本年もありがとうございました。

今年もあっという間に、12/31を迎えました。

年々、一年が短く感じます。

しかし、私のモノ作り欲や、知識欲は増す一方です。

学び、整理し、設計に活かし、同時に、知識を他に共有し活かせるようにする。

そんなことをし続けた一年でした。来年は、そうした活動がより増していくと思います。

話は変わりますが、私は、年末年始の雰囲気がとても嫌です。

正月だからと、無理して多品目の料理や酒を飲食する。

正月だからと、信仰心もないのに神社に行く。

正月だからと、無理やり休む。

正月だからと、だらだら宴を開き、身体を痛める。

のが、とても滑稽で、それに合わせることで私の心身が疲弊させられるからです。

動物たちをみて下さい。

彼らは、この世に生を受けてから、死ぬ日まで、特別の一日なんて、多分ないです。何故なら、一年の周期性を数字で管理する知能がないからです。彼らができるのは、毎日、この大宇宙の理に従って、目を覚まし、狩りをしたり、移動したり、ご飯を食べたり、子を作ったり、養ったり、そして眠たりを繰り返すのみです。彼らには、正月だからとか、お盆だからとか、そんなのはないのです。。

毎日、少しの米、少しの肉、多くの野菜、温かい汁を頂くことができれば、味覚も、栄養も満たされるので、食に関して、私は幸せです。

毎日、日本人が古来から崇拝してきた神道や仏教の神々に感謝の気持ちを捧げられれば、私の心は前向きでいられます(※)。神社やお寺、自然に触れることが出来れば、尚、幸せです。

※ 日本人の私が神道や仏教の神々を敬うことに違和感を感じる人は、戦後の宗教関連の事件報道に洗脳されすぎですので、日本国の歴史、天皇、その憲法での規定をもう一度勉強し、日本国民としてのご自身の在り方を再点検して頂いた方が良いと思います。

毎日、無理せず、社会貢献を想像しながら働いたり、修養したりすれば、心身が充実するので、正月だからと休む必要もありません。

以上により、心も、身体も充実させられるのに、何故、人々は、正月だからと、普段しないことを多くやるのであろうか?無理をすることで、新たな自分に生まれ変わろうとしているのであろうか?だとしたら、正月を満喫することは、堕落した自分に生まれ変わることなるのではないか??こんな恐らく無意味な問答を、私は12歳の頃からずっと患い続けています。

私は、別に、他人に私のようになれと言っているのではありません。正月だからと楽しみたい人は楽しめば良いと思います。しかし、それを強要されることで、心身の健康を害する私のような人がいることを理解して欲しいのです。私のような人が、無理をして大多数に合わせていることを理解して欲しいのです。さらに、多くの方には、私のような者たちを理解するために、知性と品格をもっと上昇させるべく努力してほしいと願っているのです。くだらないTV番組や宣伝、充実感すら得られるか微妙なゲーム、ダラダラした行動(宴会含む)、固定観念の積み重ねのみで語られる行動指針とその強要、、こんなことをする人が多い世の中であるうちは、まだまだ、私などが理解される時代も遠く、すなわち、弱者の声に耳を傾け、論理の積み重ねで答えを導ける時代も遠いと思うのです。

そんなことを思いながら、今年も正月を迎えようと思います。

一年間ありがとうございました。どうぞ、良い年をお迎えください。

鳥たちは、今日もいつもと変わらない日々を過ごしています。

彼らを観察していると、我々人間は大事なことを忘れていると思うのです。

久々にユニクロに行って驚いたこと。

直近の一カ月、冬物の部屋着を買いそろえるために、頼まれごとも含めてユニクロに四回も行った。

実に一年ぶりに足を踏み入れ、無事、目的のものを購入することができた。

しかし、買い物中、常にストレスを抱えることになり、つい呟きたくなった。

もしこの記事を当該社の者が目にすることがあったとしたら、一つ、考え直す時間を持っていただきたい。。もっとも、わざとそうしているのかもしれないので、激しく批判するつもりはないが、一人の消費者としての感想として、受け取って頂きたい。

