「幸せは見せびらかさない方が良い」という話

幸せを多くの人に報告する人がいます。

彼や彼女たちは悪気がないのでしょうが、その報告という行動の意味をもう少し考えてやった方が良いと思います。

そもそも、報告は、目的も無しに行うことではありません。

報告するということは、意味があります。例えば、上司に報告するのは、業務の進捗を伝え、必要に応じて指示を仰ぐためである。友人に近状を報告するのは、友人としての関わり方の変化を促すためである。後者について、もう少し補足する。例えば、旅行に行った写真を共有したとする。それは、「自分が元気であること、充実していること、そういった場所が好きであること、そこに行った経験を持った人であること」を友人に教え、友人の中でのイメージを更新する行いといえる。

さて、ここで本日のつぶやきの本題であるが、こうした報告において、特に友人への報告においてあまりやらない方が良いことを述べる。それは、「幸せ」の報告である。

人は、十分に精神的に成熟した人でない限り、欲望を捨て去ることはできない。欲は自分と他人の比較によって明確になり、人の心の中で増長する。この欲が増長した在り方を「嫉妬」という。ここに他人の幸せの報告がくると嫉妬はさらに大きくなり、それが過剰になると「怨嗟」「呪い」になる。心が呪いの感情に支配された人は、対象者の幸せを破壊したり、怨念によって呪ったりする。特に後者は、現在の法で裁けないが、効果がある可能性があるので、極めて危険である。何故効果があると思うかについては、ここでは述べない。とにかく、幸せ報告は、こうした他人からの攻撃の引き金になることを忘れてはならない。

でも、そうはいっても友人には近状を報告したいという人はいるであろう。そういう時は、どうすればよいのであろうか?それは、極力目立たぬように、あっさりと、報告するのである。例えば、次の三つである。

1.文章のみで、簡潔に終わらす。

 (注意)写真や長文は載せてはならない。

     幸せが明確に深く共有されるからである。

  例)「結婚しました」「子供が生まれました」以上という具合

2.報告するレベルの幸せを経験済の人生の先輩たちに限定して、共有する。

  きっと心から祝福してくれるでしょう。

  同時に、建設的な助言をしてもらえるであろう。

3.友人関係を整理し、限定的に報告する。

  これも次の人生のステージへ行くために必要なことです。

  友人も所詮は他人。いつまでもあの頃のままではないのです。

  集約整理する姿勢は必須。

ここで、2と3については、報告していない友人がいるじゃないか!と思われるかもしれませんが、それでよいのです。あなたがどんなに昔の友人たちに近状を報告しても、その友人たちの多くにとって、あなたの現状はどうでもよい内容です。なぜなら、もう直接関わりがないからです。また、あなたにとっても、ごく限られた少数の友人たちを除き、現在の生活で関わることはないので、そんな関わりの薄い人に報告しても得られることは何もないからです。つまり、Facebookなどで不特定多数の知り合いに報告をすることは、有益なことは少ないのです。むしろ、必要のない嫉妬や呪いといった不利益を被る可能性を高める行動なわけです。

私事ですが、数年前、Facebookで年齢不相応な恰好で自分の誕生日を報告している友人がいました。その方は、かつて、いつも周りには大勢の友人が集まり、自信に溢れ、輝いている人気者でしたが、ちょっとした失敗がありその後が分からないでいました。しかし、久々に登場した姿をみて、その陰り具合に背筋が寒くなったのを思い出します。本人の輝きが、自分の人気に胡坐(あぐら)をかき努力を怠っているように他人にうつったり、人気故に無意識に人を見下ししているようにうつったりして、妬まれたり、呪われたりしたのではないかとも、私は感じてしまいました。知らなければよかったとも思えました。幸せは、無理に報告する必要はないと思うのです。

