工業デザイナーについて

企業が新製品発表会を開くと、その場には役員、企画者、そして工業デザイナーが出席し、製品の素晴らしさを雄弁に語る。

後日、Wikipediaなどの情報サイトで、その製品の記事をみると、開発者のところに主任工業デザイナーの名前が記されることが多い。

正直、機構設計者として働いてきた私としては、こうった扱いを目の当たりにする度に、残念な気持ちでならない。優秀なエンジニアが日本企業を見限って去っていくのも納得である。なぜなら、だれよりも、その製品のことをはじめから真剣に考え、何千回もテストし、苦しんで生み出した製品を、、そのお披露目の場で企画者と工業デザイナーに手柄を全て持っていかれるからである。せめて、自分たちを鼓舞し、監督をした設計部長と設計主任が出席し、一言述べてもらわなければ納得いかないと思う。。

ところで、日本の多くの工業デザイナーがどういった仕事をしているのかを、簡単に述べる。

今日の彼らは、反感覚悟であえて一言でいえば、「芸術家」である。現状、機構設計者としての私から見た彼らは、「自分(たち)の中に独自にモチーフを定め、その特徴を新製品に反映させる」ことをやっているだけの人である。「工業」という肩書を持っていながら、物の作られ方、強度、製品に求められている事項、及びその優先度を理解していない人が大多数である。今まで公私問わず出会ってきた工業デザイナーは20人近くいるが、1人の方を除いて皆、芸術家に過ぎなかった。某車メーカーの有名な車種の主任デザイナーと胸を張っていた方々も、その車の設計概念、想定顧客を理解されていないようであった。具体例を挙げると、ある人などは、「俺が学生時代に作ろうと思った形を具現化させたんだ!設計部の連中が空力抵抗とか、予算内で製造できないとか、法律とか言っていたが、引かなかったね。だって、俺らデザイナーが首を縦にふらなきゃ製品Goされないんだから。」 などと言う始末。これが異常であることは、最早説明をする必要はないであろう。

本来、工業デザイナーとは、機構設計者などが、製品に求められる在り方( 顧客、機能、強度、予算、製造方法、法律 etc )を具現化した粗削りな形状を、その機能を損なわない中で洗練させていくのが仕事である。その洗練の際に、担当デザイナーが独自にモチーフを定め、反映させるのは自由である。しかし、その為に、単価が1.5倍、2倍も跳ね上がって良いはずがない。彼らが影響力を持てる要素は、初めから極めて少ないのである。

つまり、彼らの仕事は、成果を示しにくい極めて泥臭く、深遠な世界なのである。というのは、彼らがデザインの元とする「機構設計者の粗削りな形状」は、その80%以上は全て構造的に意味のある形で変更は基本不可能なので、工業デザイナーは、残りの多くとも20%で独自性を示さねばならないからである。華々しいわけがなく、しかもその僅かな関わりに誇りを見出さねばならない。これを深遠な世界と呼ばずして何と表現すればよいのであろうか。

あるデザイナーの仕事を一例に説明する。例えば、ある製品のデザインを担当するとき、あるデザイナーは、「ガンダムをモチーフにして、製品の一部の凹凸を額当て部と分かるようにC面、R、勾配を設定し、配色に拘りました!」などといったりする。この際、C,R,勾配設定が、製品の機能や強度に影響を及ぼす場合は、設計部は強くその具現化を拒む。なぜなら、お客様の安心と安全に直結するからである。そこで、このデザイナーは自分の業務成果である額当て部の形状を高確率で妥協することになり、ガンダムをモチーフにしたものの、配色しか成果がないことになる。しかし、ここで腐らず、「○○しているときのガンダムには、原色に加え、度重なる戦闘で被った荒廃色(←?)があり、それが見る者の視覚を強く刺激し、臨場感を生み出しています。多くのファンは、この原色+荒廃色に惹かれ、益々愛着を感じるのであります!」などと語られたときには、私は涙してしまう。その者の熱意と深い世界観が奥にあるように感じるからである。

