心構えが大事です

生物は、基本的に自己または仲間の生存以外のために、その命を奪うことはしない。

これは、我々人間も同じである。

植物を収穫するのも、牛や豚、魚を食べるのも、蚊を殺すのも、皆、生存のためである。

これらに異議を唱える者はいない。いたら、その人は人として生存できないからである。

つまり、生物にとって、その生存に欠かせない行動は、正義なのである。

では、人を殺めることや、戦争をすることは、正義であろうか?一般的な社会通念でいえば、これらは悪である。

しかし、自分や、自分の愛する者たちの命を奪いに来る者がいるとして、逃亡や潜伏が何の解決にもならないと分かったときに戦う行為は、正義である。これに異を唱える者は、生物ではない。犬も、猫も、カラスも、蜂も、皆自分の大切な物を守るとき、相手の強大さに関わらず自分を犠牲にして戦う。何もしないことは、一族の滅亡を意味するからである。つまり、生存の危機(=他からの殺戮)において、何もしないで自分が殺されるのを待つことは、悪なのである。

私は、世界の多くの人と同じく、戦争は悪だと思っている。しかし、生存が脅かされる場合に限り、戦争は正義だと思っている。これについて、分かっているがしちゃダメだ!と言う人がいるが、彼らの多くは、戦争しない場合の答えを持っておらず、お話にならない。なぜなら、彼らの考えは綺麗ごとだからである。平和は、綺麗ごとでは守れないのである。せめて、天下100年の計などを引用し、侵略国の国力を内部から崩壊させる案や具体策を提案するなどしてほしいものであるが、、仮にその話をしたところで、、今まさに襲ってくる敵に対しては、やはり戦うしか手段はないのである。実は、このことは、日本の政治家たちも、9条保持を訴える政党の政治家たちも分かっている話なのである。なぜなら、彼らは人であり、警察や自衛隊を正義とし、武術を嗜む人も多いので、平和を得るためには、戦力が必要なことを少なくとも本能で分かっていると考えられるからである。それが国家のレベルに拡大したところで、同じである。国家は人で構成されるからである。違うことと言えば、国家国土の大きさ故に標的が分散されるために、敵の攻撃を自分事として捉えることに、時間的ズレを感じてしまうことである。つまり、有事の際に自分たちが攻撃されている実感が湧きにくいのである。そのため、やれ交渉だとか、やれ国連に援軍をとか、一つづつ順番にやろうとするのだが、これらをやりつつ迎撃戦闘をするのが本来の在り方であろう。。

2/24に、ロシアが戦争を始めた。太平洋戦争の時の日本のように、欧米による経済封鎖で国家の生存が脅かされているわけでもないのに、ウクライナへ侵攻した。これは明らかに、悪である。大儀が伴っていないからである。歴史上、「悪である戦争」をして勝利した者や国家は、それが大多数の賛同と協力を得た場合を除いて、前例がない。「ローマ帝国」も、「元」も、「秀吉の朝鮮出兵」も、皆失敗をした。悪が勝利したのが、第二次大戦時の連合国である。今回の戦争は、ロシアに明確な賛同をしている国は、現状ない。発言を控えている国は、世界大戦になったときにロシアの協力国となるであろう危険な国であるが、今のところ、大国が一つ、小国が二つほどであろうか。日本の近くにその内の二つがあるのは要注意であろう。日本は、地政学的に、今かつてないほど重要な場所にあるのである。

このような社会情勢を踏まえて、我々は、時代に適応的で大儀ある生存行動を起こせるように、我々の価値観をもう一度見直さなければならない。そこには、今の50歳以上80歳未満の人の価値観は不要である。なぜなら、彼らの概念は平和を前提としたもので、特に日本人ならば、綺麗ごとがまかり通ってきた世代だからである。このような中、国家存亡を考え、行動し、次の世代のことを考えねばならない現役世代は、、自分と愛する者、そして国家と人類の恒久平和とは何か?その為に、個人はどうあるべきか?戦闘は悪なのか?戦闘をしなければならない場合に備えてどうするべきなのか?自分は何ができるのか?などなどを考え、自分なりの考えを出し、調べ、修正し、行動し、次世代に紡いでいかなければならないのである。そうして個人が生存の意義を考えることで、行動が変わり、集団の体制が修正され、現在と未来に大儀のある行動ができる責任ある国家が作られるのである。

なお、こうした存亡の危機に対する考察は、中国の兵法書や、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、幕末、明治期など日本存亡の危機に際して先人たちが残した書物でも深い考察があるので、そうした書物を読んでみると有意義である。というのも、時代の流れに適応していける視野を養い、体制を整えることができるからである。その様は、例えば、おもちゃのヤジロベエのような感じである。フラフラある範囲をふらつきながらも決して倒れない様である。

