あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
昨年は、公私ともに大変忙しく、ブログの更新も滞っておりました。重要なプロジェクトを支えたり、自分が起案したり、資格を習得したり、家では、、、
今年も昨年にも増して忙しくなる予感がしています。今までにも増して、健康に注意をして頑張っていきたいと思います。
ブログの方も、あと数年は気楽につぶやいていこうと思うので、引き続きよろしくお願いします。
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最近、日本の会社で、変な風潮が増えている。
それは、「業務よりもプライベートを優先してOK」という考え方である。会社の役員がそうしてください!と社内報で告知しているところもあるようである。
私は、この考えには大反対である。こんなことを組織の皆がやっていたら、まじめに働く人がいなくなってしまうからである。多くの仕事は、チームプレイである。日程、お金、人が決まっている。そうした中で、ある人が一方的に「明日から家族旅行なので10日間休みます。よろしく!」と言ったら、業務が停止してしまうであろう。停止とはいかなくても、その業務をやらざるを得なくなった社員に業務負荷が集中するので、その人は主業務の余力でそれを処理しようとしたり、慣れない仕事をしなければならなかったりすることになるので、成果は大きく低下するであろう。加えて、埋め合わせをすることになった社員は、心身を疲弊するので、健康を害する可能性が高くなる。仮に、埋め合わせ分の報酬をもらえたとしてもそれはカンフル剤のようなもので、長期的には通用しない方法である。顕在意識は「金」で満たされていても、自由と休息を求める潜在意識と、それに連動した体が疲弊する一方なので、緊張の糸が切れたときに体が動かなくなってしまうからである。こうなったら、数か月まともに働くことはできない。
この話は、何も絵空事ではない。容易にそうなることが想像できる最悪なシナリオである。ばかげている。しかし、徐々に増えているのである。あなたが会社員ならば、自分の周りや、あなた自身に問うてほしい。一方的に、「明日休みます。」とか、「ひと月前からここに会議が入っているのは知っていましたが、明日家族行事なので休みます。」とか言っていませんか? 私は、それは極めて利己的な、迷惑行為だと思います。そうでないという納得のいく理由があるとしたら、是非説明していただきたい。つまり、あなたが一方的に空けた穴を、どの従業員にも請け負わせることなく埋める方法を説明していただきたい。
話は少し変わる。組織は、ある期限内に達成するべき目標が必ずある。そこで働く従業員は、その目標のために組織に採用されているのである。そして、目標達成のための貢献の対価として給料を与えられてのである。これが、仕えるということである。立場は、組織が上で従業員は下である。この関係が崩れると、仕事は成立しない。立場の弱い組織が、立場が上の従業員に命令( いや、お願い )を出したとして、それを受け取った従業員は「めんどくさい。やらない。」となるのは明白である。そうしないと利益がでないよ!と脅しても、組織にある程度の従業員がいれば、誰かがやるだろう…という意識が働き、組織の生産性は枯渇するのである。はじめは誰かがやるかもしれないが、やってあげた成果が平均化されることに気が付き、その人もやらなくなるであろう。体を壊す前に辞めるであろう。だから、立場は組織が上で、従業員は下なのである。そして、組織に勤めている以上は、「業務はプライベートより優先」が原則であり、「業務よりもプライベート優先で!」などという考えは、持ち込んではならないのである。それは、組織を崩壊させる悪魔の囁きのようなものである。
ここで、「そうはいっても、そうした仕組みに助けられた」という人が手を挙げるであろう。例えば、育休・産休・介護・長期療養、そして家族サービスなど。いずれも大切なことである。しかし、これらの休みを取った方は、休み中に労働利益を上げていないのだから対価しての給料がないのが原則であることを忘れてはならない。有給制度は権利とか思っているのは、偏った思い込みである。「何もしなければ、何も生まれない」という万物の基本を思い起こせば、少しは考えが改まるのではないだろうか?
