自伝 – あとがき1 –

自分の人生を日々見つめなおしています。その中で、私という人間の成り立ちを分析する意味も込めて、「自伝」を書くことにしました。ある種の物語になっているので、時間のある方は読んでみてください。

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 過去三回にわたって、私の人生を振り返ってきた。自分で読み返してみて思うのだが、「私のような人間がいかにしてできたのか?」が、それなりに表現できたと思う。しかし一方で、それぞれの出来事、学び、行動が、全て私に正義があり最適であったかのような文体でかいてしまったが、実際はそんなに美しくはない。これは、人は記憶の癖として、お許し願いたい。

その実際の、もっともっと美しくない、文字通り「愚かな」「愚図(グズ)な」「汚らわしい」「下衆な」「幼稚な」「お調子者な」「恥ずかしい」、そんな姿に、私という人間の本質があるのであるはないかと、感じる。そこで、今覚えている限りの、私の恥ずかしいエピソードを書き出し、我が自伝を終わりにしたいと思う。

【自伝 -上-】誕生~中学生まで

・保育園で、5歳までは、女の子たちとお飯事やアヤトリをして遊んでました。

・立ち上がっている友達の椅子をずらして、友達が座るときに尻持ちをつかせる悪戯を良くしていました。発見されて、先生に激しく怒られました。

・小学校の頃、教育委員会による処罰明けの先生が担任になり、いわゆる差別を受け、ABC評価の中で、15/20が「C」判定をくらいました。その先生は、幼女偏愛主義者でした。教員だった母は、テストで100点を取っていた私が「C」なのはおかしいことは知っていたが、相手が相手だけに、「教員は、昔は聖職者でした。その時代は、理不尽なことがあっても、先生が絶対でした。まだその時代の習慣は残っています。今は一度受け入れ、耐えなさい。(当時は、戦前生まれの先生がまだおられた。)」と言われました。

・これを受け、私は「テストで100点とってもC判定、じゃあ0点でもいいじゃん」と思い、試しに、カンニングをしてみました。。が、そんなときに限って、カンニングがバレ、0点を取りました。

・ピアノが嫌いで、自宅まで来ていた先生の前で一時間だんまりを決め込みました。これは明らかに私がいけないことです。

・公文の夏休みの宿題「1000枚チャレンジ」が辛すぎて、300枚ほど捨てました。結局、それはバレたが。。。

・中学受験が忙しくて、そろばん教室に行きたくなく、学校帰りにさぼりました。結局、バレたが。。

・中学受験の勉強が精神的に辛すぎて自殺をしようとし、家の二階の屋根に上ったが、しばらく色々考えた挙句、あきらめ引き返す時に、落ちました。落下時の「痛い匂い?」のような嗅覚的感覚を今も覚えています。。

・中学の頃、隣のクラスで、同じ部活の女の子に初恋しました。本当に好きな人には、何もできませんでした。自分の引き出しがなさ過ぎて。。

・中学の頃、「キモい」とか、「調子にのっているんじゃねー」とか言う言葉が、日常的にとても多い環境で、心を痛めていました。私も会話のちょっとしたところでほぼ毎日言われた気がします。私は、そんなことを言う多くの奴には、成績でも、運動でも勝っていたので、「で、何?」といって気にしていませんでしたが、昔親に言われた「顔もダメ、頭もダメなら、何のとりえもない。そんな奴は、我家の人間じゃない。」というトラウマと結びついて、実は酷く落ち込んでいました。(※ 「キモい」と平気で人に言う人が、没落する仕組みは、後日、記事で述べたいと思います。)

上記は、中学生までの頃の思い出です。私の覚えている恥ずかしい思い出です。特徴を整理すると、、、

① 好奇心旺盛で無邪気 ( → 悪いことしても、「理由」は言えない )

 結果がどうなるか分からんが、何だか面白そうだからやってみよ..という短絡的な考えで変なことをすることがしばしばあった。これはエンジニアになった今、実はとても重要な感覚で重宝している。大人になると、「結果予測」と「何だか、という感覚の根拠」を説明できるからである。これは、「ここをこんな形状にしておけば、強度的に強いはずだ」という目算を立てる思考につながっている。もっと大事に育てて欲しかったし、育てるべきであった。

② 自分勝手

 子供の特徴です。子供は、早くから規律と品格のある集団生活を送らせるべきだと感じました。少年野球や、武道がやりたかった。

③ 中途半端

 結果の善悪は別に、「怒られて、その理由がわからず、罵倒され続けた」記憶が強すぎて、何事も迷いが多く手が付かなかった。極端な話、「次に息を止めるか否か、それぞれどんな未来になりうるか、怒られないか?」のような意味のあまりないことをよく考えていました。最近知ったのですが、これは、勉強や仕事ができない者の特徴です。雑念だらけだったのです。これは怒られた理由をちゃんと明確にできなかったことの弊害だと思っています。私は、自分の子供には不当な叱りはせず、しても子供が悪いことをした理由を考える手伝いをしながら、子供が納得する理由を見つけるまで向き合いたいと思っています。それが、知能の成長と、物事に向き合う真の集中力を養うことにつながると実感しているからです。