心構えをしておくことが、大事です。

【本日の動画】せせらぎ

自然の川の流れを見たりすると、自己効力感が高まります。未来に期待が持てるようになります。そうすると、今をしっかり生きようとする意識が芽生えてきます。その意識でもって、自分で考え、自分で答えを出す姿勢を一人でも多くの人が養うようになれば良いなと思います。

靴を長く使う方法

最近、靴を購入した。普段使い用のウォーキングシューズである。

ネットで情報収集し、店舗で質感や足形状への追従性などを確認し、過去の経験から三年ほど使用できると考え、購入した。価格は、約2万円である。

私の考える良い靴とは、下記の条件を満たすことである。

①. 歩きやすいこと。

②. 丈夫であること。( 補修含め、2年は美しく使える )

③. 落ち着いた外観であること。

④. 価格が①~③に対して適切であること。

これらの点をまずネットから情報収集する。このとき、①と③については、非常に優れたものが多く、直ぐに価格とのバランスが良い候補が10足ほど揃う。しかし、これらについて②の点で口コミを見ると、全く参考にならないことが多く、選定が振り出しに戻ることが度々ある。

どういうことかと言うと、ある人は三か月で壊れたといい、別のある人は三年間使っていても大丈夫という。。こういう情報が交錯しているのである。これを見て私は、こうした問題の原因は、「靴そのものの構造的な壊れやすさ(強度)」と、「靴を使う人」にあると仮定し、選定を見直すことにした。

まず、強度についてである。私は、靴の設計者ではない。しかし、電気製品の機構設計に関わる者として、日々、強度は重要課題の一つとして意識している。電気製品の設計ならば、「想定使用条件に対応する安全率を設定し、その負荷に耐えられる」ように構造を作る。もし、靴も同じ視点で設計されているのならば、少なくともその靴は、「想定した使用者が、想定される使い方をする分には、想定された期間」で壊れるはずがないのである。こう考えると、知らないメーカーやファッション店の出した靴は信頼性が極めて低そうに感じてしまう。というのも、体重40~100kgの物体に、踏み込みによる初速が加わって立式される衝撃力Nが、歩行の時に、靴を圧縮させたり、摩擦力(μN)という形態で常に靴を摩耗させたりしているのだから、論理設計をしないと直ぐに壊れるのが当たり前だと思うからである。そう考えると、会社のサイトや展示会で靴の3D設計とCAE解析のデータの一部を公開しているメーカーは、若干信頼できるような気がする。特に、スポーツシューズメーカーや登山靴メーカーの製品は、衝撃との戦いを常にしており、新製品発表会のときは前述のデータの一部を公開するので、期待が持てる。そこで、私は、こうした会社の製品で、選定を絞ることにした。

次に、こうした会社の製品であっても、やはり、三か月ほどで壊れたという口コミを見かける。ここで、街にでて、色んな人の歩き方を観察すると、皆、ビックリするくらい汚い歩き方をしていることに、私は愕然とした。つまり、ちゃんと踏み込まないで歩いているのである。後で詳細するが、これらの歩き方による衝撃が靴にかかることは、靴の設計者たちも想定外なのではないかとさえ思ってしまうくらいだ。汚い歩き方をしているかどうかは、歩行音を聞けば分かる。というのは、音の大きさと強弱の特性から、靴に加わる負荷具合を推定できると考えるからである。

例えば、私が100人の観察したところ「パッタン、パッタン(43人)」「ズッ、ズッ(28人)」「コツ、コツ(29人)」と言う具合に分類できた。この中で、靴のかかとが削れが激しい順に並べると、「パッタン、パッタン」「ズッ、ズッ」「コツ、コツ」であった。前の二種類だけで、実に70%を占めていた。まとめると下図になる。順に少し説明する。

図. 管理人の街角における独自調査結果

「パッタン」は、パとタンの部分で、一回の踏み込みつき二回の大きな着座点を持っていると考えられる。イメージとしては、スリッパやサンダルを履いて、高速歩行するときの要領である。踏み込み時の「パ」で大衝撃が踵に加わり、その後、踏み込む力を靴底で分散させる「彫り」をあまり使わないで、靴の前部で「タン」と着地する。パとタンそれぞれの時間も、他の着地方法に比べて長いために、靴底で広く力を受け止められないので、着地点の衝撃は極めて大きいと思われる。従って、こうした歩き方の人の靴は、靴の前と後ろが大きく削れており、恐らく直立不動が難しいとすら感じるほどに歪に擦り減っている。加えて、足音が異常に大きく、品の無い人に感じる。(実際、見た目や所作もおかしいい人が多い 。) 