これは、如何に工業デザイナーの仕事が泥臭く深遠であるかを示した例であり、本来の姿である。これが華々しく、外観の根本的な形状をデザイナーが作ったことになっている場合は、メディの力が異常か、機構設計者が仕事をしていないか、その会社の企画・営業・デザイナーの権力が異常であるかである( 特に本当に最後の場合である場合は、不正や不備があることを覚悟した方が良い )。

最後に、機構設計者として、工業デザイナーの方に心がけて頂きたい仕事への取組み方をまとめておきたいと思う。

①. 製品コンセプト( 想定顧客, 想定される使われ方, 機能, 予算 )は、必ず理解しましょう。企画や設計者の考えを理解することに大いに役立ちます。何より、お客様の顔が理解できます。

②. 機構設計者と打ち合わせする際は、必要機能や強度を出すのに絶対必要な要素をヒアリングしましょう。言い換えれば、デザイン自由度を洗い出しましょう。曖昧な箇所には、手を出さないでおきましょう( 手を出したVerもデザインできればとても優秀です。 )

③. 日頃から、物の作られ方と強度について勉強しましょう。特に、樹脂と金属の金型の知識や加色技術については、知らなければなりません。それが、機構設計者の作った形状を理解することになりますし、自分たちが絵に描いた餅を作っているのではないというプロ意識を養うことになります。

④. 20%以下の自由度の中で、自分の独自性を盛り込む仕事であることを理解すること。構造的な領域に足を踏み入れ、自分のデザインの成立性を提案するのも良いですが、それが成功することは基本的にありません。理由は、あなたよりその分野に長けた設計部の技師たちが何千回もの検証してきた形を否定することになるからです。ただ、理論的に正しいという自信があるなら提案してみてください。例え失敗しても、あなたの努力と熱意は設計者の心を打ちます。それはあなたへの信用につながり、次の仕事を有意義なものにします。

なお、デザインをするときにモチーフを定めると思いますが、そのとき、多くの方が固有名詞に終始しがちです。ガンダム、ピカチュー、チーズケーキ、シュークリームなどです。これらは、既にとても有名で、その特徴的な外観も皆よく知っています。よって、デザイン後に特徴的な形状が否定されたら、あなたの独自性が容易に喪失してしまいます。そうならないように、おススメの方法があります。それは、「物体の動きを持たせたものをモチーフにする」ということです。例えば、改装完了で気力が充実しているときのガンダムは、アニメの演出上、特殊な光沢やオーラを放って表現されます。よって、もしあなたが「改装完了で気力満点で、出撃直後のガンダム」をモチーフに選んだのならば、、その時点であなたの独自性が強く発動します。その後のデザインの仕事も他のデザイナーの勝手な解釈に基づく入れ知恵(?)に悩まされることも減ります。だって、盛り込みたいモチーフを最も理解しているのは、他人ではなく、あなた自身なのですから。

以上、工業デザイナーの仕事と在り方について、私見を述べた。

工業デザイナーとは、「機構設計者の示した機能と強度を凝縮具現化した形状を崩さないで、芸術家の筆を入れる」者たちである。前述した某車のデザイナーのように、芸術ありきの工業製品など基本成立しない。無駄なコストアップや、機能未達、法律違反を招くからである。一昔前ならそれも許されたかもしれない。というのも、そういった機能未達や法律違反も見た目には分からず、露呈しにくかったからである。しかし、情報社会になり、多くの検証方法が民間でも気軽にできるようになってきた昨今では、そうもいかない。そういうわけで、これからの工業デザイナーは、益々、自分たちが背負った「工業」の肩書を深く理解し、天狗にならず、職務に当たるべきだと思うのである。

エスカレータ問題

最近、エスカレータの歩行を禁じる社会的風潮が強まっている。一部の地域では、条令で禁止をしているくらいだ。

しかし、現実的に、エスカレータの歩行を完全に禁止してしまうと、人の流れが乱れてしまう。だから、多くの地域やインフラでは、「明確な禁止」はせず、「注意を促す」にとどまっている。