では、有給休暇を胸を張って習得するにはどうしたらよいか?私は、下記を提言する。
1.有給休暇日数分の価値がある成果を蓄えてから休む
2.あなたの業務の代役を探し、その人にあなたが一部労働対価を払う
2-1. 利己的な突然の休暇の場合は、あなたの日給分を代役メンバーに支払う。
2-2. 育休・産休・介護・療養等の場合は、あなたの給与の1割を同様に支払う。
ただし、あなたの業務を主業務として担当する代役が事前に見つかっている場合は、この限りではない。
当たり前のことを言っているつもりである。1は、「やることはやって、そこで生まれた余裕分を休暇にあてましょう」ということである。例えば、一日で3日分の労働成果を上げられたら、その分休むとか。また、労働をポイント制にしてもよいと思う。日々の労働で他人の労働を救済し、互いに合意できたらポイントを習得する。それがある基準を超えたら、誰に憚ることなく休めるとか。この場合は、いきなり休むとチームが困るじゃないか!という議論が再燃するであろう。その理由は、埋め合わせをするために成果が落ちるし、それをやった者が疲労するからであろう。しかし、その場合の休んだ人によって組織の日々の労働成果が高められており、その恩恵をみんなが受けているのならば、お相子とはいえないであろうか( ご自身でも一度考えてみてほしい )。もしこのポイント制がよいならば、有給習得理由として「ポイント消化のため」と堂々とかける。ちなみに、日々の業務チームとは違う、外部研修とか、特別プロジェクトとかでの休みは、いかなる理由であれ理解されないので注意が必要である。2は、結局カンフル剤としての金で埋め合わせをするという方法である。今は、これすらもないところが殆どなので、「休んだもの勝」な現状がある。真面目な人が損をしないように、「休んだら代役にお礼をする」という当たり前の行動を仕組化するという主張である。お礼として何が良いか?と考えたとき、結局、お金が最も単純で強力と考えたので、お金とした。
以上、今日も長々と述べてきた。本日の主張をまとめると下記である。
・最近、「業務よりもプライベート優先」という論調がある。
・私は、この論は、おかしいと考える。
・理由は、チームプレイが成立しないから。
代役の人が疲れ、成果が落ち、業績は低下。組織の形態が成立しない。
・有給をとる際の、有給習得者が満たすべき最低条件の提言。
1.やるべきことやり溜めて、その分を休む
2.代役を立て、その人に労働対価を支払う
変わりゆく労働形態と労働環境。一見、合理的に見えて、悪魔の仕組みが沢山あります。その仕組みを活用する人は「利己的で、組織や社会のことを機械的に割り切るような、その他多数の人」です。「本当に優秀で真面目で、真に組織や社会のことを考え主体的に提案し、実際に組織を支えているような少数派の人」は、こうした仕組みの犠牲者となっていることを忘れてはなりません。
私は、機構設計者である。今まで十機種程度の某電気製品の開発にかかわってきた。強度設計、可動機構の設計、冷却設計、材料や加工の最低限の知識、それらにかかるお金の概算、各種試験、法律、特許出願などに関するそれなりの知識をもっている。振り返れば、数百の部品の設計をしてきたと思う。
そんな私のモノづくりへの意欲は衰えることを知らず、暇さえあれば様々な分野に好奇心を向け、知識を増やし、それらを用いた新たなメカニズムを構想しようとしている。もちろん、家庭は大事にしつつであるが。。。
最近、生成AIやネット検索などで、現在の購買の潮流を調べたりするうちに、何となくブームになりそうなモノづくりの視点がある気がしている。今日は、それを述べたいと思う。
結論から言うと、それは「間の設計をする」という意識である。
モノづくりをするときに、右をとったら左が立たずというトレードオフの要求というのは多々ある。従来は、右と左に優先度を定め、優先度の高い方に触れ切った設計をするか、優先度の高い方に比重を高めた設計をしてこれを克服してきた。従って、ある程度経験を積んだ設計者なら、その形状や構造から何を優先した設計なのかを判断することができた。例えば、軽量化と強度は、時にトレードオフの関係になることがある。軽く高強度な材料を選定してもなお軽量化を求められる場合は、強度に悪影響しない範囲で減肉を行ったり、軽量化を優先して強度を一段妥協したり、複合部材間の協同的な効果で強度を補完したりする。減肉というのは、構造部材に複数空いている丸孔をイメージしていただければよい。複合部材間の協同的な効果というのは、基礎部材の表面に塗料を塗ったり、シートを張ったりして、基礎部材と追加部材間で強度を高めあうことをいう。組立て工数が上がるので嫌われるが、私は好きである。