「ズッ」は、二種類の人がいる。「前足で着地し、歩くたびに推進を止めるような歩き方の人」と、「靴を引きずるように歩く人」である。前者は、前足部が大きくすり減っているのが外目でよくわかる。現代剣道をやっている人や、フォアフット走法の人は、ひょっとしたらこうした傾向があるのではと感じる。後者は、重心が後ろに落ちがちな老人によくみられる傾向である。先のパッタンよりは傾斜は小さいが、踵が削られている。最後の、コツコツは、一番まともで、靴底の削れ具合や傾斜も前のパターンに比べて明らかに小さい。これは、一次衝撃を踵部で受け止めた後、靴底全面で摩擦を効かせながら次の推進のつなげているので、靴の削れ具合の偏りが先例に比べて少ないからではないかと感じた。いわゆる、しっかり踏み込んだ歩き方が、一番靴に負荷を与えないのだろうということである。これは逆にいうと、多くの人は、しっかり踏み込んで歩いていないということである。その結果、靴の劣化は早まり、歩く音がうるさいので、品のない人に見られる可能性があり、良いことはないなとも思った。

以上から、靴を長く使うには、「靴の耐衝撃設計をしっかり行っていると思われるメーカーの品を探す」「しっかり踏み込んで歩く」ことが大事であると思うのである。

【本日の動画】白波

自然の絶妙なバランスで白波が生じています。歩き方も、人生も、バランスが大事だと思うのです。

新年あけましておめでとうごいざます。

本年もよろしくお願いいたします。

一昨年頃から感じていたことですが、世の中の流れが加速しています。

新しい概念を素早く取り入れ、咀嚼し、自分の価値観、観念、考えを更新し、行動と計画を修正する柔軟さが、ますます必要になるであろうと感じております。読書習慣が大切です。

一方で、新しい概念を取り入れることにだけに意識を集中させてはいけません。そうすると、思考力や発信力が大幅に衰えるからです。故に、「考えを整理する」意識を日々持つことも必要です。作文習慣が大切です。

さらに、精神や感受性を豊かにする行動も毎日しなければなりません。情報の波とそれを処理する生活をしていると、精神が歪んでくるからです。言い換えれば頭でっかちになり、利己的になるからです。利己的になると、周りが見えなくなり、ヒステリーや破壊衝動、過剰な欲望に支配され他人を傷つけることになります。そうならないために、心に栄養を与える時間を毎日とることが必要です。瞑想、自然に触れる、運動、芸術などに没頭できる時間をもつことが大切です。

以上により、知能と精神が豊かになると、健康状態が良くなり、それがさらなる活力を生み、周囲に良い影響を与え、自他ともに充実した日々を過ごせるようになると考えています。

このように心がけ、今年一年を楽しく過ごしていきたいと思います。

本年もよろしくお願いいたします。

【本日の動画】陽の光

本年もお世話になりました。

本年もお世話になりました。

今年もあっという間にくれました。

コロナ下ではありましたが、私は何だか色んな人や力に守られながら、応援して頂いていることを実感した一年でした。病気もなく、職場環境も思い通りに大好転し、国家資格も習得、色んな方との縁を結べた一年でした。

来る年も、益々素晴らしい一年となるように、日々精進したいと思います。

なお、私は天皇を象徴とする日本人なので、天皇の先祖や関係者を祀っている神社にしばしば参拝しに行きます。

週末、車やクロスバイクで遠出をしていると、つい、フルそうな神社があると立ち寄ってしまいます。今年も沢山の神々様にお世話になりました。ありがとうございます。心より感謝申し上げます。

天之御中主大神( アミノミナカヌシノオオカミ )様

高御産巣日大神( タカミムスビノオオカミ )様

神産巣日大神( カミムスビノオオカミ )様

天照大神( アマテラスオオカミ )様

猿田彦大神( サルタヒコノオオカミ )様

宇迦之御魂大神( ウカノミタマノオオカミ )様

建御雷大神( タケミカヅチノオオカミ )様

経津主神( フツヌシノオオカミ )様

建速須佐之男命( スサノオノミコト )様

高麗王若王( コマオウジャクコウ )様

木花咲耶姫 (コノハナサクヤヒメ)様

〈うんちく〉

賽銭や浄財には、何を入れたらよいのか???

