自伝 -下-

自分の人生を日々見つめなおしています。その中で、私という人間の成り立ちを分析する意味も込めて、「自伝」を書くことにしました。ある種の物語になっているので、時間のある方は読んでみてください。

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(自伝 – 中- 続き)

私は、某私大の理工学部に入り、電気電子工学を学んだ。基礎数学(微積分・線形代数・確率統計・ベクトル解析)、基礎物理(力学)、電気磁気学、電気回路、電子回路、C言語、制御工学、生命科学、パワーエレクトロニクス、応用化学、実験演習 etc

当時、私は自分の現状に満足していなかった。このようになってしまった理由は、(自伝 – 上/中 -)から察するにがたい。私は、自分の専門性を高め、プライドをもって、世のためになる人間になりたかったのである。その為には、優秀な人間が多くいるさらに上の大学や大学院を目指す必然があったのである。何も、自分の家族に認められたいとか、エリートになって女の子にチヤホヤされたいとか、そんな利己的な考えでは最早なかった。

私の大学生活は、通常の日本の大学生とは一線をかしていた。AM9:00~17:30までは、理工学部の1,2年生は講義が山ほどある。私は、その後の18:00~22:00までも大学の図書館で勉強した。これを二年間続けた。お陰で、成績優秀賞を得るほどになった。もっとも、大学に入ってみて思ったのは、推薦で入ってきた者が6割以上を占める場所で、かつほとんどがバイトや恋愛に精力を注ぐ中で、学業に打ち込んでいるのだから、成績優秀になるのは当然の結果であった。

実は、この努力は、より上位の大学の編入試験を受ける狙いもあってのものだった。結局二校を受験し、結果は失敗(1校補欠合格)であった。応用化学が壊滅的にできず、面接では、そこを指摘された。(高校時代の化学のトラウマを克服するには至らなかった。。) ちなみに、某編入試験(二次)の面接を受けに行った日。その大学のテニス場で、同じ高校から指定校推薦で進学した女の子が、テニスをしている姿を偶然目にした。彼女が高校時代の知力に対してこの優秀な大学の指定校を取れた理由をここで述べても詮無いことだが、、何故か、ここは自分の居場所ではないと感じた。

大学3,4年時は、授業数も減り、自由な時間も増えた。ちょっとした講師のバイトや父の事務所の事務作業を手伝ったりした。サークルには席を置いていて、毎週、軽めのランニングをしたりして楽しくやっていた。3年生の冬のある日、大学図書館が工事で使えなかったので、部室でのんびり勉強していた。一人の可愛らしい後輩の女性部員が部室に物を取りにやってきた。。普段そんなに会話することはなかったが、その日は何故か会話が弾み、夜も遅かったので駅まで一緒に帰ることにした。別れ際、彼女からは、また一緒に帰りませんか?という微笑ましい言葉を頂いた。その後、彼女とは交際をすることになったが、私が大学院の一年となり、彼女が就活に奔走する中で、別れることになった。それぞれの人生の目標があまりに違っていたからである。これは言いかえれば、そこを考えるほど、実は、相性は良かったのであるが。。

この頃、私の家では、長兄が大手自動車会社の経理部に就職しており、大喧嘩した次兄は司法試験に合格をした。我が父母は、幸せの頂にいたと思う。兄たちは、自身の努力と結果に大いに誇りを感じていたためか、人に優しくなった。理性的な大人になった。また、従姉が、甲斐犬の赤ちゃん5匹を道端で拾い、その内の白い一匹を我家にくれたことで、穏やかで癒しのあふれる時間が流れることになった。。

大学4年になり、研究室に配属になった。私は、新しい物がやりたかったので、既存の電力や通信系の場所は面白みを感じず、色々できそうな場所を選んだ。研究室は制御工学がテーマで、ロボット制御や分子を用いたコンピューティングが対象分野としてあった。私は、後者に強い魅力を感じた。

研究室には、色んなメンツがいて、それが私の価値観をさらに広げることになった。株をやって、某政治団体の党員であり、ITリテラシーの高い優秀な先輩、恋愛やバイトのことばかり考えている先輩や同期、何故か司法試験を目指すなどといっていた同期、オタク。また、配属されてほどなくして、後輩の配属も決まった。後輩は、応援団員やら、真面目なやつ、日本の理系には珍しい美女、その親衛隊面をした者、大志ある者、モラトリアムを謳歌し根暗になり下がった者など多様性に満ちていた。先生は、初めは人格者で穏やかな方に見えたが、学生の行動をカメラで監視していたり、公私混同が激しかったり、安価な必要設備の整備を渋ったり、自前の学会で学生を発表させポイントを稼ぐなど、人格と研究者としての姿勢に疑問を感じることが多々あり、私は大学院は他大に行くことを強く決意することになった。