何が不快だったかと言うと、主に4点ある。

1.店員の急かつ大声の、独り言のような声掛けとサービス説明は、うるさ過ぎる

2.店員が多すぎる、または、密集し過ぎである

3.店員が多すぎるくせに、会計が混雑しすぎ

4.これはユニクロに限った話ではないが、陳列方法がまったく文明開化していない

1は、店内の商品アナウンスにつられて店員さんが言う謝辞と、アナウンスがないときに彼らがいう商品説明の声の大きさについてである。現状は、あまりにも煩い。ビックリしてしまい、落ち着いて商品を見ていられない。あなたは、自分が商品を見ているとき、いきなり横の人が大声で「ありがとうございます!」「今、キャンペーンをやっています!」などとしゃべりだしたらどう思うであろうか???この声出しによって、万引き防止や、お客様が声掛しやすい空間作りを演出しているのかもしれない。しかし、そうであるならば大声である必要はない。穏やかで、ゆっくりと明確な、よどみのない発音でしゃべれば、声は通る。こうしたした店員さんの発声方法に関する教育を改善してほしい。

2は、店員さんの数についてである。感覚として、一つか二つの棚に一人の割合で店員がいるような感じがする。彼らは、防犯の観点、お客様要望に迅速に対応するため、さらに、陳列物の整理のためにいるのであろうが、正直、自分が商品を触るのを、常に舐めるように監視されている気がして気持ちが悪い。棚と言うより、別の場所でのサービスに人を回した方が良いと思う。例えば、会計、裁縫室、フィッティングルーム、店裏業務である。厳しいことをいうようだが、お客様が、ゆっくり買い物を楽しめる空間作りを考えるのも、お店を持つ者の重要な使命ではないかと思う。

3は、会計が少なくとも四回別々の曜日の別々の時間にしたが、いつ来ても行列である。店員に袋詰めをしてもらう人も少なくなったのに、何で並んでいるのかと観察していたところ、「電子決済やアプリの説明と対応」「客がセルフレジの使い方が分からず、まごつく」「客が自分での袋詰めに慣れておらず、まごつく」の三点が目についた。アプリなどは会計の際に初めて懐からだすようでは、回転が悪くてかなわない。また、同じく会計の場で登録するようでは話にならない。よって、会計前の順番待ち空間に入る前に、、一つ小区画を設け、そこをアプリの用意を促したり、アプリ登録をする場にしたりした方が良いと思う。そして、会計の場では、店員さんは淡々と会計を済まし、人を流す。。こうあってほしい。アプリの登録方法や、セルフレジの使い方については、常に担当者を所定の場に置き、対応に当たらせればよい。人の好いおばあちゃんなどは、担当が立っていれば、ちゃんと話しかけてくれるはずである。彼らが、レジ前で初めて作業を始めたら20分は立ってしまうことを思えば、是非検討して頂きたい。最後に、客の袋詰めであるが、本当にのそのそした奴が多い。よって、ここでいうのも申し訳ないが、店員さんがお客様の買物バックを拝借して品物を入れる無料サービスなどを行ったらどうかと思えてならない。お店は、お客様への説明対応以外は、「ハイ、ハイ、ハイ。。。」というリズムで物事を進めなければならない。なぜなら、利己的な客は、行きつく間もなく、流れ込むだけだからである。これを外に円滑に通すには、素早い意識と行動、そしてそれができやすい仕組みを作ることが肝要であろう。