例えば、駅。ホームに行くために、エスカレータしかない、または階段が補足的にしか供えられていない構造が多い。電車の乗り降りで急ぐ者が沢山いることを想定して、そうした構造が採用されているのである。もし、「エスカレータは立ち止まって乗る物」という前提で駅を作ったのならば、「エスカレータの輸送速度は、一般的な人間が急ぐときの速度と同等」であったり、「ホームに乗り降りする人の想定最大数が、次の電車が来る前にエスカレータで解消できる予想」が立っていたりしているはずである。しかし、健康な人が階段を上る速度とほぼ同じ速度の現状のエスカレータでは、このいずれも充足できない。よって、ホームの設計側は、エスカレータを「立ち止まって乗る前提の乗物として設置していない」としか考えられない。

ところで、エスカレータ上の歩行が危険であるという主張が強くなってきたのは、2020年代に入ってからだと感じている。強弁に禁止を主張する方々の多くは、ニュースや記事から老人が多いように感じる。彼らの訴えの理由は、「エスカレータは歩行する乗物じゃない」「歩行者がいると衝突して危険である」の二論に集約される。これにらについて考える。前者については、その地域やインフラでルールを定めていない限り断定できない。よって、そのルールを( 彼らが )示さない限り理由として成立しない。また、ルールを示さないで( 立ち止まるのが )常識と言う人もいるが、その点についてはやや都合の良い解釈をし過ぎな気がするので少し補足する。そもそもエスカレータは、電動移動階段である。階段が、自動で動いている物である。階段は、利用者の体力によって速く乗り降りしたり、遅く乗り降りしたりしてよいものである。階段は、人が通る路の一部であるからである。電動だからとこれを禁止するならば、空港の電動歩行路も歩行禁止になってしまう。よって、路である電動階段の歩行を厳禁として一般化することはおかしい。ここで、この路である階段について、利用の際の歩行を制限することに着目すると、主張者が口にできていない「誰か」にとって不都合があるからではないかと感じることがある。では、誰なのか?うすうす分かっているが、一端、後者についても考えてから結論する。というのも、一つの問題に対する主張が二つあり、問題に対して不都合をこうむる対象が一つの主張から判明しないのならば、もう一つをみることで理解できるとことがあると考えるからである。

さて、後者の論だが、これは「人と人の相対速度が大きくなると、衝突の危険が高まる」という主張であり、もっともらしい意見である。しかし、これ故に禁止というならば、公道での早歩き、ランニング、自転車運転も禁止しなければならない。そんなことは、それこそ一般論としてありえないであろう。道路は、利用者がそれぞれの目的に応じて、自分の運動能力に応じて利用できるものだからである。これを禁止したら、我々はベルトコンベア上の部品と同じになれと言われているようなものである。このことから、後者の意見は、「運動能力が極めて低いか、運動を放棄した者」の主張であると分かる。ここで、先ほど保留したこの問題の対象者は、この者たちであるといえる。二論にみえた主張は、「運動能力が極めて低いか、階段上で歩行したくない人にとって、歩行は危険だから止めて欲しい」という主張でいしかないである。

今、時代は弱者の意見に耳を傾ける社会に変化しつつある。パワハラやセクハラ、体罰の横行、育休者への攻撃など、過去問題視されなかったことが問題提起され、解消する社会的取り組みが進んでいる。これはつまり、「思いやり社会の実現」という人類に高度な品格を求める目標である。こうした中、「運動能力が極めて低いか、運動を放棄した者」も思いやり、彼らが安心して活動できるように整備するのは、当然の流れ、のように思えるかもしれない。しかし、この過程で忘れてはいけないのは、「強者が弱者に合わせるのは当然である。だって、弱者は強者には叶わないのだから。」という思考のみで、弱者都合で仕組みを提起することで、現実的な運用が出来なくなりうるということである。エスカレータ問題もその一例である。そうならないためには、強者と弱者を分けるだけでなく、それぞれが「何ができるか?」を議論し、「思いやり」行動のルールを定めなければならない。歩行者には、衝突しないように注意すること。非歩行者には、邪魔にならないように周囲に気を配ったり、衝撃にそなえること、である。こんなことは、そもそも人間の防衛本能や危機意識の観点からほぼ無意識に行われてきたことだが、歩きスマホやながら音楽が横行する昨今、この無意識も働かせることが出来なくなっている。エスカレータに乗っている者をみると、手すりにも掴まらず、スマホ操作や動画視聴している者が極めて多い。しかも、その者たちの荷物や衣服は、大きくはみ出し、歩行や乗り降りの妨げになっていることも多い。老人たちの中には、釣りや登山に行くのか、リュックから釣り竿や杖が飛び出していても平然としている間抜けが多い。弱者の方の思いやりが欠けている現状を仕組み作りの際に問題提起するのも忘れてはならない。それを言い出したらキリがないと言ってはならない。できることがあるのだから。。弱者はロボットではない。知性を備えた人間であるのだから。