外気温の捉え方に注意しましょう

お久しぶりです。

最近、仕事や肉体改造に集中していて、ブログに手をつけられませんでした。

さて本日ですが、「外気温」の捉え方について少し注意したいことがあり、記事にしました。

一般的に示される外気温は、「風通しの良い、日陰の、地上から1.5mの高さの温度」です。小学校のときに外にあった、百葉箱がそれです。

さて、皆さんは炎天下の中で、日陰の涼しさに救われたことは多々あるでしょう。テレビやネットで目にする温度というのは、こういった場所の温度なのです。

そうです。日向の温度は、テレビやネットで目にする外気温よりもずっと高いのです。

一説には、日向と日陰の温度の差は、約15℃です。

ということで、例えば、ある日の外気温が30℃と言われる日の日向の温度は、45℃になるわけです。

もっとも、実際は、湿度や風の影響、および日向の滞在時間の影響でそのように暑く感じることはありません。

「日向の温度は、テレビやネットで目にする温度よりも15℃ほど高い可能性がある」

これを覚えて、日中にどう行動するべきかを考えられたらと思います。

アイデアの種類の見極め

世の中には、アイデアマンとか、アイデアメーカーと呼ばれる者たちがいる。

例えば、ある人は「藤子不二雄はアイデアマンだ!だって、ドラえもんの道具をあんなに沢山考えられるんだもん!」という。

ある人は、「某文具メーカーって毎年、ちょっとした工夫を盛り込んだ新しい文具を提案してくれる!アイデアメーカーだよね!百均のダイソーも同じ感じだよね!」という。

またある人は、「(ある重機メーカーの社内で)あの人って、量産機種を開発しているわけでもないのに、毎期特許を何十件も出して凄いアイデアマンだよね。技術報告書や論文も良く出すし、関心させられます。」という。

これらの例に示されるアイデアマンたちの出すアイデアは、その意識の置き方や成果物に違いがあるように思う。文具大賞のランキングに出てくるアイデアと、特許公報に出るアイデアは、私には同質には思えないからである。そこで、本日は、上記のアイデアの違いをそれとなくまとめてみた。俗にアイデアメーカーと呼ばれる人たちが、どこに属する人なのかを分類し、彼らの発想がご自身の参考になるかどうかを見極める一つの指標にしていただければ幸いである。

まず、私が何となく感じているアイデアの種類とは、下図のようなものである。

発案の程度が、高度なものとそうでないもの、実現性を問うものと問わないもので分けてみた。そして、その中にどういった系統のアイデアが多そうかを記入したみた。なお、実現性とは、実際に科学法則に従って作れるということである。現在の技術では作れないものは、実現性は不問とした。

ここで、概念式について簡単に述べておく。これは、発案の程度を、文字式で表現したものである。私のイメージを文字に落とし込んだものなので、一般的なものではないことをお許し願いたい。さて、前提として、私は、「発案というのは、公知の概念の和か積」と考えている。新規のものは、公知の技術から生まれるからである。ここで、ある公知の技術をAやBと言う具合に文字にした。次に、A+B と A×B という和と積についてであるが、これは具体例で示す。例えば、「A=のり、B=紙」とする。このとき、「A+B=のり+紙」であり、それは、のりと紙がその特性と外観を維持しながら一緒になったものをさす。すなわち「 テープ」のようなものができる。一方、「A×B=のり×紙」とは、「のりでもあり、紙でもある」ということである。よって、例えば、「やや粘度を帯びたゲル状の膜」とすれば、「物と物を( 弱くであっても )接着でき、かつ( 特定条件、例えば、乾燥時や特殊インクで )文字を書くことができる」と言う具合にのモノを創造できる。これは、もはや、のりや紙ではない。しかし、のりや紙の特性を有している。このように、A×Bとは、その外観的特徴はAやBには属さず、それでいてAやBの特性を必要、または十分に備えている新たな形態をいう。

ここまで述べてきたように、A+B と A×B は、異なる。前者は、見た目も特性も維持しながら別のものが合体したものであるが、後者は、特性の程度に差こそあれそれを維持しつつ、見た目は別次元のものになったいるものである。一般に、積の方が数段難しい。また、AやBは、どちらかが場であってもよい。例えば、オフィスの机の上、家のベッドの上、棚の上、テントの中、水の中とと言う具合にである。使う場所と、公知の形態がミックスされると、新たな形態が自然と生まれるからである。

さて、では、先ほどの図について少し説明を追加する。「空想世界」の箇所は、最早語る必要はない。ファンタジー小説や漫画の構想を練る人は、ここに属する人なので、今更語るに及ばないであろう。むしろ、意識するべきなのは、こうした空想物語のネタを出すことで評価され、アイデアマンとされる人の発想を、、メーカーの企画部や、技術者、研究者といった実現性を問われる人たちは、参考にしてはならないということである。実現性がなく、出来ないのが目に見えているからである。では、実現性を問われる人の中で、必ずしも高度ではない発案をする人たちについて述べる。

上図のように、こうした人たちは、公知の技術の「ちょこ変え」が得意な人たちである。昨今の、ユニークな立体的なメモパッド、サクラクラフトの拘りのペンなどもそうである。ちょこ変えと言ったが、もう少し具体的に言うと、「微変更によって利便性向上を目的としたアイデア」を出すのが得意なのである。文具や雑貨、ファッション業界は、基本的な製品の形態と言うのが決まっている。生活に直結する物が多いからである。こうしたとき、全く新規のモノが提案しても、皆、恐ろしくて中々手が出せない。そこで、「既存の概念を色濃く残しつつ、こういった形態追加でこんな使い方もできますよ!便利ですよ!」という塩梅の製品を作るのである。よって、有名な文具メーカーや一般公募のコンペで実績を重ね、アイデアメーカーと呼ばれる人たちは、この「ちょこ変え」が得意な人たちである。専門知識に乏しい新人技師や、同じく専門知識が乏しいのに企業の企画部にいる企画者は、、このちょこ変えの意識で新規の考案や企画をしてみると、シンプル故に皆に受け入れられやすく、当人も充実感がえられるかもしれない。

