自伝 -中-

自分の人生を日々見つめなおしています。その中で、私という人間の成り立ちを分析する意味も込めて、「自伝」を書くことにしました。ある種の物語になっているので、時間のある方は読んでみてください。

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(自伝 – 上- 続き)

中学生になった。私は、制服に袖を通し、毎朝満員電車に乗って都会の学校まで通った。

学校は、個性を重んじ、髪型、メイクなどの規制はなく、女の子は制服っぽい服ならOKであった。

当時は、小型携帯電話であったり、MDからMP3の転換期であったり、デジカメの小型化がPENTAXのOptio S を境に加速したりと流行のツールが目まぐるしくかわったときである。個性馬鹿出しの学校では、自慢するツールがいつもあって、元来好奇心旺盛の私には、毎日が刺激的であった。

また、大金持ち、小金持ちの子供も結構いて、親が個人ゲレンデをもっていたり、松茸狩りができたり、別荘がいくつもある奴がいて、、彼らと肩を並べて過ごす日々は、良い悪いの両面で貴重であった。

学校の授業は、大学まであるエスカレータ校のため、完全に文科省の定めた内容と外れていた。数学は基本的に計算問題の演習、社会はほとんど日本史、英語は何やっていたのだろう…?、理科?、国語や芸術系はえっらい大変だった。明らかに、外部に人を出さないようにするという学校の考えが分かるカリキュラムであったが、感性豊かな人材を育てたいという一点は非常に建設的で良かったと思っている。ここが、先ほどの服装などの印象と相まって、自由な校風を世に与えていたと思う。。

こんな環境の中、私は、楽しく過ごした。勉強もそれなりに自主的に計画的にするようになり、成績も70-80%の出来を推移、元々それなりに得意だった、日本史や国語、芸術的センスがかってに磨かれていった。

また、自由な校風のため、恋愛や性への興味が高い校風でもあった。教師自身が毎年そんなスキャンダルを起こしていた感じであった。普通の同世代よりも確実に早い経験も、必然の環境であった。

それは、自我を目覚めさせるにはとても有効であるが、10年弱急進的であるがために、学校外の世代との意識差を感じさせられることとなった。それを理解したのは、まずは、家庭内であった。

この時期、私の両親からの罵詈雑言は完全になくなっていた。私が幼少期のときの、穏やかで優しい父と母になっていた。このギャップに、私はびっくりしたくらいである。私の成績や部活での頑張り、毎日の出来事に一喜一憂してくれた。私はそれが自分を認めてくれているようで、嬉しくて、もっともっと認めて欲しくて頑張った。しかし、私の兄たちは、依然、私を見下し、揶揄い、時に手を上げた。これが、自我が目覚めた者と衝突しないわけはなかった。

この時期の私の一日は、「学校→部活→勉強→遊び→風呂→就寝→学校」であった。遊びは、思春期の男子らしく、、漫画、ゲーム、Hな読書であった。当時の目標は、父と母に認められることと、女の子にチヤホヤされることであった。その為の努力を邪魔する者は、全力で抗う覚悟があった。そして、兄と衝突した。

ある日、私は勉強をしていた。その横の部屋で、兄が大音量でゲームをしていた。私が、勉強中だから静かにしてほしいとお願いすると、、、

「馬鹿学校のお前が、勉強したって何にもならん。馬鹿が馬鹿作っているだけだ。それより、いい学校に行っている俺がストレスを発散し学問に集中できるようにして、偉くなった方が、家のため、世のためだろ。」

とほざいた。当時の兄は、今見ても明らかに、ガキであった。思想がねじ曲がっていた。それを聞いた当時の私は、生まれて初めてキレた。5年分の想いが爆発した。兄の傲慢さと、論理の曖昧さを罵り、名門大学を出てもニートの例も上げ、怒鳴りつけた。また、一つの発言をしながら兄のゲーム機を完全に破壊。ゲームのソフトもすべて壊した。これが、現状私の人生で唯一の破壊行為であり、5年間の観察をへて、兄の行動を堕落させ、かつ私の尊厳を意図せず傷つけ続ける要因がここにあると強く感じたための行為であった。ここで破壊しなければ、元の生活に戻り、この喧嘩の意義がないと判断したための行為であった。これを間違ったとは今も思っていない。このときは、兄に殴られたので応戦し、生まれて初めて兄を殴った。その後、父の介入により、騒ぎは収まった。。私は先に手を出した兄に後頭部を強く殴られた際にアザが出来たが、兄は手の甲を骨折するケガをした。。一つ間違えれば、私は死んでいたであろう。自分の尊厳をかけた男の喧嘩とは、こういうものである。