間の設計をするというのは、トレードオフの関係にある要素の中間域の特性を採用するということである。別の言い方をすれば、実使用上最低限な両方の特性を見出すということである。このようにする利点は、二つある。一つは、無理のない設計になり、今後の状況に応じて対応できる冗長性を残せるということ。もう一つは、意図的に中間特性を備えた機構になるので、従来にあまりない形態を提案できるということである。
間の設計について、もう少し具体的にどういうものか述べる。例えば、刃物を考える。切るためには、刃先を鋭利にする必要がある。しかし、鋭利にしすぎると衝撃に弱く、刃こぼれしやすくなってしまう。そこで、刃先を「切るために最低限必要な鋭利度」にしようと考える。すると、極めて鋭利な刃物の刃先と比べて、刃先がミクロンレベルで平坦な物になる。この刃物と、極めて鋭利な刃物が切り結んだ場合、より鋭利な刃物の刃先はこぼれるであろう。鋭利な刃物の刃先は、鋭利度に劣った刃物のミクロンレベルの平坦面に強度負けするからである。このように、間の設計とは「トレードオフの関係にある要求に対して振り切った形態にするのではなく、各要求が実現できる最低限の形態を模索すること」であると私は考えている。この設計をするときに、ある要求の最低限の形態が見つからない場合は、もう片方で探してみる。先の例なら、刃物における最低限の強度というのは、なかなか見つけにくいかもしれない。そこで、切るための必要条件を模索するのである。両要求の最低条件が見つかった場合は、その範囲内でどちらよりに作るのかは、設計者の自由である。
この間の設計と私が勝手に呼んでいる考え方だが、年々、アカデミックの分野や、嗜好品で増えてきたように思う。ある物体間の摩擦力はある固有の一定値の有無で考える人が多いと思うが、非線形に推移する条件があるので、この領域を有効に使おうとする研究をしばしば目にする。また、価値の多様化で、ジェンダーレスが騒がれて久しい( 本当に大多数の意見なのか!? )中、男性的な女性ファッションを想定した製品も目にするようになった。ここでは仮に肉体的な女性が纏うファッションを女性ファッションとし、その上で、男性度と女性度という主観的指標で様々な女性ファッションを分類すると下図のようになると私は思っている。( あくまでも主観なのでご容赦ください )
カジュアル系( アウトドア, アメカジ, ボーイッシュ, ベーシック, ストリート , スポーツ, モード )を着ると、性差の少ないファッションに近づく。一方、きれいめ系 ( オフィスカジュアル, キャリア, エレガンス, ガーリー )は、その服装を見た瞬間に男性を魅了する女性ファッションである。ただし、きれいめ系でもマニッシュは、ズボンやジャケット、コートやブーツ、色合いなどに男性ファッションを一部取り入れるので、ファッションの存在領域としては、カジュアルと一部重なると思っている。カジュアルやフェミニンの女性ファッションを、体形が女形の男性が着たら、一瞬、性別が分からなくなる。同様に、やせ形や筋肉質の女性がこの領域の服を着ると、性別が分からなくなる。
さて、前置きが長くなったが、これらの女性ファッションの特徴を仮定したとき、あなたがジュエリー会社の企画者として「男性的な(ex.ごつくて大きい) 女性ものの装身具を企画してください」と言われたら、どんな提案をするであろうか?間の条件を定義してみてください。つまり、男性や女性らしさに振り切った提案ではなく、両性の比率をどのように決めるか、考えてみてください。
上図だと、女性ファッションにおける女性度の変域は 50~100である。同男性度は 0~50である。この中で、そのファッションを纏うことで女性と判定してしまう、または中性と思ってしまう境界領域があるはずである。なぜなら、服は、人の裸体を隠し、人の身体的特徴を曖昧にする効果があるからである。そこで例えば、下図の赤領域のファッションをそのように定義する。この定義は、チームメンバーと会話して感覚的に決めるでもよいと思います。それがその組織の意思決定になり、個性になるので。