最後に、高度であって実現性のあるものである、特許系アイデアについてである。

これは、文具などのちょこ変えでは中々上手くいかない。理由は二つ。一つは、ちょっと変えた程度だと直ぐに「進歩性なし」とされ特許性無しとされかねないからである。進歩性というのは、「関係分野の専門家が公知技術を見て、容易に思いつかない」ということである。ちょこ変えだと、進歩性がないとみなされる可能性が高い。もう一つは、ちょこ変え程度だと、先の理由から特許になりにくく、競合に容易に模倣されたり、別の技術で回避されるので利益にならないからである。

乗り物、電気メーカー、部品メーカーなど製造業に従事されている技師、企画者は、特許性のある付加価値のある提案をしなければならないので、ちょこ変えを得意とする人たちの助言を鵜呑みにしてはならない。また、そうした人たちに称賛されたからと言って、喜んではならない。むしろ、自分の発案は、浅はかな可能性があったのではないかと反省するべきある。

以上、簡単にではあるが、一言にアイデアといっても、複数の程度があることを私なりに示してきた。自分が求められる考案が、高度なものか?実現性を問われるものか?をよくよく考えて、それに適したアイデアメーカーの方の本や書籍を参照されると良いと思う。

なお、実現性が問われる考案で高度なものは、「トリーズ」を利用することをお勧めする。これは、科学的に高度な発案を促すアイデア補助ツールである。また、ちょこ変え考案は、先の「微変更によって利便性向上を目的としたアイデア」を心に留めながら、ロフト、百均、雑貨屋の商品に触れると良いと思う。その着眼( 想定使用場+公知概念、公知概念+公知概念 )の理解を深めることができるであろう。さらに、全く新規の高度な考案をしたい場合は、「NM法」をお勧めする。これは、閃きのような着想を論理的に導く方法であり、A×B に適したものでる。是非、関係書籍やブログなどを見て活用してほしいと思う。

エスカレータ問題

最近、エスカレータの歩行を禁じる社会的風潮が強まっている。一部の地域では、条令で禁止をしているくらいだ。

しかし、現実的に、エスカレータの歩行を完全に禁止してしまうと、人の流れが乱れてしまう。だから、多くの地域やインフラでは、「明確な禁止」はせず、「注意を促す」にとどまっている。

例えば、駅。ホームに行くために、エスカレータしかない、または階段が補足的にしか供えられていない構造が多い。電車の乗り降りで急ぐ者が沢山いることを想定して、そうした構造が採用されているのである。もし、「エスカレータは立ち止まって乗る物」という前提で駅を作ったのならば、「エスカレータの輸送速度は、一般的な人間が急ぐときの速度と同等」であったり、「ホームに乗り降りする人の想定最大数が、次の電車が来る前にエスカレータで解消できる予想」が立っていたりしているはずである。しかし、健康な人が階段を上る速度とほぼ同じ速度の現状のエスカレータでは、このいずれも充足できない。よって、ホームの設計側は、エスカレータを「立ち止まって乗る前提の乗物として設置していない」としか考えられない。

ところで、エスカレータ上の歩行が危険であるという主張が強くなってきたのは、2020年代に入ってからだと感じている。強弁に禁止を主張する方々の多くは、ニュースや記事から老人が多いように感じる。彼らの訴えの理由は、「エスカレータは歩行する乗物じゃない」「歩行者がいると衝突して危険である」の二論に集約される。これにらについて考える。前者については、その地域やインフラでルールを定めていない限り断定できない。よって、そのルールを( 彼らが )示さない限り理由として成立しない。また、ルールを示さないで( 立ち止まるのが )常識と言う人もいるが、その点についてはやや都合の良い解釈をし過ぎな気がするので少し補足する。そもそもエスカレータは、電動移動階段である。階段が、自動で動いている物である。階段は、利用者の体力によって速く乗り降りしたり、遅く乗り降りしたりしてよいものである。階段は、人が通る路の一部であるからである。電動だからとこれを禁止するならば、空港の電動歩行路も歩行禁止になってしまう。よって、路である電動階段の歩行を厳禁として一般化することはおかしい。ここで、この路である階段について、利用の際の歩行を制限することに着目すると、主張者が口にできていない「誰か」にとって不都合があるからではないかと感じることがある。では、誰なのか?うすうす分かっているが、一端、後者についても考えてから結論する。というのも、一つの問題に対する主張が二つあり、問題に対して不都合をこうむる対象が一つの主張から判明しないのならば、もう一つをみることで理解できるとことがあると考えるからである。