まとめ

・エスカレータを設置しているインフラの多くは、現状、歩行もできるように設計している。

・エスカレータ問題は、「運動能力が極めて低いか、運動を放棄した者」の主張である。

・弱者の声に耳を傾ける社会風潮の中、上記の者たちに配慮した仕組み作りは正しい(とする)。

・しかし、弱者側の配慮も必要であり、弱者にできることも議論、提起しなければならない。

・つまり、弱者のための社会をつくるのではなく、皆が互いを常に思いやって自発的に行動する社会を作るのが正しいのである。

今年もよろしくお願いいたします

本年もよろしくお願いいたします。

新年早々、色々楽しんでいまして、新年のご挨拶が遅くなってしまいました。

この一月、15年ぶりにピアノを弾いてみたり、ランニングしたり、中国古代王朝の白書の訳を読んだり、ある建築士さんがYoutube上で提案する平屋の間取り動画を見て夢を膨らませたりして、心に栄養を送っていました。

お陰様で、ピアノ曲は簡単に編曲されたものですが、「ロミオとジュリエット」や「シュルブールの雨傘」を習得することができました。ランニングは既に毎週10~20kmを走ることができていて、身体がかなり絞れてきました。中国古代王朝( 後漢、魏、晋 )の歴史書から邪馬台国の位置を考え、自分なりの答えを導けるに至りました。平屋の間取り動画からは、建築物そのものへの魅力とともに、そこに住むであろう住人と、その姿を通じて、今後の日本の未来を考えてしまいました。物価上昇、賃金低下、サラリーマンと言う概念と献身労働の消滅、少子化( というより、子孫のことを考えた結婚をする人の減少 )、学校教育の多様化、国内名門大学の価値喪失、医療・不動産・電力・通信業界の暴挙、終活etc 。凡庸な私ですが、隙間時間に集中することで、心を癒しながら、これだけ学びや気づきができたわけです。

一月もあっという間に終わってしまいますが、今年も色んなことを考えながら、有益と思われるような情報を少しでも共有できたらと思います。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

本年もありがとうございました。

今年もあっという間に、12/31を迎えました。

年々、一年が短く感じます。

しかし、私のモノ作り欲や、知識欲は増す一方です。

学び、整理し、設計に活かし、同時に、知識を他に共有し活かせるようにする。

そんなことをし続けた一年でした。来年は、そうした活動がより増していくと思います。

話は変わりますが、私は、年末年始の雰囲気がとても嫌です。

正月だからと、無理して多品目の料理や酒を飲食する。

正月だからと、信仰心もないのに神社に行く。

正月だからと、無理やり休む。

正月だからと、だらだら宴を開き、身体を痛める。

のが、とても滑稽で、それに合わせることで私の心身が疲弊させられるからです。

動物たちをみて下さい。

彼らは、この世に生を受けてから、死ぬ日まで、特別の一日なんて、多分ないです。何故なら、一年の周期性を数字で管理する知能がないからです。彼らができるのは、毎日、この大宇宙の理に従って、目を覚まし、狩りをしたり、移動したり、ご飯を食べたり、子を作ったり、養ったり、そして眠たりを繰り返すのみです。彼らには、正月だからとか、お盆だからとか、そんなのはないのです。。

