デミセクシャル

デミセクシャルという人種がいる。

心のつながりを感じて、初めて恋愛感情や性欲を抱く嗜好らしい。

私は、この考えに大いに賛同する。

心のつながりを感じることなしに、何故、恋愛感情や性欲を持ち得るのであろうか??

最近、友人のすすめで、某結婚相談所に行った。

異性の顔リストがバーっとあって、そこから気になる方を選び、申し込む、、、相手がOKすれば、会話やデート開始というものであった。。。

※ 気になる…ここで言う気になるは、外見上の好みということである。

私もやってみて、幸いにもOKしてもらい、面会することになった。

会話は互いに大人であり、それなりの話術もあってか、穏やかな楽しい時間が流れた。その後のお誘いもあったが、お断りした。とても美しい方であったのが残念であったのだが、近いうちに相成れないと容易に予想できる精神的要素を感じてしまい、私の心は死んでしまったのだ。

その後、代理人を通じ、再度、その方が逆にアプローチしてきたが、やはり気持ちは変わらなかった。。

代理人のおばさんは、「心なんて一緒になれば、あっていくよ!相手の見た目がいいんだから、きっと楽しいよ!こんなチャンスないよ!ずっと一緒にいたいと思うようになるよ!変な話だけど、○○さんも風俗とか、出会い系とか、キャバクラとか行って、綺麗な子が出てくると恋しちゃいそうになるでしょ?今はまさにそういう状態なんですよ!」といった。

私は、風俗も、キャバクラも、出会い系も興味がないので、行ったこともない。だが、仮に今を時めく女優が「いきなり、君とSEXしてあげる」と言っても、見せかけの行為と生理現象を発することはできても、気持ちがのらず、辛い。なぜなら、この関係の不透明さと安心感のなさ、さらには恋愛のさらに先にある生物本来の本能的な種の保存に対する期待感、相互理解、共鳴が全くないからである。逆に、ここがあれば、私はその人のために、身を正し、その人に喜んでもらえるように努力するであろう。。。。

こうして、友人に紹介されたそのイベント会場を私は後にした。心はやはり空虚であった。

後日、友人に話すと、どうやら私のような嗜好の人は、デミセクシャルという人種らしい。

友人には、「お前は、馬鹿だな~。理想が高すぎなんじゃね?可愛ければ、デートしちゃばいいんだよ!」

私は、彼に問うた。

「君は、心のつながりもない人を深く、長く、愛せるのか?」

彼は答えた。

「一目ぼれとかよくするから、俺は少なくとも、短期的には愛せる。深く、長く続くかは知らない。」

彼は、あの代理人のおばさんと同じである。なるほど、確かに、愛情や性欲の嗜好が別である。

私は、既に結婚している友人に、

「じゃあ、お前は今の奥さんとは、どうだったの?」

と聞いた。すると、

「知り合いの紹介。初めは、恋愛感情なかったけど、趣味とか、考え方が似ていたし、互いに知り合いに悪いから、取り合えず一緒にデートを重ねていくうちに、恋愛感情が芽生えて、、、結婚した」

という。

( なんだよ、お前も俺と同じじゃねーか。違うのは、短期だけの不透明なつながりに身を任せようと思えるかどうかか… )

つまり、私のような真面目な人間は、遊ぶ気などないので、多分本当の意味で一目ぼれもしない。常に、一緒にいて穏やかに、共鳴しながら、成長していけるかどうかを見ているのである。多くの円満な既婚者も、恐らく、無意識に互いにそれを感じることができたからこそ、私の友人のように一緒になれ、互いを深く愛せるに至ったのだと思うのである。

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【本日の癒やし:望地弁財天】

弁天様は、仏教神の一人であり、その源流はヒンドゥー教の水の女神:サラヴァティーです。ヒンドゥー教では、学問・芸術を司る神でしたが、仏教を経て日本に伝来する中で、戦勝・福徳・金運といった意味あいが強くなり、信仰を集めるようになりました。

なお、インドの天才数学者ラマヌジャンは、サラヴァティーを崇拝していたそうです。。。この望地弁財天は、元々江ノ島にあった岩屋弁天様を移動させてきたものです。

横を流れる相模川のせせらぎと、横にある崖をつたって落ちる水音で、欲が流され、清々しい気持ちにさせてくれる、ありがたい神社です。

身近な自然 (相模川)

今週も、癒やしを求めて、相模川に行ってきました。中国の春節の影響なのか、中国人や東南アジア人が、河原に沢山いました。折角日本に来たのに、相模川で石拾い??などと思いながら、彼らも、まして、地元の人も足を伸ばさないような場所に行ってきました。

1.河岸段丘の中腹

昨年の秋に、私が発見したスポットです。相模川の透き通った水の流れ、そのせせらぎ、鳥のさえずり、風と木々のざわめき、温かい陽の光、虫の声…私にとっては、歌や楽器、賛美歌よりも心に響く、自然のオーケストラです。この場所が、長く維持されることを願ってやみません。

