカレータは歩行する乗物じゃない」「歩行者がいると衝突して危険である」の二論に集約される。これにらについて考える。前者については、その地域やインフラでルールを定めていない限り断定できない。よって、そのルールを( 彼らが )示さない限り理由として成立しない。また、ルールを示さないで( 立ち止まるのが )常識と言う人もいるが、その点についてはやや都合の良い解釈をし過ぎな気がするので少し補足する。そもそもエスカレータは、電動移動階段である。階段が、自動で動いている物である。階段は、利用者の体力によって速く乗り降りしたり、遅く乗り降りしたりしてよいものである。階段は、人が通る路の一部であるからである。電動だからとこれを禁止するならば、空港の電動歩行路も歩行禁止になってしまう。よって、路である電動階段の歩行を厳禁として一般化することはおかしい。ここで、この路である階段について、利用の際の歩行を制限することに着目すると、主張者が口にできていない「誰か」にとって不都合があるからではないかと感じることがある。では、誰なのか?うすうす分かっているが、一端、後者についても考えてから結論する。というのも、一つの問題に対する主張が二つあり、問題に対して不都合をこうむる対象が一つの主張から判明しないのならば、もう一つをみることで理解できるとことがあると考えるからである。

さて、後者の論だが、これは「人と人の相対速度が大きくなると、衝突の危険が高まる」という主張であり、もっともらしい意見である。しかし、これ故に禁止というならば、公道での早歩き、ランニング、自転車運転も禁止しなければならない。そんなことは、それこそ一般論としてありえないであろう。道路は、利用者がそれぞれの目的に応じて、自分の運動能力に応じて利用できるものだからである。これを禁止したら、我々はベルトコンベア上の部品と同じになれと言われているようなものである。このことから、後者の意見は、「運動能力が極めて低いか、運動を放棄した者」の主張であると分かる。ここで、先ほど保留したこの問題の対象者は、この者たちであるといえる。二論にみえた主張は、「運動能力が極めて低いか、階段上で歩行したくない人にとって、歩行は危険だから止めて欲しい」という主張でいしかないである。

今、時代は弱者の意見に耳を傾ける社会に変化しつつある。パワハラやセクハラ、体罰の横行、育休者への攻撃など、過去問題視されなかったことが問題提起され、解消する社会的取り組みが進んでいる。これはつまり、「思いやり社会の実現」という人類に高度な品格を求める目標である。こうした中、「運動能力が極めて低いか、運動を放棄した者」も思いやり、彼らが安心して活動できるように整備するのは、当然の流れ、のように思えるかもしれない。しかし、この過程で忘れてはいけないのは、「強者が弱者に合わせるのは当然である。だって、弱者は強者には叶わないのだから。」という思考のみで、弱者都合で仕組みを提起することで、現実的な運用が出来なくなりうるということである。エスカレータ問題もその一例である。そうならないためには、強者と弱者を分けるだけでなく、それぞれが「何ができるか?」を議論し、「思いやり」行動のルールを定めなければならない。歩行者には、衝突しないように注意すること。非歩行者には、邪魔にならないように周囲に気を配ったり、衝撃にそなえること、である。こんなことは、そもそも人間の防衛本能や危機意識の観点からほぼ無意識に行われてきたことだが、歩きスマホやながら音楽が横行する昨今、この無意識も働かせることが出来なくなっている。エスカレータに乗っている者をみると、手すりにも掴まらず、スマホ操作や動画視聴している者が極めて多い。しかも、その者たちの荷物や衣服は、大きくはみ出し、歩行や乗り降りの妨げになっていることも多い。老人たちの中には、釣りや登山に行くのか、リュックから釣り竿や杖が飛び出していても平然としている間抜けが多い。弱者の方の思いやりが欠けている現状を仕組み作りの際に問題提起するのも忘れてはならない。それを言い出したらキリがないと言ってはならない。できることがあるのだから。。弱者はロボットではない。知性を備えた人間であるのだから。

まとめ

・エスカレータを設置しているインフラの多くは、現状、歩行もできるように設計している。

・エスカレータ問題は、「運動能力が極めて低いか、運動を放棄した者」の主張である。

・弱者の声に耳を傾ける社会風潮の中、上記の者たちに配慮した仕組み作りは正しい(とする)。

・しかし、弱者側の配慮も必要であり、弱者にできることも議論、提起しなければならない。

・つまり、弱者のための社会をつくるのではなく、皆が互いを常に思いやって自発的に行動する社会を作るのが正しいのである。

今年もよろしくお願いいたします

本年もよろしくお願いいたします。

新年早々、色々楽しんでいまして、新年のご挨拶が遅くなってしまいました。

この一月、15年ぶりにピアノを弾いてみたり、ランニングしたり、中国古代王朝の白書の訳を読んだり、ある建築士さんがYoutube上で提案する平屋の間取り動画を見て夢を膨らませたりして、心に栄養を送っていました。

お陰様で、ピアノ曲は簡単に編曲されたものですが、「ロミオとジュリエット」や「シュルブールの雨傘」を習得することができました。ランニングは既に毎週10~20kmを走ることができていて、身体がかなり絞れてきました。中国古代王朝( 後漢、魏、晋 )の歴史書から邪馬台国の位置を考え、自分なりの答えを導けるに至りました。平屋の間取り動画からは、建築物そのものへの魅力とともに、そこに住むであろう住人と、その姿を通じて、今後の日本の未来を考えてしまいました。物価上昇、賃金低下、サラリーマンと言う概念と献身労働の消滅、少子化( というより、子孫のことを考えた結婚をする人の減少 )、学校教育の多様化、国内名門大学の価値喪失、医療・不動産・電力・通信業界の暴挙、終活etc 。凡庸な私ですが、隙間時間に集中することで、心を癒しながら、これだけ学びや気づきができたわけです。

一月もあっという間に終わってしまいますが、今年も色んなことを考えながら、有益と思われるような情報を少しでも共有できたらと思います。

どうぞ、よろしくお願いいたします。