④ 感受性が強い

 言葉の強さを人一倍強く感じる特徴があります。相手のあいさつ変わりの「キモい」とか、「バーカ」とかにも、鋭敏に反応してしまいます。

【自伝 -中-】中学生~高校まで

・化学が絶望的にできず、パワハラ教師からは授業中は音読要員と指定され、「音読の○○」と呼ばれていました。読んでも、ちっとも頭に入ってこなかったが。。

・陸上競技部に所属していましたが、「雑念が多いことによる中途半端」な特徴のため、練習に身が入らず、ジョギングばかりしていました。

・高校の頃、皆とつるんでの行動(ex.つれション)が無駄に感じ、一人で行動することが増えました。実際、理系クラスは少なく、クラスメイトと共同の授業はほぼなかったので、全く問題はありませんでした。代わりに、理系クラスの人とはしばしばつるみました。

・数学、物理、英語の偏差値は、10月頃まで偏差値50を超えることはありませんでした。しかし、11月の防大受験の一週間前の夜に、数学、物理、英語の問題へのアプローチ方法を開眼し、合格しました。このとき、雑念を捨て、真に目的に集中することの威力を知りました。が、これが中々コントロールできないのだが、、

ここで改めて特徴を整理すると

❶ トラウマを引きづっており、トラウマとなりつつある物がある。

❷ 中途半端

 結局、過去のトラウマが雑念生み、中途半端な生き方をさせてしまっている。そして、また更に追加されたトラウマが、さらなる中途半端を膨らめてしまっている。完全に悪循環であった。。だか、本当にその「迷い」を断つきっかけが、防大受験であり、その合格であった。全問自信をもって回答し、見直し時間も十分に取れたなど、自分の人生ではなかったことである。下記に、当時のヒントとなった参考書を上げておく。。

〈人生を変えるきっかけとなった参考書〉

◆ 為近和彦.「為近の基礎物理Ⅰ・Ⅱ 」,代々木ライブラリー,2004.

◆ 漆原晃.「漆原晃の物理 物理Ⅰ・Ⅱ明解解放講座」,旺文社,2000.

◆ 富田一彦.「富田の英文読解100の原則 -上/下-」,大和書房, 1994.

◆ 佐々木和彦.「英語長文が面白いほどとける本」,中経出版,2003.

◆ 鈴木友康・狩野裕健.「合格英単語600」,ごま書房,1999.

これらの本に出会い、「論理的な考え方」「問題へのアプローチの仕方」「自分の知識の引き出し方」が分かりました。受験にとどまらず人生のヒントを与えてくれた名著だと思います。今もそれぞれヴァージョンアップして出版されているので、興味のある方は調べてみてもらえたらと思います。

本日は、ここまでにしたいと思います。

【本日の動画】

ベートーヴェン – ピアノソナタ8番「悲愴」第二楽章 – Beethoven – Pathetique Piano Sonata No.8 Op.13-2

私が子供の頃から好きな曲です。私には、温かく優しい思い出が次々に想起されて、辛い思い出が浄化されるような、そんな気にさせてくれる曲です。ノクターンOp9-2も好きです。

引用:CANACANA family 様 

いつも素敵な曲を届けてくださり、ありがとうございます。

自伝 -下-

自分の人生を日々見つめなおしています。その中で、私という人間の成り立ちを分析する意味も込めて、「自伝」を書くことにしました。ある種の物語になっているので、時間のある方は読んでみてください。

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(自伝 – 中- 続き)

私は、某私大の理工学部に入り、電気電子工学を学んだ。基礎数学(微積分・線形代数・確率統計・ベクトル解析)、基礎物理(力学)、電気磁気学、電気回路、電子回路、C言語、制御工学、生命科学、パワーエレクトロニクス、応用化学、実験演習 etc

当時、私は自分の現状に満足していなかった。このようになってしまった理由は、(自伝 – 上/中 -)から察するにがたい。私は、自分の専門性を高め、プライドをもって、世のためになる人間になりたかったのである。その為には、優秀な人間が多くいるさらに上の大学や大学院を目指す必然があったのである。何も、自分の家族に認められたいとか、エリートになって女の子にチヤホヤされたいとか、そんな利己的な考えでは最早なかった。

私の大学生活は、通常の日本の大学生とは一線をかしていた。AM9:00~17:30までは、理工学部の1,2年生は講義が山ほどある。私は、その後の18:00~22:00までも大学の図書館で勉強した。これを二年間続けた。お陰で、成績優秀賞を得るほどになった。もっとも、大学に入ってみて思ったのは、推薦で入ってきた者が6割以上を占める場所で、かつほとんどがバイトや恋愛に精力を注ぐ中で、学業に打ち込んでいるのだから、成績優秀になるのは当然の結果であった。