赤領域をより左上にいけば中性的ファッション(≒男性が着ていても違和感ない)に感じやすく、逆に右下にいけば女性ファッションと感じやすい。今、起案しようとしているのは、男性的な女性物製品なので、方向的には左上である。このとき、アウトドア、アメカジ、ボーイッシュ、ベーシック、ストリート、ノームコアに属する製品ならば、大きくごつい製品を提案しても問題ないと思われる。身近な例としては、G-shock や タイメックスの腕時計であろう。これらは、本来は男性向けに設計されており、その女性向けモデルが出ているにもかかわらず、女性がファッションアイテムとして腕にしているのを町中で観察できるのは、この予測が満更でもないことの証左ではないかと思っている。ここで、赤領域より左上では、ゴツイ大きな女性アイテムは十分な既存市場があると考え、もう少し女性向けの物にしたいと考えると、境界域のレッドゾーンを含めた右下のファッションに適合する品を起案することになる。しかし、トラッドやオフィスカジュアルより右下は女性度が強すぎるので、大きくゴツイ品物はあまりにも不釣り合いである。そこで、レッドゾーンにいる「マニッシュ、スポーツ、モード」あたりで受けそうな品を起案すればよいと考える。例えばマニッシュは、男性度40、女性度60の割合のファッションと仮定していた。とすれば、その製品の外観を決める要素を例えば10分割し、4つを男性を連想する特徴に、残り6つを女性を連想する特徴にしたりする。
以上、間の設計と、それを男性的な女性ファッションを例に考えてみた。「対立項があるとき、各項の特性が各々発現する境界域を見定め、その中のわずかな自由度で起案・設計する」という間の設計という視点。トレードオフ解消の一つの考え方として、今後も意識し、ウォッチしていきたいと思う。
※ トレードオフでない関係には、使えないのでご注意。
これは私が小学生の高学年だったころの話です。
当時、私は小学校が終わると、直ぐに学習塾に通っていました。勉強は社会と国語以外は壊滅的に苦手で大嫌いでしたが、「行くものだ」という刷り込みによって毎日行っていました。
5時から9時までの授業。週末のテスト。週明けの順位発表。親や先生からの激しい叱責。
中学受験が終わるまで、この繰り返しでした。
このような生活をおくるうちに、私は大いに疲れてしまって、次第に日常的に神頼みをするようになりました。
普通に考えれば、たかが塾のテスト如きで神仏の力を求めるなどアホか。。と笑い話になるかもしれませんが、誰に何と言われようと、思考する頭がまだ生育の過程でできていない当時の私には、暗記で直接対処できない問題は解けず、従って点数は伸び悩み、それ以上を要求されても成す術がなかったのです。だから、神頼みしないと日々を乗り切れなかったのです。
こんなとき、同じ塾の仲間たちの中で流行っていたのは、シャープペンシルの収集でした。いや、かなり流行っていたと思います。週に二日は文具店(丸善)に行き、自分好みのペンを10分ほど探して、ときに100~300円くらいの品を買っていました(お小遣いをためて1000円てのもありました)。重くて重心が安定しているペン、1mmまで芯が使えるペン、製図ペン、ノック式、筐体側面にプッシュボタンがあるペン、捻ると芯が出るペン、キャップがあるペンetcその多様性に心躍らされたものです。
では、なぜ当時の私たちは、これほどペンに惹かれたのでしょうか?今思えば、それは、ペンにある種の神や力が宿っていると感じていたからだと思うのです。単に、感覚的に惹かれるからだけではありません。もしそれだけなら、何本も購入するとは考えられないからです。
皆さんもこんな経験はないでしょうか? 尊敬する人が所持している物を自分も手に入れて、頑張りたい!とか、神社で売っている合格鉛筆を買ってテストに使うとか。前者は、尊敬する人と同じ物を使うことで、その人のようなりたいと願う心理の表れと私は思うのです。それを示すように、重要なテストがあるたびに、優秀な子が使っているのと同じペンを買ってきて使う子が大勢いました。私は、神社の合格鉛筆の力がその断面形状や色にあるのではないかと思い、ペンの形に「答案を作成する閃きの力」が宿ると思い、色々な安物ペンを収集していました。1年で10本くらい( 1,500~3,000円くらいか… )
このようにして、合格鉛筆と色んなシャープペンシルを収集し、使い分けて、苦しい受験期の中に鑑賞する喜び、使う楽しさ、希望を見出していたのです。問題が解ける天才や秀才たちには、これとは別次元の悩みがあったでしょうが、平均±標準偏差 あたりの人は、何となくこんな経験があると思うのです。
まもなく子供たちは夏休みに入り、受験生は、遅れ挽回とさらなる成長に向けて重要な時期に入ります。毎年、この夏のうだるような蒸し暑さを感じたり、文具コーナーをウロウロするNバックを背負った子供を見かけたりするたびに、遠い日の、ペンに神が宿ると真剣に信じて問題と格闘していた弱い自分を思い出し、心の中で彼らを応援してしまうのです。
私の趣味の一つは、ランニングである。週に2~3回、各6~10kmほどのジョギングをする。それを2年前の9/28日から続けている。
ランニングを始めた理由は、生まれて初めてギックリ腰になり、整形外科・整体・カイロプラクティックに何度通っても改善がみられないので、自力で何とかするしかないと考え、動ける体を作ろうと考えたからであった。