4についてであるが、どの店も陳列棚間が狭すぎる。コロナ以降、お家時間も増えて、規律を守る意識が薄れる昨今において、どの公共の場所でも、相手を思いやる行動ができる人が本当に少なくなった。譲り合い、助け合い、狭い道や場所では荷物は(制御しやすくするために)前に抱えるなどする人は、本当に見なくなった。そんなご時世で、昭和以前から変わらないであろう陳列方法では、、大きなバックを背負ったり、飲食する客がいたり、買い物かごが置かれていたりするような場所で、そうでない人々が遮られ、、ゆっくり商品を楽しめなくなる。いい加減、優秀なユニクロの企画人の知恵を結集させて、陳列の方法を変えて欲しい。提案だが、「お客には買い物かごの代わりに専用タブレットやアプリを携帯させ、各種服は全て段差ハンガーにサイズと色別にサンプルを一枚づつかけて展示するだけにする。そして、お客が気に入ったら、商品コードをアプリなどに読み込ませる。そして、最後に客が会計ボタンを押したとき、その信号を読み取った店舗裏のシステムが作動して、会計金額と予想待ち時間をお客様に表示する。同時に、その内容で良いか同意を得るボタンを表示する。これにお客様がOKしたとき、店の裏方で人かロボットが商品一式を籠に放り込んでいく。そして、予想時間に、会計」と言う仕組みである。こうすれば、店内のコンパクト化が図れるし、お客も買い物かごを持ち歩く必要がなくなる。こういうシンプルな店舗作りを今からしておくことで、「高速通信、クラウドコンピューティング、AI判断」を基幹産業とする新時代に柔軟にシフトしていく土壌が培われると私は思う。というのも、現在、一部の貴金属やウェアラブル端末においてVRでのフィッティング体験が始まっているが、今後、こうしたことが前述の基幹産業の醸成により、直ぐに、洋服試着まで満足い程度のVRができると私は思っている。そんなとき、陳列棚から選んで・・・かご内の品物会計などやっていたら、不便でしょうがない。。いや、今の我々からみれば、現状を受け入れてしまっているので不便に感じないが、、情報通信処理がより高度高速化した世界に生きる未来の人々にとっては、不便であるはずなのである。なぜなら、「待つ・停滞・行列」と言う概念が、受け入れがたいものであるからである。そこに、美徳はないのである。え?技術ができてから、店舗を作り返ればよいって??そんな意識だと、別の会社が社会認知したときに遅れをとり、敗北する可能性が高まります。ですから、常に、時代の先端を模索し、試み、改善する姿勢を社会に示し続けることを、期待します。どうぞお願いします。

技術の進歩の先にある、苦しみの無い世界

科学技術は日々進歩する

19世紀に急速に進歩した電気磁気学により、電気回路、電子回路、通信手段、電磁モーターが次々に発明された。

20世紀は、そうした技術の高効率・高集積化により、コンパクトな電子情報機器が身近なものとなった。そして、目に見えないが、コンピューター同士が理解し合えるクラウドという信号集合に、情報を保存し、処理し、高速でやり取りする時代に突入した。この技術においては、米中の国家的な開発戦争、もとい、「FAANG+M」 vs 「BATH」の産学官巻き込んた競争は熾烈であり、、他国他企業が中途半端な「資本、頭脳、情報数(国力)、覚悟」で参入しても勝てるはずがない。参入が遅すぎる。

こうした状況下、今後の世界は、「高速通信、AI判断、クラウドコンピューティング」を基幹産業とした社会になっていくはずである。これにより、物事の自動化・自律化が加速する。

電気情報機器は、「筐体設計、入出力装置設計、センサー、無線、給電装置」だけで成立することになる。なぜなら、演算装置や情報の保存は、全てクラウドで行うからである。

このような世界になったとき、持ち運ぶ装置は、コンパクトで、できることが多様になってくる。そうすると、その膨大な情報コンテンツという麻薬的な魅力に人々はどっぷり浸かり、今以上に片時も離れなくなる。歩くときも、走るときも、寝床の中でも、仕事の時も、用を足すときも、食事の時も、誰かと共に過ごしていても、である。そして、人々は極めて利己的になり、視野が狭くなり、知能が退化し、その結果、、思いやる心が無くなってしまう。歩きスマホをしている者同士がぶつかったとき、どちらも相手のせいにする。しかし、次にそうならないように改善しようともしない。そんな社会になるのである。