さて、後者の論だが、これは「人と人の相対速度が大きくなると、衝突の危険が高まる」という主張であり、もっともらしい意見である。しかし、これ故に禁止というならば、公道での早歩き、ランニング、自転車運転も禁止しなければならない。そんなことは、それこそ一般論としてありえないであろう。道路は、利用者がそれぞれの目的に応じて、自分の運動能力に応じて利用できるものだからである。これを禁止したら、我々はベルトコンベア上の部品と同じになれと言われているようなものである。このことから、後者の意見は、「運動能力が極めて低いか、運動を放棄した者」の主張であると分かる。ここで、先ほど保留したこの問題の対象者は、この者たちであるといえる。二論にみえた主張は、「運動能力が極めて低いか、階段上で歩行したくない人にとって、歩行は危険だから止めて欲しい」という主張でいしかないである。

今、時代は弱者の意見に耳を傾ける社会に変化しつつある。パワハラやセクハラ、体罰の横行、育休者への攻撃など、過去問題視されなかったことが問題提起され、解消する社会的取り組みが進んでいる。これはつまり、「思いやり社会の実現」という人類に高度な品格を求める目標である。こうした中、「運動能力が極めて低いか、運動を放棄した者」も思いやり、彼らが安心して活動できるように整備するのは、当然の流れ、のように思えるかもしれない。しかし、この過程で忘れてはいけないのは、「強者が弱者に合わせるのは当然である。だって、弱者は強者には叶わないのだから。」という思考のみで、弱者都合で仕組みを提起することで、現実的な運用が出来なくなりうるということである。エスカレータ問題もその一例である。そうならないためには、強者と弱者を分けるだけでなく、それぞれが「何ができるか?」を議論し、「思いやり」行動のルールを定めなければならない。歩行者には、衝突しないように注意すること。非歩行者には、邪魔にならないように周囲に気を配ったり、衝撃にそなえること、である。こんなことは、そもそも人間の防衛本能や危機意識の観点からほぼ無意識に行われてきたことだが、歩きスマホやながら音楽が横行する昨今、この無意識も働かせることが出来なくなっている。エスカレータに乗っている者をみると、手すりにも掴まらず、スマホ操作や動画視聴している者が極めて多い。しかも、その者たちの荷物や衣服は、大きくはみ出し、歩行や乗り降りの妨げになっていることも多い。老人たちの中には、釣りや登山に行くのか、リュックから釣り竿や杖が飛び出していても平然としている間抜けが多い。弱者の方の思いやりが欠けている現状を仕組み作りの際に問題提起するのも忘れてはならない。それを言い出したらキリがないと言ってはならない。できることがあるのだから。。弱者はロボットではない。知性を備えた人間であるのだから。

まとめ

・エスカレータを設置しているインフラの多くは、現状、歩行もできるように設計している。

・エスカレータ問題は、「運動能力が極めて低いか、運動を放棄した者」の主張である。

・弱者の声に耳を傾ける社会風潮の中、上記の者たちに配慮した仕組み作りは正しい(とする)。

・しかし、弱者側の配慮も必要であり、弱者にできることも議論、提起しなければならない。

・つまり、弱者のための社会をつくるのではなく、皆が互いを常に思いやって自発的に行動する社会を作るのが正しいのである。

今年もよろしくお願いいたします

本年もよろしくお願いいたします。

新年早々、色々楽しんでいまして、新年のご挨拶が遅くなってしまいました。

この一月、15年ぶりにピアノを弾いてみたり、ランニングしたり、中国古代王朝の白書の訳を読んだり、ある建築士さんがYoutube上で提案する平屋の間取り動画を見て夢を膨らませたりして、心に栄養を送っていました。

お陰様で、ピアノ曲は簡単に編曲されたものですが、「ロミオとジュリエット」や「シュルブールの雨傘」を習得することができました。ランニングは既に毎週10~20kmを走ることができていて、身体がかなり絞れてきました。中国古代王朝( 後漢、魏、晋 )の歴史書から邪馬台国の位置を考え、自分なりの答えを導けるに至りました。平屋の間取り動画からは、建築物そのものへの魅力とともに、そこに住むであろう住人と、その姿を通じて、今後の日本の未来を考えてしまいました。物価上昇、賃金低下、サラリーマンと言う概念と献身労働の消滅、少子化( というより、子孫のことを考えた結婚をする人の減少 )、学校教育の多様化、国内名門大学の価値喪失、医療・不動産・電力・通信業界の暴挙、終活etc 。凡庸な私ですが、隙間時間に集中することで、心を癒しながら、これだけ学びや気づきができたわけです。

一月もあっという間に終わってしまいますが、今年も色んなことを考えながら、有益と思われるような情報を少しでも共有できたらと思います。

どうぞ、よろしくお願いいたします。