毎日、少しの米、少しの肉、多くの野菜、温かい汁を頂くことができれば、味覚も、栄養も満たされるので、食に関して、私は幸せです。

毎日、日本人が古来から崇拝してきた神道や仏教の神々に感謝の気持ちを捧げられれば、私の心は前向きでいられます(※)。神社やお寺、自然に触れることが出来れば、尚、幸せです。

※ 日本人の私が神道や仏教の神々を敬うことに違和感を感じる人は、戦後の宗教関連の事件報道に洗脳されすぎですので、日本国の歴史、天皇、その憲法での規定をもう一度勉強し、日本国民としてのご自身の在り方を再点検して頂いた方が良いと思います。

毎日、無理せず、社会貢献を想像しながら働いたり、修養したりすれば、心身が充実するので、正月だからと休む必要もありません。

以上により、心も、身体も充実させられるのに、何故、人々は、正月だからと、普段しないことを多くやるのであろうか?無理をすることで、新たな自分に生まれ変わろうとしているのであろうか?だとしたら、正月を満喫することは、堕落した自分に生まれ変わることなるのではないか??こんな恐らく無意味な問答を、私は12歳の頃からずっと患い続けています。

私は、別に、他人に私のようになれと言っているのではありません。正月だからと楽しみたい人は楽しめば良いと思います。しかし、それを強要されることで、心身の健康を害する私のような人がいることを理解して欲しいのです。私のような人が、無理をして大多数に合わせていることを理解して欲しいのです。さらに、多くの方には、私のような者たちを理解するために、知性と品格をもっと上昇させるべく努力してほしいと願っているのです。くだらないTV番組や宣伝、充実感すら得られるか微妙なゲーム、ダラダラした行動(宴会含む)、固定観念の積み重ねのみで語られる行動指針とその強要、、こんなことをする人が多い世の中であるうちは、まだまだ、私などが理解される時代も遠く、すなわち、弱者の声に耳を傾け、論理の積み重ねで答えを導ける時代も遠いと思うのです。

そんなことを思いながら、今年も正月を迎えようと思います。

一年間ありがとうございました。どうぞ、良い年をお迎えください。

鳥たちは、今日もいつもと変わらない日々を過ごしています。

彼らを観察していると、我々人間は大事なことを忘れていると思うのです。

電子辞書の未来って…

日本には、「電子辞書」という専門の機械がある。

シャープやカシオがこの業界をけん引してきた。かくいう私も、学生時代は大いに使わせてもらった。

特に、大学受験や語学の勉強に関しては、その利便性もさることながら、耐久性、長寿命と言う点でも感謝しかない。

そんな電子辞書であるが、大学院時代にアメリカに行ったり、社会人になって自分が電気製品の機構設計者になったりして感じたのは、この製品が、ほぼ日本でしか流行っていないガラパゴス商品であるということである。そして、近い未来、必ず消えるという時期は分からないが確実と思える予感であった。

話は変わるが、電車の中で見かける中高生たちの中には、一生懸命勉強している者が少なからずいる。彼らの勉強内容や方法をそれとなく観察するのが、実は私は好きなのだが、最近少し変わってきたと感じることがある。それは、タブレットで勉強をしているということである。しかも、分からない用語や現象は、辞書アプリやYoutubeで調べて勉強しているのである。私の時代の電子辞書が、アプリと無料動画に置き換わった訳である。一時期、「電子辞書の存在意義は、ネットが制約される教育現場での情報検索と、信頼性の高い情報にある。よって、電子辞書が消えることはない。」という考え方があったが、それが辞書アプリで補完された今、もはや、電子辞書の存在意義は消えたと考えるのが、一般的であろう。。。

話が長くなったが、今日は、電子辞書の新たな意義を私なりに考えてみたいと思う。

まず、そもそも辞書とは何のためにあるのか?どんな時に使うのか?から考える。

辞書とは、読んでいるときに分からない用語に直面したり、書いているときに正しく用語の文字や意味、使い方を思い出せないときに、調べるためのものである。

インターネットが定着した今日、読む物の多くは電子化された。その電子化された装置はインターネットとつながっており、直ぐに用語を調べられる。また、文章を書くときには、うる覚えの情報の読みだけでも打ち込めば、予測変換リストを表示してくれる。別に、打ち込まなくても類似した文字を書けば、やはり予測変換リストを表示してくれる。

さて、このように、電子辞書は、はやり検索ツールと言う点では、インターネットと連動した装置には勝てない。であるならば、徹底的に「専用機」となり、その情報の質と、使いやすさに磨きをかけるしかない。デジタルカメラが、スマホとの差別化を図るために、高級コンデジから一眼へシフトしたようにである。では、電子辞書でいえば、どうすれば情報の質を高め、使いやすさに磨きをかけられるであろうか???