私は、4年の3~5月ころは、AI知識を詰め込んだり、遺伝的アルゴリズムを組んでみたり、分子を使った実験を先輩にさせてもらったりしながらテーマ探しに奔走した。結局、全く新しい化学系のコンピューティングを提案し、そして、終了した。ここで知ったのは、モノ作りの三つの本質であった。つまり、「構想がいい加減だと良い物は作れないということ」「目的が果たせるなら、外観細部にこだわらずに進めること」「テーマ推進は主体的に進めなければならないこと」の三点である。ここに気が付かずに、卒業間際までテーマすら決まらず、結局先輩の研究テーマをほぼ参照して終わる情けない奴もいた。私は、目的をもって主体的になったおかげで、上記三つに気が付けたと思っている。私は、彼らの学生時代は、客観的に見て、モノ作りや開発の姿勢という点で得た物は何もなかったのではと今でも思えてならない。。これは、就職して周囲のエンジニアをみて強く思ったのが、実は、そんな者がとても多いのである。

これは、「自伝 -中-」で書いた、挫折なく来た者の特徴であると思っている。つまり、幼いころから、容姿、知能、運動神経などで、誰かに蔑まれることもなく、大事に、優しく、褒められながら育った者は、精神が子供であるので、その行動や判断は、本能的であり、主体性がなく、利己的であるということなのである。

こうして大学での研究を進めた私は、同時に大学院試験の受験もした。自分の大学の研究科、東北大学や東京工業大学の研究科も受験し、全て第一希望の研究室に合格できた。。人生で一番嬉しかった瞬間であった。

大学院に進学した。教授、准教授、助教、専任講師、先輩、同期、後輩、、皆とても優秀であった。私は分子を用いたテクノロジーの研究に打ち込んだ。先生方の考え方、物事の進め方は、とても紳士的で、論理的で、感性豊かで、教育的で、品格があった。私は生まれて初めて師と仰げる人たちに出会えたと思った。

この頃から、先生方の考え方を理想とする中で、私は人とのつながりを選び、その人たちとの関係を深くしたいと思うようになった。なりたい自分が定義できた以上、最早、多くの人との触れ合いによる自我形成は不要で、自分で多角的に考え、深める、たまに客観的な意見をくれたり、接することで刺激を受けられる人が少数いればよいと考えたからだ。

そんなこんなで、中高の友人二人、大学の同期二人、大学院の同期一人、先輩一人を信頼できる人として交流をはかることにした。この頃からは、同窓会などの存在が煩わしかった。例えば、前述の大学の研究室では、先生好みの女子学生が入った頃から、忘年会や同窓会が開催されることになり、それ以前にいた先輩女子学生との扱いの落差に愕然としたものである。こんなことは、あってはならないのである。この会に「人付き合い」として参加し、先生の品格の程度を感じる度に、自分の目標に向けた活力が奪われていくのが分かった。余談ではあるが、後年、前述の女子学生と先生のご子息が結婚された。とても高貴な雰囲気の美しい女性と、優秀な学歴と仕事をされている立派な男性の二人であった。先生のご子息については、日頃から、よく自慢されていたので、正直、その知能が羨ましかった。また女子学生の方は、その美貌と丁寧な応対を受けているだけで人を心地よくさせる魅力的な人で、正直、私は惚れていた。だから、彼らの結婚を聞いたときは祝福と落胆が混じりあう気持ちであったが、無意味な落胆にすぐに気が付き、彼と彼女の幸福を心から願うようになった。昔、某映画で、「見守り続ける愛」という概念を述べた作品があった。それを知ったときは、理解できなかったが、自分が人に惹かれ、その人がその人なりの幸せをつかんだとき、初めてそれを理解できた。今、彼、彼女が何をしているかはほとんど知らない。しかし、彼らの成功と幸福を願っている。それが、私ができる唯一のことだからだ。

話を戻して、人付き合いは選び、深めることにした。この選択は、今になって思うと有効であったと思っている。内面が豊かになれば、別に多くの人とつながっていなくても、不安はなく、十分幸せであるからである。

大学院では、分子を用いた構造体を自律的に形成する新手法を提案し、同期のなかで唯一、学会発表レベルに仕上がったと教授に褒めていただくに至った。これは、まるで本当の兄のような温かさと厳しさを感じるような、そんな指導をしてくださった助教や先輩方のお陰である。本当に感謝している。。先生からは、博士課程進学について問われたが、私は辞退した。理由は、世の人のためになる物を直ぐに作りたくなったということと、真の天才たちを前に力の限界を悟ったこと、私の学歴への拘りは満たされたことが上げられる。