開始した当初は、腰の激痛も抱えながらであったが、1kmあたり6~7分かけて3kmを走るのが精いっぱいであった。このくらいの距離で、三半器官もマヒしてか、耳が痛くなってしまったからである。これを週に2回、2週間ほど続けているうちに腰の痛みが引いていった。
腰の痛みが引くと、急に速く走ることができるようになった。5分30秒/kmだったと思う。心肺機能も少しついてきて、3km程度では物足りなくなっていた。半年後には、12km程度をこの速度で走れるようにまでなっていた。
ランニングをする楽しみは、「速く長く走れる健全な体」を作ることにあると気が付ついた。自分が若いころは、何かを作ったり、育んだりすることに喜びを見出すことは無かったので気が付けなかったが、動ける体を作ることは、とにかく楽しいことだと気が付いたのである。
この頃には腰も癒えたので、筋トレを再開した。体感トレーニング、腹筋、スクワットの三種目が基本である。特にスクワットは念入りにやり込んだ。半年後には、30分ほどかけて連続1000回できるようになっていた。ランニングを初めて1年。5分30秒/kmのペースで30kmを走れるようになっていた。しかし、これだけの距離を走れるのだから、10kmは4分30秒くらいでいけるのでは?と思ってチャレンジしたが、20秒ほどは速くなるものの、それを維持することは出来なかった。
そこで、フォームに関する本を何冊か読んだ。その結果、減量と地面からの反発を活かすのに良いフォアフット走法を推奨する本に出会い、走り始めのウォームアップと走行中の意識に注意したら、いきなり10kmを4分56秒/kmで走ることができた。ここでランニングの楽しみとして、「走法を知ることで、新たな次元が開けること」を知った。半年ほど後には、自分に合ったフォアフットの形を模索しながら、4分20秒/kmで10kmを走ることができるようになった。
この辺りで、色々問題が起こった。まず、仕事の忙しさなどもあって体調を崩してしまった。また、10年前に買って使っていたランニングシューズが壊れてしまった。その靴は、地面からの反発を促す靴ではなく、只のクッション性の良い靴であった。二週間ほどして体調が良くなり、その間に靴の下見をしてアマゾンで購入した話題の反発を促す靴を履いて走ったら、いきなり10kmを3分55秒/kmで走ってしまった。しかし、二週間くらいで靴がすぐにダメになり、私も股関節を痛めてしまった。そこで、昔ながらの軽めのクッションだけの安い靴に買い替え、股関節の痛みが引いたところでランニングを再開した。すると、4分35秒/km程度の走力であった。ここで、ランニングの楽しみとして、「使うアイテムによって、速度が大きく変わること」を実感した。この後、2~3か月の間、このペースで安定的に走ることを意識しつつ、体感と脚を鍛える筋トレを入念に行った。
最近、昔ながらのシューズではあるが、4分23秒/km 程度で10km を走っている。ただし、600mほどの坂道を登ったり、下ったりが複数あるコースなので、この値は平均である。登りは4分40秒/km 程度まで落ちる。苦しい。しかし、「走るリズム。つまり、呼吸、腕振り、着地の連動の意識を一歩一歩して、道の起伏に合わせてこれを変えることで、速度も苦しさも大きく変わること」を知った。走る動作そのものの奥深さをいうのを感じている。加えて、「不規則な加速ができるフォーム」を探求している。例えば、5km走る中で、2~3kmの区間や、ラストの1km区間だけ全速力で走るなどである。現在、長時間安定して走るフォームを見出せてきたが、そこから任意の1kmほどの区間、パンチの効いたペースアップをすることができていない。もっというと、自分の認知している走るリズムを高速化した感覚で、ペースアップをしたいのである。「タッ、タッ、タッ、タッ、… 」から、「タタタタ…」という音感でのスパートをしたい。しかし、腕振りがタタタタに追い付かず、別の走りになってしまう。ここをどう克服するかが、今、探求していることである。「呼吸は楽に、スピードは速く、距離は長く走れ」、「呼吸は粗く、スピードはとても速く、距離は1km走れ」る連続したリズムとフォーム型を探っているのである。奥深い世界である。
〔まとめ〕
ランニングをする私の楽しみとは、
① 速く長く走る健全な体を作れること
② 新たな走法を知ることで、新たな次元が開けること
③ 使うアイテムによって、速度が大きく変わること
③ 走るリズムを知ることで、速度も苦しさも大きく変わること
④ 理想的なパフォーマンスをするリズムとフォーム型を探求すること
である。