実は、この努力は、より上位の大学の編入試験を受ける狙いもあってのものだった。結局二校を受験し、結果は失敗(1校補欠合格)であった。応用化学が壊滅的にできず、面接では、そこを指摘された。(高校時代の化学のトラウマを克服するには至らなかった。。) ちなみに、某編入試験(二次)の面接を受けに行った日。その大学のテニス場で、同じ高校から指定校推薦で進学した女の子が、テニスをしている姿を偶然目にした。彼女が高校時代の知力に対してこの優秀な大学の指定校を取れた理由をここで述べても詮無いことだが、、何故か、ここは自分の居場所ではないと感じた。

大学3,4年時は、授業数も減り、自由な時間も増えた。ちょっとした講師のバイトや父の事務所の事務作業を手伝ったりした。サークルには席を置いていて、毎週、軽めのランニングをしたりして楽しくやっていた。3年生の冬のある日、大学図書館が工事で使えなかったので、部室でのんびり勉強していた。一人の可愛らしい後輩の女性部員が部室に物を取りにやってきた。。普段そんなに会話することはなかったが、その日は何故か会話が弾み、夜も遅かったので駅まで一緒に帰ることにした。別れ際、彼女からは、また一緒に帰りませんか?という微笑ましい言葉を頂いた。その後、彼女とは交際をすることになったが、私が大学院の一年となり、彼女が就活に奔走する中で、別れることになった。それぞれの人生の目標があまりに違っていたからである。これは言いかえれば、そこを考えるほど、実は、相性は良かったのであるが。。

この頃、私の家では、長兄が大手自動車会社の経理部に就職しており、大喧嘩した次兄は司法試験に合格をした。我が父母は、幸せの頂にいたと思う。兄たちは、自身の努力と結果に大いに誇りを感じていたためか、人に優しくなった。理性的な大人になった。また、従姉が、甲斐犬の赤ちゃん5匹を道端で拾い、その内の白い一匹を我家にくれたことで、穏やかで癒しのあふれる時間が流れることになった。。

大学4年になり、研究室に配属になった。私は、新しい物がやりたかったので、既存の電力や通信系の場所は面白みを感じず、色々できそうな場所を選んだ。研究室は制御工学がテーマで、ロボット制御や分子を用いたコンピューティングが対象分野としてあった。私は、後者に強い魅力を感じた。

研究室には、色んなメンツがいて、それが私の価値観をさらに広げることになった。株をやって、某政治団体の党員であり、ITリテラシーの高い優秀な先輩、恋愛やバイトのことばかり考えている先輩や同期、何故か司法試験を目指すなどといっていた同期、オタク。また、配属されてほどなくして、後輩の配属も決まった。後輩は、応援団員やら、真面目なやつ、日本の理系には珍しい美女、その親衛隊面をした者、大志ある者、モラトリアムを謳歌し根暗になり下がった者など多様性に満ちていた。先生は、初めは人格者で穏やかな方に見えたが、学生の行動をカメラで監視していたり、公私混同が激しかったり、安価な必要設備の整備を渋ったり、自前の学会で学生を発表させポイントを稼ぐなど、人格と研究者としての姿勢に疑問を感じることが多々あり、私は大学院は他大に行くことを強く決意することになった。

私は、4年の3~5月ころは、AI知識を詰め込んだり、遺伝的アルゴリズムを組んでみたり、分子を使った実験を先輩にさせてもらったりしながらテーマ探しに奔走した。結局、全く新しい化学系のコンピューティングを提案し、そして、終了した。ここで知ったのは、モノ作りの三つの本質であった。つまり、「構想がいい加減だと良い物は作れないということ」「目的が果たせるなら、外観細部にこだわらずに進めること」「テーマ推進は主体的に進めなければならないこと」の三点である。ここに気が付かずに、卒業間際までテーマすら決まらず、結局先輩の研究テーマをほぼ参照して終わる情けない奴もいた。私は、目的をもって主体的になったおかげで、上記三つに気が付けたと思っている。私は、彼らの学生時代は、客観的に見て、モノ作りや開発の姿勢という点で得た物は何もなかったのではと今でも思えてならない。。これは、就職して周囲のエンジニアをみて強く思ったのが、実は、そんな者がとても多いのである。

これは、「自伝 -中-」で書いた、挫折なく来た者の特徴であると思っている。つまり、幼いころから、容姿、知能、運動神経などで、誰かに蔑まれることもなく、大事に、優しく、褒められながら育った者は、精神が子供であるので、その行動や判断は、本能的であり、主体性がなく、利己的であるということなのである。

こうして大学での研究を進めた私は、同時に大学院試験の受験もした。自分の大学の研究科、東北大学や東京工業大学の研究科も受験し、全て第一希望の研究室に合格できた。。人生で一番嬉しかった瞬間であった。

大学院に進学した。教授、准教授、助教、専任講師、先輩、同期、後輩、、皆とても優秀であった。私は分子を用いたテクノロジーの研究に打ち込んだ。先生方の考え方、物事の進め方は、とても紳士的で、論理的で、感性豊かで、教育的で、品格があった。私は生まれて初めて師と仰げる人たちに出会えたと思った。