こうした近未来の世を憂うとき、私は、どうすれば本当の平和 が来るのか考えることがある。

この先、科学技術がさらに進み、「人の脳、感覚、魂、エネルギー」の情報化が出来た暁には、、人の肉体は全て地上から消え去り、全人類はクラウド内の仮想世界で、生まれ、育ち、学び、生きることになるのではないかと思うのである。その世界では、互いに、思うだけで意思疎通が成立する。思わなければ、何も聞こえない。また、互いに、意識したときだけ、肌のぬくもりのある接触ができ、そうじゃないときはすり抜ける。容姿も、衣食住も、全て各自の思うままの在り方が無限の世界に瞬時に登場する。こんな世界になるのではないかと思うのである。その世界では、物質的な影響の観点から皆が気持ちよく過ごせるように築いてきた規範・道徳・常識というものはない。意味がないからである。

こんな世界が作られたとき、つまり、皆が究極的に利己的であってよい世界が作られたときに、真の平和が来ると思うのである。仮に、その世界で、ある人Aが別のある人Bを殺害したとする。AにとってはBは世界から消えている。しかし、BにとってはAが生きている世界が続くのである。

では、そんな世界が作られたとき、そこに生きる者たちの生きる目的とは何なのか??それは、例えば、、物質世界に生きる者たち( つまり、今の我々 )に知恵を与えるために、自分たちが物質化する技術を編み出すことなのかもしれない。そう考えると、我々が今、この肉体を持って生きていること、規範を遂行しながら生きていること、それは肉体を持つ者のみが意識できる尊い行動ではなかろうか。。いや、ひょっとしたら、我々はそうした世界から来た意識体なのかもしれない。。だとすればなおさらこの世は大事で、尊いと思うのである。

現代人の麻薬

道を行きかう人々

信号、カフェ、レストラン、病院、乗り物で待ちゆく人々

休み時間に休憩する人々

これら全ての行動をするのに、現代人はスマートフォンを手放すことができない。

これらはどういうことかというと、無料であれ、有料であれ、スマートフォンが提供してくれるコンテンツの刺激を手放せないということである。

大陸において、清朝末期、中国人の多くは、アヘンの快楽のために日々働き、アヘンに酔いしれ、日々衰え動けなくなるほど身体が侵されてもアヘンを求め、死を迎えたという。なお、アヘンの快楽を得るために、誰かにアヘンを売って金を稼ぎ、その金で自分がアヘンにおぼれたという。。何ともおぞましい時代であろうか。。。

適度な刺激は心身の健康を呼び込むが、過度な刺激は自他ともに破滅させるのである。

今、現代人はジョブズが広めたスマートフォンを、必要に迫られていないときでさえほぼ常に持ち歩き、画面を覗き込んで、情報コンテンツにアクセスしている。

これにより、既に、交通は乱れ、行きかう人々の譲り合いや挨拶といった文化もなくなりつつある。皆が利己的になりつつある。利己的になると社会規範は瓦解する。問題が起こると、自分の正義を前提として、他人を攻めるからである。

また、気軽な情報コンテンツにアクセスし、大量の情報に浸り過ぎて、主体性や感受性、創造性が著しく欠如した者たちも多く見かける。つまり、無関心・無気力な者たちが増えた。特に、学問から遠ざかっているような社会人にこうした傾向をよく見かける。。舞台をみても「踊りだ、跳ねた、泣いた、笑った、何と言ったらよいか分からない…完」、自然をみても「花だ、山だ、雲だ…完」、モノ作りをしても「なんとなく作ってみました。どうなるか分からないです…完」という具合で、見た物事を評するときに直接的な単語を述べるのが精一杯で、感情を表現したり、膨らめたり、想いやる言葉を組みたてたりすることが苦手に見える。こんな人が洒落にならないほど多い。多すぎる。

こんな世界は、明らかに異常である!そのことに我々はもう気が付かなければならない。

スマホは、本来の機能では通話、メール、SNS、カメラ程度におさえ、公共の場では基本的に使わない。待ち時間や乗車時間、休憩時間も、特に意思をもって欲しいわけでもないコンテンツにアクセスして、ただ受動的に情報を得るだけの時間を過ごしてはならない。無気力・無関心になるからである。