間違ってはならないが、私は破壊行為や怒鳴り散らす行為を軽蔑している人間である。精神性が低く、利己的であり、反道徳的で下等な行いだからである。だが、5年間、弟であるという理由で服従を強制され、学業成績が劣っている、容姿が劣っているというだけで、日常的に言葉の暴力を浴びせられることに耐え続けることは、私にはできなかった。

その後、3年間、兄とは一言もしゃべらなかった。兄は、父に嘆願し、敷地内にあった祖父の家の一室でくらすようになった。子供の頃から、頭でも、容姿でも、運動でも褒められ、何不自由なく、挫折なく育った兄にとって、私の反抗は、初めての挫折であった。

恵まれた才を持って、早くからモテハヤサレタ者は、案外いくつになっても精神的に子供であり、脆く、すぐに逃げようとすることを、この時私は何となく感じた。

この事件は、兄と私、双方にとって重要な決断をさせる一つのきっかけであった。つまり、理系と文系というレベルでの選択である。兄は、知能の低さで蔑んでいた弟に怒鳴られ閉口するという口論での敗北を受け、その頂点に上り詰める決心をしたように思う。元々、文学部にいき大好きな歴史学者になると言っていた兄だが、その翌年の大学進学時には、法学部を選んでいた。一方、私は、親族全員が文系という中で、優秀な兄を敵に回した以上、自分が文系に進んだら生涯に渡って争い続けることを予見し、苦手だった理系に大方針転換を決意した。これは、幸せな学校生活との決別を意味していた。

高校に進学した。学校は、相変わらずエスカレータ校のカリキュラムで、全てが受験勉強の邪魔であった。文法や構文のとり方もない英語、計算だけの数学、暗記だけの物理と難解な期末、恐怖授業の化学、、音楽や家庭科も何故が筆記試験があった。恐怖授業といったが、私が小学生の時に家でされてきた罵詈雑言を教師でする奴がいたのである。私は、三年間この苦しみに耐えねばならず、これが化学へのトラウマとなってしまった。

苦しみに耐えながら、私は学校が終わった後に、代ゼミに通い、、色々ありながらも、防衛大や、一般的には難関大と言われている幾つかの私学の理工学部に合格した。このとき、兄が三年ぶりに私に話しかけた。

「おめでとう」

と。。。これが、兄弟喧嘩の終わりであった。私たちは少し大人になり、和解した。

この6年間で知ったことは、下記である。

◎ 幼いころからチヤホヤされて挫折を知らない者の精神年齢は、かなり低い。

幼いころからチヤホヤというのは、容姿、頭脳、運動神経などに優れ、誰かに蔑まれることもなく、大事に、優しく、褒められながら育ったということである。

こうした人間は、体は大人でも心は子供なので、成人しても、、、

・面白くないことがあると、暴力をしたり、物に当たったり、喚いたりする。

・失敗すると、現実逃避したり、殻に籠ったりしようとする。

・人の意見に左右され、自分で一から考え、決断することが苦手である。

・人を上辺で見下す傾向がある。

この後、大学時代以降の話をするが、私の周りで、そんな者を多く見てきた。学業でも、仕事でも、恋愛でも、友達付き合いでも、そうである。

そして、実は、多くの人間は、「普通」以上と勝手に思い込んでいるので、目に見えた挫折はなく、いくつになっても精神は子供であり、その子供が仕事をしたり、恋愛してみたり、結婚してみたり、人の親になっているのである。

(自伝-中- 完)

自伝 -下- に続く

【本日の動画】成熟した泉

真水は、生命を育むことはできません。鉱石や養分が適度に含まれた状態が、水が自然界で最も安定するのです。このときの水は、多くの生命を育みます。この泉には、魚やサワガニがいました。一方で、生物は、真水を飲むと栄養を奪い去されてしまいます。成熟していない水は、生物を破壊するのです。同じように、心が成熟していない者は、人を心から愛すことはできず、まして人を健全に養うことなどできないのです。私の親のように。。

戦争で兵士が突撃できる心理

今、世界の情勢は不味い方向に向かっている。巨大国間の思想の相違は色濃さを増し、その傀儡国家と化した貧国や武装組織を媒体として、世界各地で紛争が起こっている。

我が日本の領海も、ロシア、中国、北朝鮮によって、日々侵されている。自衛隊や海上保安庁の方々と、日本国の安寧を祈って下さる天皇には、敬意と感謝の気持ちをもってやまない。

こんな時代、私は一人の国民として、常に、真に命をかけた戦闘をする心構えを養ってくことが大事であると思うのである。

さて、このように考えた時、今の自分や、周囲の者たちを見てみて、国家によって徴兵され、眼前の敵に対して下知された突撃をできる者は何人いると思うであろうか?