この頃から、先生方の考え方を理想とする中で、私は人とのつながりを選び、その人たちとの関係を深くしたいと思うようになった。なりたい自分が定義できた以上、最早、多くの人との触れ合いによる自我形成は不要で、自分で多角的に考え、深める、たまに客観的な意見をくれたり、接することで刺激を受けられる人が少数いればよいと考えたからだ。

そんなこんなで、中高の友人二人、大学の同期二人、大学院の同期一人、先輩一人を信頼できる人として交流をはかることにした。この頃からは、同窓会などの存在が煩わしかった。例えば、前述の大学の研究室では、先生好みの女子学生が入った頃から、忘年会や同窓会が開催されることになり、それ以前にいた先輩女子学生との扱いの落差に愕然としたものである。こんなことは、あってはならないのである。この会に「人付き合い」として参加し、先生の品格の程度を感じる度に、自分の目標に向けた活力が奪われていくのが分かった。余談ではあるが、後年、前述の女子学生と先生のご子息が結婚された。とても高貴な雰囲気の美しい女性と、優秀な学歴と仕事をされている立派な男性の二人であった。先生のご子息については、日頃から、よく自慢されていたので、正直、その知能が羨ましかった。また女子学生の方は、その美貌と丁寧な応対を受けているだけで人を心地よくさせる魅力的な人で、正直、私は惚れていた。だから、彼らの結婚を聞いたときは祝福と落胆が混じりあう気持ちであったが、無意味な落胆にすぐに気が付き、彼と彼女の幸福を心から願うようになった。昔、某映画で、「見守り続ける愛」という概念を述べた作品があった。それを知ったときは、理解できなかったが、自分が人に惹かれ、その人がその人なりの幸せをつかんだとき、初めてそれを理解できた。今、彼、彼女が何をしているかはほとんど知らない。しかし、彼らの成功と幸福を願っている。それが、私ができる唯一のことだからだ。

話を戻して、人付き合いは選び、深めることにした。この選択は、今になって思うと有効であったと思っている。内面が豊かになれば、別に多くの人とつながっていなくても、不安はなく、十分幸せであるからである。

大学院では、分子を用いた構造体を自律的に形成する新手法を提案し、同期のなかで唯一、学会発表レベルに仕上がったと教授に褒めていただくに至った。これは、まるで本当の兄のような温かさと厳しさを感じるような、そんな指導をしてくださった助教や先輩方のお陰である。本当に感謝している。。先生からは、博士課程進学について問われたが、私は辞退した。理由は、世の人のためになる物を直ぐに作りたくなったということと、真の天才たちを前に力の限界を悟ったこと、私の学歴への拘りは満たされたことが上げられる。

こうして、大学院を去った私は、機構設計者として、今の会社に就職した。

同期は数十人いた。親睦会の時から研修のときまで、一人一人と食事をし、色んな人がいることを改めて知った。結論、精神の練られた者は、一人もいなかった。特に問題だったのはハーフや留学生である。彼らには、帰属意識もなく、仕事を通じて社会貢献するという熱意もなく、したがって、仕事も受動的であった。現に、10年弱で全て退職している。また、エンジニアといっても、プログラマーや仕様設計、デザイナー、回路設計者などは、その特性上、使われ根性丸出しになる。意識は、世のため、人のためではなく、自分のためである。エンジニアの中でも、特に機構設計者が、利他的であり、主体的なモノ作りを常に求められるのである。なぜなら、機構設計者が、全体のメカニズムを具現化する青写真を描けたとき、はじめて他のエンジニアたちは動けるからである。元々が違うのだ。

機構設計者の仕事については、過去記事でも書いているが、その職責と難易度、手法は日進月歩で、終わりがない。土日も皆、頭の中で何かの構想しているであろう。。機構設計者は、残業が多く、給料が安く、プライベート時間が少なくて結婚が遅く、家庭を省みる余裕のある人が少ないので家庭不和になることもしばしば耳にする。しかし、世の中に自分が構想し、皆を働かせて作った製品が、そのまま出荷され、多くの人の生活に役立っていると思えるモノ作り系唯一のエンジニアである。そこだけは、誇りであり、やりたいことが出来ていると思っている。

今、私は機構設計者として10年弱のキャリアを積んでいる。今後もまだまだ色んなモノ作りをしたいと思うが、コロナ下でも全日出社・深夜残業という、このいかんともし難い激務をそろそろ終わらせ、自分のリズムで働き、稼ぎ、世の人々を幸せにしていきたいと思っている。なぜなら、自分の学んだ情報を次の世代に伝え残す時間すら無くなってしまうからである。そうなってしまうことは、非常に残念なことで、私の誕生に導いてくれたご先祖様や、後世の人類に、勝手に申し訳なく思うのである。

今後は、その目標のために、堅実な構えを作っていくべく、今色々構想している。ブログやyoutubeによる広告収入、高価値の情報(コンサル含む)販売による収益、これらを基礎事業とする会社の設立、最低限の社会的信用を得るための国家資格の習得、およびそれを用いたコンサルなどで生きて行けるようになろうと思っている。そして、自宅にいながら仕事をする。また、理解のある妻を持ちたいと思っている。健康で、創造的で、向上心のある方なら大歓迎である。正直、体の相性とかはどうでもよい。だから、スタイルとか、そんなのもどうでもよい。言葉を交わし、その存在を、その雰囲気を感じ、行動を理解し、微笑み、互いに心のつながりを感じられれば、それで私は幸せである。コロナ下であるが、良い人とご縁があることを願うばかりである。