◎情報の質を高める

 まず、情報のメモリへの保存はもうやめて、クラウドに保存管理するようにする。情報の管理場所をハードからクラウドにする技術的潮流はもう止められないのと、これに反することは情報からおいてかれることになるので、むしろいち早く受け入れ、整備する。特に、「クラウドコンピューティングとAI判断による情報の更新、情報の安全管理、耐久性」のある独自の仕組み(といっても、新基幹産業を支える巨大企業の枠組みに便乗する形であろうが…)を構築する。こうなると、将来の辞書は、「用語数」「情報信頼度」「更新頻度」「安全管理指数」「接続耐久度」などの総合指標を定義し、社会に配信し、信用を先手先手で獲得することになるであろうと私は思ったりしている。そして、「通常のネット検索より良質な情報ですよ!」ということを数値で示すのである。

◎ 使いやすさに磨きをかける

 次に、使いやすさであるが、、先ほどの現在のネット検索の在り方を考えたとき、三つの検索方法がに気が付くであろう。「コピー&ペースト」「打ち込み(フリック)」「書き込み」である。この中で、個人的に不快さを感じるのは、「打ち込み(フリック)」という動作である。そもそも、我々は「文字」を扱う生物である。しかし、その文字をコンピュータに読み込ませるために、わざわざキーボードの羅列を編み出し、それで操作している。今、我々が不便さを感じていないのは、単に、慣れ過ぎたからで、頭の中では変換作業が行われているわけだから、余計なエネルギーを浪費しているのは間違いない。つまり、用語の検索において、「打ち込み(フリック)」は、今のPCやタブレットとの互換性の観点からそうなっているだけで、、文字を調べるという点においては、一画、手間の多い作業なのである。したがって、もし、新しい電子辞書を作るのならば、「コピー&ペースト」と「書き込み」の作業性と検知精度を高めた物にするべきである。打ち込み表示や、フリックは不要である。取り除く勇気が必要である。下手にあると、タブレットとの差別化が「情報の質」だけになってしまう。コピペをするには、カメラと画像処理技術は必須であろう。また、書き込みについては、昨今の電子メモ帳のような多少ザラツキと弾性のある画面が理想であろう。その方が、文字を綺麗に書けるので、検知精度も上がるからである。

〈まとめ〉新しい電子辞書の姿

★ 情報は、ハードからクラウドを出所とする。

★ 情報に対する信頼性・安全管理・耐久性を定義して示し、一般のネット検索より優性であることを示すことで、用語検索の「専門機」とする

★ 検索の際の打ち込みやフリックは、「文字を調べる」と言う点において、実は一画余計な作業である。よって、この機能を勇気をもって削除し、カメラによる「コピー&ペースト」と、電子パッドのような「書き込み」の操作感に優れた仕様で、さらなる直感操作を実現し、用語検索の「専門機」とする

⇒ 以上から、全体サイズとしては今の電子辞書とほぼ同じくらいのA6、A7サイズ。「大画面とカメラ、タッチペン、及び、画面カバー」のついた外観になると予想している。直感性が増せば、子供や老人も簡単に使えるので意外にはやる気がしないでもない。というのも、彼らは、PCやタブレット操作を、今の働き世代が想像する以上に敬遠する傾向がある、、かといって、文字入力ができるアプリの立ち上げをする知恵を持ちえなかったり、それを教えても理解できなかったり、秒速で忘れる者が多かったりする。よって、こうした知能事情を背景に考えると、PCやタブレットすら使いこなせない人々が実はとても多く、彼らにとって優しい専門機を提供することの価値を感じずにはいられないのである。