私は、今の日本人には、自殺志願者と薬をやっている者を除いて、突撃は不可能であると思うのである。なぜなら、我々はあまりにも利己的になり過ぎてしまったからである。利己的というのは、自分(たち)の利益のみを追求する様 をさす。

利己的である人は、自分の利益、つまり自分の幸せのみを考える。だから、誰かに「死ぬかもしれない場所に、突撃しろ!」と言われても、不可能である。

良く、戦争の節目となる事件のあった日がくると、テレビでそのドキュメンタリーが放送され、それに対するネット書き込みを目にする。するとそこには、例えば、「特攻隊の人は、きっと薬を飲まされていたに違いない」とか、「洗脳教育をされていたに違いない」とか、「自殺しに行くなんて絶対にまともじゃない。異常者だ。」とかいうニュアンスの書き込みが散見される。

平和な時代が偶然続いた今の時代背景を前提として、その結果、利己的になってしまった現代日本人からすれば、そうとしか思えないのが当然である。だが、戦前の日本人は、きっと違った考えを持っていたはずである。それは、大きく二つの背景を知れば、自ずと理解できるように思うからである。

① 「国家による徴兵制、それを拒んだ者への法的な制裁(=死刑)と、それによる世間の目による家族への影響から、行かざるを得ないという」受動的背景

② (国家への帰属意識と愛国心が高いことが前提で)「愛する国土、家族、恋人、次の世代の子供達が生きる為の殺し合いならば、刺し違えてでも、是が非でも勝たなければならないという」能動的背景

これらの概念的背景があると、「拒んでも死、しかも残った家族が社会的に辱めを受けるなら、前進して僅かな生を掴もう」「国の一般兵器で敗戦がほぼ確定てきなら、このまま戦っても無駄死にしかない。是が非でも勝ち、国土や愛する者を守らねばならない。ならば、最高の兵器で突撃し、一人でも多くの敵を道ずれにして死のう」という発想になると思うのである。少なくとも、私は、自分の母や、まだ見ぬ妻や子が、自分が死んだときに確実に敵に弄ばれて殺されると思うのならば、自分がどうなろうと相手との戦いを選ぶからである。ただ、私もむやみに命を投げ出すつもりはない。その為に、「敵が、私の愛する者たちにどんな危害を加えうるのか?」を瞬間的に察知する分析力と、「いざ戦ったさいに制圧する力と精神」を生涯にわたって養っておきたいと思うのである。

私の祖母には、12人の兄弟姉妹がいた。祖母は、12番目の子であり、上に9人の兄がいた。その内7人が特攻した。祖母の兄たちは皆、師範学校を主席か次席で卒業する秀才たちであったらしい。祖母は、数年前に他界したが、90歳近くまで一生懸命に生きたのは、恐らく、兄たちの死に報いる為であったと思うのである。祖母の兄らの悲願は、日本国の敗戦で叶わなかったが、米兵は兄たちが守ろうとした者の一部である家族の命を奪うことはしなかったので、そこは救いであったと思うのである。もし、エリートであった祖母の兄らが、敗戦しても国土や愛する者は奪われないと予測できたのならば、敗戦しても日本国の誇りが失われない、欧米との関係はABCD包囲網の前と同じになると分かっていたら、特攻などはしなかったであろう。。が、そんなことはあり得ないので、私には、どう考えても、当時の祖母の兄たちは、そう選択せざるを得ないと思うのである。

【本日の動画】そうせいの滝

地元相模原にある、「そうせいの滝」と呼ばれる滝不動様です。

多くの兵士が突撃により命を落とした日露戦争、太平洋戦争で出征した者の無事を、その家族や恋人がこの滝に戦勝祈願に来ていたと言います。密林の中、滝の音が滝壺に響き渡り、心を清めてくださいます。