あ、最後に、もしこのブログを見ているあなたが私の知人だとしたら、私はあなたに誤解を与えてしまっているかもしれないので、簡単な説明と感謝の気持ちを伝えたいと思う。

まず、SNSを使い分けたり、ときに返信を返さなかったことを謝りたい。別にあなたとの交流を断絶したくてそうしたわけではない。理由は二つです。

一つは、集中したいことがあって、距離を置きたかったから、もう一つは、これ以上のやり取りは互いにとって建設的ではないと予測できたから、です。

生きる土俵が違えば、夢も目標も違います。時に、友人であっても語りたくない信念というものがあります。その実現に身命をかけているときは、申し訳ないがやり取りを遮断いたします。あなたがそういう時は、私も察するので、どうぞご理解いただきたく思います。

また、順調にやり取りをしているように思えても、あなたのお身体や心の状態がお疲れの場合は、区切りの良いところで会話を止めさせていただきます。とくに、お心の状態が不安定で、しばらく回復に時間がかかりそうな場合、かつその回復に私を必要としていないと分かった場合は、申し訳ありませんが会話を止めます。どうぞ、重ねてご理解いただきたく思います。

【本日の動画】太陽と波の音

立石海岸の波打ち際の風景です。水平線と寄せては引く波の律動音を聴きながら、しばらく水平線を眺めていると、雑念が払われ、日の光が導く方向へ前途が開けたような、そんな気持ちにさせてくれます。

自伝 -中-

自分の人生を日々見つめなおしています。その中で、私という人間の成り立ちを分析する意味も込めて、「自伝」を書くことにしました。ある種の物語になっているので、時間のある方は読んでみてください。

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(自伝 – 上- 続き)

中学生になった。私は、制服に袖を通し、毎朝満員電車に乗って都会の学校まで通った。

学校は、個性を重んじ、髪型、メイクなどの規制はなく、女の子は制服っぽい服ならOKであった。

当時は、小型携帯電話であったり、MDからMP3の転換期であったり、デジカメの小型化がPENTAXのOptio S を境に加速したりと流行のツールが目まぐるしくかわったときである。個性馬鹿出しの学校では、自慢するツールがいつもあって、元来好奇心旺盛の私には、毎日が刺激的であった。

また、大金持ち、小金持ちの子供も結構いて、親が個人ゲレンデをもっていたり、松茸狩りができたり、別荘がいくつもある奴がいて、、彼らと肩を並べて過ごす日々は、良い悪いの両面で貴重であった。

学校の授業は、大学まであるエスカレータ校のため、完全に文科省の定めた内容と外れていた。数学は基本的に計算問題の演習、社会はほとんど日本史、英語は何やっていたのだろう…?、理科?、国語や芸術系はえっらい大変だった。明らかに、外部に人を出さないようにするという学校の考えが分かるカリキュラムであったが、感性豊かな人材を育てたいという一点は非常に建設的で良かったと思っている。ここが、先ほどの服装などの印象と相まって、自由な校風を世に与えていたと思う。。

こんな環境の中、私は、楽しく過ごした。勉強もそれなりに自主的に計画的にするようになり、成績も70-80%の出来を推移、元々それなりに得意だった、日本史や国語、芸術的センスがかってに磨かれていった。

また、自由な校風のため、恋愛や性への興味が高い校風でもあった。教師自身が毎年そんなスキャンダルを起こしていた感じであった。普通の同世代よりも確実に早い経験も、必然の環境であった。

それは、自我を目覚めさせるにはとても有効であるが、10年弱急進的であるがために、学校外の世代との意識差を感じさせられることとなった。それを理解したのは、まずは、家庭内であった。

この時期、私の両親からの罵詈雑言は完全になくなっていた。私が幼少期のときの、穏やかで優しい父と母になっていた。このギャップに、私はびっくりしたくらいである。私の成績や部活での頑張り、毎日の出来事に一喜一憂してくれた。私はそれが自分を認めてくれているようで、嬉しくて、もっともっと認めて欲しくて頑張った。しかし、私の兄たちは、依然、私を見下し、揶揄い、時に手を上げた。これが、自我が目覚めた者と衝突しないわけはなかった。

この時期の私の一日は、「学校→部活→勉強→遊び→風呂→就寝→学校」であった。遊びは、思春期の男子らしく、、漫画、ゲーム、Hな読書であった。当時の目標は、父と母に認められることと、女の子にチヤホヤされることであった。その為の努力を邪魔する者は、全力で抗う覚悟があった。そして、兄と衝突した。

ある日、私は勉強をしていた。その横の部屋で、兄が大音量でゲームをしていた。私が、勉強中だから静かにしてほしいとお願いすると、、、

「馬鹿学校のお前が、勉強したって何にもならん。馬鹿が馬鹿作っているだけだ。それより、いい学校に行っている俺がストレスを発散し学問に集中できるようにして、偉くなった方が、家のため、世のためだろ。」