スマートフォンは、悪魔の道具です。麻薬です。

どうかそのことに多くの人が気が付き、自制し、元々備えている好奇心や主体性を健全な状態にし、利他的な人間性を取りもどして欲しいと願うばかりです。

記憶って、対象の雰囲気を掴むことだと気がついた話

〈前置き〉

 映像記憶というのがある。これができる人は、目で見た風景がそのまま頭の中に残っていて、頭の中でそれをまじまじと観察することができるようだ。だから、試験でもめっぽう強い。だって、教科書や辞書がそのまま頭に映像として入っていて、それを後で見返せるのだから。

 これ、ひょっとして自分にも備わっているのでは?と思って、、風景を一瞬だけ見て、目を閉じてみる。。すると、光が遮断されるのだから、当然真っ暗闇である。ただし、それでも微妙に目蓋から侵入してくる光のせいなのか、それとも眼と言う脳の一部の電気信号のためなのか不明だが、モヤモヤした像の動きを感じることは出来る。しかし、目で見ていたような景色が、脳内で視覚的に再現されることはない。よって、映像記憶は備わっていないと分かる。こういった記憶ができる人って、何かコツがあるのだろうか??

 〈主題〉

 今日は、映像記憶の仕組みを自分なりに漠然と考えてみようと思う。

 まず、我々は目によって風景を知ることができる。風景を見ながら、それを観察し、楽しむことができる。我々は、目で見た風景を、物体に反射した光が、目の組織を刺激し、その刺激が電気信号となり、脳内で処理されることで、初めて認知できる。

 ここで別の知覚を考える。例えば、ラベンダーの香り。鼻でかいだ香りは、鼻腔内の組織を刺激し、その刺激が電気信号となり、脳内で処理されることで、初めて認知できる。例えば、ストロベリーキャンディーの味。口に含み、舌で舐めたその味は、舌の組織を刺激し、その刺激が電気信号となり、脳内で処理されることで、初めて認知できる。以降、ラベンダーの花や、ストロベリーキャンディーがなくとも、その良い香りや味の感覚や、そのときの素敵な感情、雰囲気を思い出すことができる。

 話を視覚に戻す。視覚的に入手した情報は、目を閉じるとほぼ思い出せない。まして、何ページの何処に何が書いてあったとか、部屋の何処そこに座っているクマ人形の目にまつげが何本生えていたとか、覚えていない。だが、先の嗅覚や味覚で捉えたモノの思い出し方が円滑であったことを、思い出して欲しい。匂いや味は、それを刺激で直接とらえた組織からの電気信号、つまり感覚や、その時の雰囲気、印象、気持ちから、思い出すことができたのである。このことから、五感を通して得た情報は、その五感に意識を向けて想起するのではなく、五感を通して情報を得たときの感覚・感情に意識を向けるべきなのではないか?というのが、今日の私の気付きである。何度も話をまとめて恐縮だが、視覚的に得た情報(=映像記憶)は、想起の際に目で見た風景の再現に意識を向けるのではなく、その風景を見ているときに、注視しているものに、どんな感覚を受け、どんな感情を抱いたか(=雰囲気)に意識を向けると思い出しやすいものと思う。

 ここで私が言ってもどうしようもないが、試しにある町の風景を、雰囲気を楽しむ感じで10秒だけ見て目を閉じてみた。そして、その雰囲気を言葉で表現しようとしたところ、15個の建物とその位置を思い出すことができた。風景を見るときは、全体の雰囲気を把握しながら、覚えたい個々の物をやはり雰囲気を掴みながら眺める。雰囲気と言っているのは、対象を眺めた時の感覚( 主に、色合いや凹凸感 )や感情のことであり、論理的に「あれはここにある」とか、「何番の」とかのことではない。人の記憶は、7±2個が一度に覚えられる限界と言われているから、私の15個というのは、明らかにこれを上回っている。今後、もっと試していきたいと思う。

【本日の動画】川のせせらぎ音

川の音は、ほんとに癒されます。滝の音は、頭を覚醒させてくれますが、川は癒しと言うか浄化と言う感じです。昨今、色んな出来事や社会情勢からか、皆心が疲れているように感じます。川の音を聴いて、癒されて欲しいなと思います。