こうして、大学院を去った私は、機構設計者として、今の会社に就職した。

同期は数十人いた。親睦会の時から研修のときまで、一人一人と食事をし、色んな人がいることを改めて知った。結論、精神の練られた者は、一人もいなかった。特に問題だったのはハーフや留学生である。彼らには、帰属意識もなく、仕事を通じて社会貢献するという熱意もなく、したがって、仕事も受動的であった。現に、10年弱で全て退職している。また、エンジニアといっても、プログラマーや仕様設計、デザイナー、回路設計者などは、その特性上、使われ根性丸出しになる。意識は、世のため、人のためではなく、自分のためである。エンジニアの中でも、特に機構設計者が、利他的であり、主体的なモノ作りを常に求められるのである。なぜなら、機構設計者が、全体のメカニズムを具現化する青写真を描けたとき、はじめて他のエンジニアたちは動けるからである。元々が違うのだ。

機構設計者の仕事については、過去記事でも書いているが、その職責と難易度、手法は日進月歩で、終わりがない。土日も皆、頭の中で何かの構想しているであろう。。機構設計者は、残業が多く、給料が安く、プライベート時間が少なくて結婚が遅く、家庭を省みる余裕のある人が少ないので家庭不和になることもしばしば耳にする。しかし、世の中に自分が構想し、皆を働かせて作った製品が、そのまま出荷され、多くの人の生活に役立っていると思えるモノ作り系唯一のエンジニアである。そこだけは、誇りであり、やりたいことが出来ていると思っている。

今、私は機構設計者として10年弱のキャリアを積んでいる。今後もまだまだ色んなモノ作りをしたいと思うが、コロナ下でも全日出社・深夜残業という、このいかんともし難い激務をそろそろ終わらせ、自分のリズムで働き、稼ぎ、世の人々を幸せにしていきたいと思っている。なぜなら、自分の学んだ情報を次の世代に伝え残す時間すら無くなってしまうからである。そうなってしまうことは、非常に残念なことで、私の誕生に導いてくれたご先祖様や、後世の人類に、勝手に申し訳なく思うのである。

今後は、その目標のために、堅実な構えを作っていくべく、今色々構想している。ブログやyoutubeによる広告収入、高価値の情報(コンサル含む)販売による収益、これらを基礎事業とする会社の設立、最低限の社会的信用を得るための国家資格の習得、およびそれを用いたコンサルなどで生きて行けるようになろうと思っている。そして、自宅にいながら仕事をする。また、理解のある妻を持ちたいと思っている。健康で、創造的で、向上心のある方なら大歓迎である。正直、体の相性とかはどうでもよい。だから、スタイルとか、そんなのもどうでもよい。言葉を交わし、その存在を、その雰囲気を感じ、行動を理解し、微笑み、互いに心のつながりを感じられれば、それで私は幸せである。コロナ下であるが、良い人とご縁があることを願うばかりである。

あ、最後に、もしこのブログを見ているあなたが私の知人だとしたら、私はあなたに誤解を与えてしまっているかもしれないので、簡単な説明と感謝の気持ちを伝えたいと思う。

まず、SNSを使い分けたり、ときに返信を返さなかったことを謝りたい。別にあなたとの交流を断絶したくてそうしたわけではない。理由は二つです。

一つは、集中したいことがあって、距離を置きたかったから、もう一つは、これ以上のやり取りは互いにとって建設的ではないと予測できたから、です。

生きる土俵が違えば、夢も目標も違います。時に、友人であっても語りたくない信念というものがあります。その実現に身命をかけているときは、申し訳ないがやり取りを遮断いたします。あなたがそういう時は、私も察するので、どうぞご理解いただきたく思います。

また、順調にやり取りをしているように思えても、あなたのお身体や心の状態がお疲れの場合は、区切りの良いところで会話を止めさせていただきます。とくに、お心の状態が不安定で、しばらく回復に時間がかかりそうな場合、かつその回復に私を必要としていないと分かった場合は、申し訳ありませんが会話を止めます。どうぞ、重ねてご理解いただきたく思います。

【本日の動画】太陽と波の音

立石海岸の波打ち際の風景です。水平線と寄せては引く波の律動音を聴きながら、しばらく水平線を眺めていると、雑念が払われ、日の光が導く方向へ前途が開けたような、そんな気持ちにさせてくれます。

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