とほざいた。当時の兄は、今見ても明らかに、ガキであった。思想がねじ曲がっていた。それを聞いた当時の私は、生まれて初めてキレた。5年分の想いが爆発した。兄の傲慢さと、論理の曖昧さを罵り、名門大学を出てもニートの例も上げ、怒鳴りつけた。また、一つの発言をしながら兄のゲーム機を完全に破壊。ゲームのソフトもすべて壊した。これが、現状私の人生で唯一の破壊行為であり、5年間の観察をへて、兄の行動を堕落させ、かつ私の尊厳を意図せず傷つけ続ける要因がここにあると強く感じたための行為であった。ここで破壊しなければ、元の生活に戻り、この喧嘩の意義がないと判断したための行為であった。これを間違ったとは今も思っていない。このときは、兄に殴られたので応戦し、生まれて初めて兄を殴った。その後、父の介入により、騒ぎは収まった。。私は先に手を出した兄に後頭部を強く殴られた際にアザが出来たが、兄は手の甲を骨折するケガをした。。一つ間違えれば、私は死んでいたであろう。自分の尊厳をかけた男の喧嘩とは、こういうものである。

間違ってはならないが、私は破壊行為や怒鳴り散らす行為を軽蔑している人間である。精神性が低く、利己的であり、反道徳的で下等な行いだからである。だが、5年間、弟であるという理由で服従を強制され、学業成績が劣っている、容姿が劣っているというだけで、日常的に言葉の暴力を浴びせられることに耐え続けることは、私にはできなかった。

その後、3年間、兄とは一言もしゃべらなかった。兄は、父に嘆願し、敷地内にあった祖父の家の一室でくらすようになった。子供の頃から、頭でも、容姿でも、運動でも褒められ、何不自由なく、挫折なく育った兄にとって、私の反抗は、初めての挫折であった。

恵まれた才を持って、早くからモテハヤサレタ者は、案外いくつになっても精神的に子供であり、脆く、すぐに逃げようとすることを、この時私は何となく感じた。

この事件は、兄と私、双方にとって重要な決断をさせる一つのきっかけであった。つまり、理系と文系というレベルでの選択である。兄は、知能の低さで蔑んでいた弟に怒鳴られ閉口するという口論での敗北を受け、その頂点に上り詰める決心をしたように思う。元々、文学部にいき大好きな歴史学者になると言っていた兄だが、その翌年の大学進学時には、法学部を選んでいた。一方、私は、親族全員が文系という中で、優秀な兄を敵に回した以上、自分が文系に進んだら生涯に渡って争い続けることを予見し、苦手だった理系に大方針転換を決意した。これは、幸せな学校生活との決別を意味していた。

高校に進学した。学校は、相変わらずエスカレータ校のカリキュラムで、全てが受験勉強の邪魔であった。文法や構文のとり方もない英語、計算だけの数学、暗記だけの物理と難解な期末、恐怖授業の化学、、音楽や家庭科も何故が筆記試験があった。恐怖授業といったが、私が小学生の時に家でされてきた罵詈雑言を教師でする奴がいたのである。私は、三年間この苦しみに耐えねばならず、これが化学へのトラウマとなってしまった。

苦しみに耐えながら、私は学校が終わった後に、代ゼミに通い、、色々ありながらも、防衛大や、一般的には難関大と言われている幾つかの私学の理工学部に合格した。このとき、兄が三年ぶりに私に話しかけた。

「おめでとう」

と。。。これが、兄弟喧嘩の終わりであった。私たちは少し大人になり、和解した。

この6年間で知ったことは、下記である。

◎ 幼いころからチヤホヤされて挫折を知らない者の精神年齢は、かなり低い。

幼いころからチヤホヤというのは、容姿、頭脳、運動神経などに優れ、誰かに蔑まれることもなく、大事に、優しく、褒められながら育ったということである。

こうした人間は、体は大人でも心は子供なので、成人しても、、、

・面白くないことがあると、暴力をしたり、物に当たったり、喚いたりする。

・失敗すると、現実逃避したり、殻に籠ったりしようとする。

・人の意見に左右され、自分で一から考え、決断することが苦手である。

・人を上辺で見下す傾向がある。

この後、大学時代以降の話をするが、私の周りで、そんな者を多く見てきた。学業でも、仕事でも、恋愛でも、友達付き合いでも、そうである。

そして、実は、多くの人間は、「普通」以上と勝手に思い込んでいるので、目に見えた挫折はなく、いくつになっても精神は子供であり、その子供が仕事をしたり、恋愛してみたり、結婚してみたり、人の親になっているのである。

(自伝-中- 完)

自伝 -下- に続く

【本日の動画】成熟した泉

真水は、生命を育むことはできません。鉱石や養分が適度に含まれた状態が、水が自然界で最も安定するのです。このときの水は、多くの生命を育みます。この泉には、魚やサワガニがいました。一方で、生物は、真水を飲むと栄養を奪い去されてしまいます。成熟していない水は、生物を破壊するのです。同じように、心が成熟していない者は、人を心から愛すことはできず、まして人を健全に養うことなどできないのです。私の親のように。。