・神社の「紐と鈴」は男性器を象徴しているので、賽銭は、白系のお金を入れることが良いそうです。

・寺社の「蟇股(カエルマタ)」は女性器を象徴しているので、浄財は、赤系のお金を入れることが良いそうです。

ということを、某Youtuberのお坊さんが動画内で説明しておりました。是非、試してみてください!

【本日の動画】中津川のせせらぎ、風の音、カワセミの声

自然に触れたり、風景を眺めたりすることで、心が落ち着き、余裕が生まれ、自己肯定感、自己効力感が増します。そうすると、余計なことを考えることが無くなり、充実した日々を過ごすことができるようになります。素敵な年末年始をお過ごしください。

マイペースであることについて

本日は、マイペースであることについて、述べたいと思う。

① 電車の中で、他人への立ち位置や音など気にせず、自分のゲームや動画鑑賞に没頭する人。

② マフラーを改造して、爆音を立てて公道を走る車やバイク。

③ 職場で、連携した仕事が必要なのに、自分の職域を勝手に制限し、そこだけ完了したらそれで終わりという人。

④ 恋活や婚活をしているのに、自分はマイペースなので一生一人でもよい。良い人がいればいいな程度の人。

⑤ 家の中で与えられた仕事をして金を稼ぎ、ゲームなどの趣味に没頭し、それだけで人生十分とする人。

⑥ 公共の場ではマスクをして、飲食は極力控える。食べても、ガムや飴くらいにする。その上で、本を読んだりする。

これらは、皆、マイペースであることの例である。

マイペースであることは、一見すると、別に悪いことではない。なぜなら、マイペースであるためには、自分がありたい姿、つまり、「軸」があるということだからだ。軸があるということは、それは、自立した人間であることを意味する。だが、自分がありたい姿を描くことは、子供でもできる。社会的責任を負った大人は、この程度のマイペースではいけないのである。「一見すると」と言う具合に、含みを持たせたのは、その為である。

では、大人はどんなマイペースでなければならないのか? 大人は、子供と違い、責任を負う立場にある。何故責任が問われるかといえば、そうしないと社会の秩序が乱れるからである。社会の秩序とは、突き詰めると、人と人との連携・協力・調和のことである。調和は、互いに思いやる姿勢によって初めて成立する。従って、人との調和が成立する個人のマイペースとは、「相手への思いやりを第一に考えた、マイペース」と言うことである。つまり、「利他的なマイペース」が、大人のマイペースということなのである。

では、この利他的なマイペースの視点で、①~⑥を見てみよう。

①は、他人の快適さを考えていないので、利他的なマイペースではない。よって、これをやっている人は、子供である。

②は、爆音を立てている時点で、他人への配慮がない。よって、利他的なマイペースではないので、子供である。

③は、自分の職域の勝手な制限をしている時点で、もはや配慮が欠如している。その職務で十分なことの合意をとれていないので、この人は、他人への配慮がない。よって、利他的なマイペースではない、子供である。

④は、互いに調和できる人を探す行動をしているに、自分は一人でも充実しているので相手は特に必要ないと言っている。こういう主張をする人は、「子供である自分を、ありのままに居させてくれる人」としか結ばれないであろう。なぜなら、「協力しよう!」と言っているのに、「私は協力する必要がないが、あなたが必要と言うから居てあげる」という関係だからだ。さらに、こうした人は、「良い人がいたら」とも言っている。この良い人というのは、考える限り2パターンしかない。一つは、「自分が夫婦やそれに伴う社会活動で非協力的だが、好き勝手させてくれる、大金持ち」。もう一つは、「自分が追いかけたくなるようなプリンス /プリンセス」である。そんな人は、あまり居ないと考えた方がよいことは、いわずもがなであろう。こういった人は、今後「利他的」な意識に変えていかないと、若さゆえに快適な一人の人生を突き進むことになるであろう。只のマイペースな子供だからだ。

⑤は、仕事という形で社会と関わっているので、利他的なマイペースである。仕事を依頼した人は、ちゃんと結果が返ってくれば安心するであろう。だから、この人は、大人である。

⑥は、他人を配慮した行動そのものである。マスクをするのは、他人からの感染を防ぐ効果と、他人へうつさない効果が期待できる。マスクをする行為と、それを公共の場で長時間続けようとする姿勢は、利他的である。よって、大人である。

以上、マイペースであることについて述べてきた。身体は大人になっても、只のマイペースの人は多いです。是非、利他的なマイペースを目指し、身体も心も魂も大人な人が多くなってくれることを願っています。

【本日の動画】オオバンの隊列

野生の生き物こそ、協調性が求められます。自然の前に、一人では生きていけないからです。人は、今一度、原始の在り方を学ばなくてはならないと思うのです。