戦争で兵士が突撃できる心理

今、世界の情勢は不味い方向に向かっている。巨大国間の思想の相違は色濃さを増し、その傀儡国家と化した貧国や武装組織を媒体として、世界各地で紛争が起こっている。

我が日本の領海も、ロシア、中国、北朝鮮によって、日々侵されている。自衛隊や海上保安庁の方々と、日本国の安寧を祈って下さる天皇には、敬意と感謝の気持ちをもってやまない。

こんな時代、私は一人の国民として、常に、真に命をかけた戦闘をする心構えを養ってくことが大事であると思うのである。

さて、このように考えた時、今の自分や、周囲の者たちを見てみて、国家によって徴兵され、眼前の敵に対して下知された突撃をできる者は何人いると思うであろうか?

私は、今の日本人には、自殺志願者と薬をやっている者を除いて、突撃は不可能であると思うのである。なぜなら、我々はあまりにも利己的になり過ぎてしまったからである。利己的というのは、自分(たち)の利益のみを追求する様 をさす。

利己的である人は、自分の利益、つまり自分の幸せのみを考える。だから、誰かに「死ぬかもしれない場所に、突撃しろ!」と言われても、不可能である。

良く、戦争の節目となる事件のあった日がくると、テレビでそのドキュメンタリーが放送され、それに対するネット書き込みを目にする。するとそこには、例えば、「特攻隊の人は、きっと薬を飲まされていたに違いない」とか、「洗脳教育をされていたに違いない」とか、「自殺しに行くなんて絶対にまともじゃない。異常者だ。」とかいうニュアンスの書き込みが散見される。

平和な時代が偶然続いた今の時代背景を前提として、その結果、利己的になってしまった現代日本人からすれば、そうとしか思えないのが当然である。だが、戦前の日本人は、きっと違った考えを持っていたはずである。それは、大きく二つの背景を知れば、自ずと理解できるように思うからである。

① 「国家による徴兵制、それを拒んだ者への法的な制裁(=死刑)と、それによる世間の目による家族への影響から、行かざるを得ないという」受動的背景

② (国家への帰属意識と愛国心が高いことが前提で)「愛する国土、家族、恋人、次の世代の子供達が生きる為の殺し合いならば、刺し違えてでも、是が非でも勝たなければならないという」能動的背景

これらの概念的背景があると、「拒んでも死、しかも残った家族が社会的に辱めを受けるなら、前進して僅かな生を掴もう」「国の一般兵器で敗戦がほぼ確定てきなら、このまま戦っても無駄死にしかない。是が非でも勝ち、国土や愛する者を守らねばならない。ならば、最高の兵器で突撃し、一人でも多くの敵を道ずれにして死のう」という発想になると思うのである。少なくとも、私は、自分の母や、まだ見ぬ妻や子が、自分が死んだときに確実に敵に弄ばれて殺されると思うのならば、自分がどうなろうと相手との戦いを選ぶからである。ただ、私もむやみに命を投げ出すつもりはない。その為に、「敵が、私の愛する者たちにどんな危害を加えうるのか?」を瞬間的に察知する分析力と、「いざ戦ったさいに制圧する力と精神」を生涯にわたって養っておきたいと思うのである。

私の祖母には、12人の兄弟姉妹がいた。祖母は、12番目の子であり、上に9人の兄がいた。その内7人が特攻した。祖母の兄たちは皆、師範学校を主席か次席で卒業する秀才たちであったらしい。祖母は、数年前に他界したが、90歳近くまで一生懸命に生きたのは、恐らく、兄たちの死に報いる為であったと思うのである。祖母の兄らの悲願は、日本国の敗戦で叶わなかったが、米兵は兄たちが守ろうとした者の一部である家族の命を奪うことはしなかったので、そこは救いであったと思うのである。もし、エリートであった祖母の兄らが、敗戦しても国土や愛する者は奪われないと予測できたのならば、敗戦しても日本国の誇りが失われない、欧米との関係はABCD包囲網の前と同じになると分かっていたら、特攻などはしなかったであろう。。が、そんなことはあり得ないので、私には、どう考えても、当時の祖母の兄たちは、そう選択せざるを得ないと思うのである。

【本日の動画】そうせいの滝

地元相模原にある、「そうせいの滝」と呼ばれる滝不動様です。

多くの兵士が突撃により命を落とした日露戦争、太平洋戦争で出征した者の無事を、その家族や恋人がこの滝に戦勝祈願に来ていたと言います。密林の中、滝の音が滝壺に響き渡り、心を清めてくださいます。

自伝 -上-

自分の人生を日々見つめなおしています。その中で、私という人間の成り立ちを分析する意味も込めて、「自伝」を書くことにしました。ある種の物語になっているので、時間のある方は読んでみてください。

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私は、バブル華やかりし時代に、生まれた。

父は自営業を営み、母は専業主婦。姉と二人の兄がいた。(姉は後に他界)

祖父と祖母は、神社と農業の仕事をしていた。戦前は、先祖が開拓した広大な土地を代々相続する地主であった。終戦直前に土地の無条件割譲を軍に要求され、戦後は農地改革で全ての土地を失った。その後、怒涛の如く入植してきた素性の知れない者たちに、自分の命を懸けて守り、育ててきた土地が蹂躙されていくのを、どのような気持ちで過ごしてきたかと思うと、神社の仕事と農業を営んでいた理由が分かる気がする。祖父の姉は尼僧であり、渋谷で尼寺を営んでいた。私が生まれたのは、その祖父の姉が亡くなった三か月後であった。

私の記憶の中にある、この世界の初めての光景は、黄色い光。色んな人が私を覗き込む顔であった。次に覚えているのは、歩き出して自由気ままに過ごす快適さと、我がままをすることへの喜びの感情であった。何をしても、周りの人は、私を正義とし、尊び、支えてくれた。そしてしばらくして言葉を話すようになると、物事の善悪を教えられ、今度は、毎日泣く日々であった。

5歳を過ぎると、自分の家族の関係を理解し、良いこと、悪いことが何となく分かり、毎日遊んでいたと思う。毎日無邪気に遊んだ。砂でお城を作ったり、秘密基地を作ったり、走り回ったり、アニメを見たり、ゲームをしたり、竹藪で竹を切ってきて弓矢を作ったり、父の職場に潜入したり、母の買物についていったりするのが楽しみであった。毎日が、楽しかった。

7歳になり小学校に入学すると、習い事が始まった。私の無邪気な時代は、終わりを迎えた。公文、そろばん、ピアノ、学研の科学実験キット、水泳etc 、、どれも今思うと魅力的なスキルであるが、当時は、嫌いであった。特に水泳はダメで。。水が怖くて、プールサイドにしがみついて泣き、コーチを困らせた記憶がある。。が、不思議なことに最も大成したのは水泳であった。5年後には、10個の階級をクリアし、選手コースにまで進むことができた。これは、兄弟の中で最も出来の悪かった私の、、幼少期の唯一の勝利であった。。誰にも、たたえられなかったが。。

小学生も高学年になると、中学受験の勉強が始まった。親からは、中学受験は「するもの」と教えられていたので、全く先入観なく塾に通っていたが、二次成長に至っていなかった私は、兄たちと違い論理的思考も遅れていて、全くできなかった。。。算数:偏差値48、国語:偏差値53、社会:偏差値62、理科:偏差値41、これが当時の私の精一杯の実力であった。

全ての科目で偏差値65を超えていた二人の兄からすれば、恥ずかしい、馬鹿な弟であった。純粋だった私は、それを恥じ、毎日が辛かった。何をされても言い返すことができなかった。毎日神頼みし、毎日勉強して、毎日泣いて眠った。

二人の兄を当然のように見てきた父母は、偏差値60を超えるのは普通だと思っていたので、私を激しく叱責し、罵詈雑言という言葉の暴力を三年間、私に与え続けた。手を挙げなかったのは親心であろうが、代わりに兄たちがそれを代行した。

幾つか上げると、

・豆腐屋の角に頭をぶつけて死ね!

・顔もダメ、頭もダメなら、何のとりえもない。そんな奴は、我家の人間じゃない。

・馬鹿な理由を説明しろ!親を馬鹿にしているのか?

・○○?あいつは、出来ない奴だからな。。

・何でいつも怒られると黙り込むの?何を考えているの?何で泣くの?何時間泣いているのか?今日は一晩、外で正座してなさい。

である。私は、この時、本気で自分は父母の子ではないと思った。

今は穏やかな親や兄たちからは想像もできない時代があったのである。本人たちは、忘れているが、、。私は、この時代、自殺することを真剣に考えていた。しかし、学校の愉快な仲間たち、可愛いワンコとの思い出を一瞬でも思い出すと、彼らと離れたくなくて死ぬことができなかった。彼らは、私の救いだった。7歳から始まったスパルタ教育は、こうして私の知能の成長を鈍化させ、精神を歪めることになった。一方で、地主や金持ち連中が放つ、根拠のない自信や他人を見下す雰囲気が良くないことに気づき、公平な目線を養うことになったことは、良いことであったと今も思う。

こんな生き地獄のような時をへて、私は、当時偏差値51だった私学に合格した。兄たちは、私を揶揄うことを止めなかったが、私にはやっと地獄から地上に出た気持ちで、その都会的な、キザで、馬鹿で、大雑把で、欲におぼれた校風に、おぼれた。こうして2年の月日が流れ、私は中学三年生になった。

ここまでの人生で学んだことは、下記である。

◎ 人は公平ではない。

◎ 神様は神頼みしても助けてくれない。でも、神頼みすると心は救われる

◎ 友達と犬、良い思い出、夢は、人を救う。

◎ 傲慢は悪、謙虚が正義。

◎ 言葉の力は、とても強い。その扱いには注意しなければならない。

◎ 暴力は、絶対にしない。暴力をするのは、精神が弱いからだ。

(-中- に続く)