2.岩場

河岸段丘から、川岸まで降りられる梯子があって、それを使って降りると、素晴らしい景色が広がります。川のせせらぎと、滝と風の音、鳥や動物の声しかしません。心にへばりついた粘着油のような汚れやストレスが、その自然の音に一つ一つ耳を傾けることで、洗い流されるような感覚を得ます。

天然の水瓶という感じですね。湖面を漂う泡は、この水瓶の中に、植物プランクトンがいることを感じさせてくれます。

3.河岸段丘を対岸からみた風景

水の流れが石にぶつかり、バラケ、互いにぶつかり、また交わり、そしてまた…

孫氏は、兵の動きは水に象ると言いましたが、水のこの動きは私達の人生のような感じがします。

もちろん、障害もなく、何不自由なく生き、暮らし、裕福に人生を終える人もいるでしょうが、そんな人はごく僅かです。障害が多いのに、まっすぐな性分の私は、きっと、この水の流れでいえば、石ころだらけのところを流れる水なんだなと感じます。

でも、そんな水も、いずれは本流に合流する。。。

また、頑張ろうと思います。

速読の認知って?

速読って、どうやって内容を理解しているのだろう。

私は、理解とは、まず対象を言葉で表現し、記憶の中のその言葉と紐付いた文字、映像、感覚と照合し、一致、または類推することだと思っている。

文書を理解するとは、文字を文字で受け取り、先とおなじ照合を行う。そのため、文字を文字で受け取るステップを確実なものにする音読は、理解のために有効である気がする。

しかし、フラッシュ暗算、バラララとあたかもカードを切るようにページをめくって読書する人をみて、私は、この人達は、そうした理解の手順ではないと思わざるをえない。

本当に理解できているのか?はおいといて、仮に、理解できているとしてどうやっているのかを考えてみようと思う。

まず、視覚的に情報を入れ込むのは、一般的な読書も速読も同じである。

次に、理解の仕方だが、ここが大きく異なると思う。

一般的な読書は、前述のような感じである。つまり、

文字→言葉で強くインプット→記憶内の文字・映像・感覚と照合→発見・類推

である。

一方、速読は、我々が電車の車窓を楽しむように読書をするので、文字を、一度、言葉で理解する行程を挟んでいない。読む速度が速くなる極意がここにある。つまり、

文字→記憶内の映像・感覚と照合→発見・類推

である。

このことから、どうすれば速読できるようになるのか、いくつか仮説できる。例えば、下記のようなことである。

① 単語(文字)を意識してしっかり見る。( 強く脳内にインプットするため )

② 普段から、「単語(文字)を映像化(イメージ)する」訓練をする。

これは、文字と映像のリンクを強くし、文字をみたら無意識に映像が浮かんでいる状態を作るためである。なお、同じ単語に対する映像は、毎回同じような感じが良い。毎度毎度考えていたら、結局その考える行程で時間をロスし、従来と変わらないからである。「海」という文字をみたら「浜辺、青く、広大で、水平線まで広がる水と空」などの要素を備えた情景が毎度浮かべば良い。この要素が、多く、鮮明であればあるほどよいはずだ。それだけ、脳に強くインプットされている証拠だからだ。

③ 普段から、「単語(文字)を感覚(匂い、動作、在り方)で捉える」訓練をする。

これは、文字を映像化できないものの理解を早めるために行う。例えば、概念、定義、時間変化、音、匂い、味覚、食感などは、映像化が基本できない。文章は、こうした用語を多用することで、深みがます。速読本はよく、映像化に焦点を当てているが、正直、それだけでは内容を理解できていないと思われる。

⇒ ②と③をまとめると、文字を五感でイメージする訓練を普段からする。

例えば、「頬に手が触れる」という文章であれば、「頬」「手」「触れる」の映像だけでなく、「自分の頬に手が触れた」「自分の手が誰かの頬を押した」感覚をイメージしようとするのである。この感覚が、読書速度を速めるトリガーであると私は考えている。つまり、各単語を視覚映像以外の感覚でも無意識に捉えようとすることで、単語間の連結を日常の生活感覚で捉えられるようになるからである。こうなれば、単語間に視線を走らせるだけで、無意識に内容を捉えることが可能となる気がする。

④ 単語(文字)を目で注視する速度、単語間を目で移動する速度を鍛える

①~③に習熟すれば、後は、視線を早く動かせば動かすほど、無意識に内容を五感で理解しているので、速度が上がる気がする。

⑤ バラバラのものを意味のあるものに組み立てる訓練をする。

恐らく、そのうちに、一列、または一行づつでは遅く感じるときがくる。その時は、面で捉える必要がある。しかし、文章には、主語、述語、修飾語などのように、成り立ちに規則がある。そこで、面で捉えた情報を意味のある組に構成する訓練を行い、それを無意識に行えるようにしなければならない。つまり、バラバラに散った物を再構成する能力の訓練が必要である。パズル、文法の正しい組み合わせを作る問題 などが最適な気がする。

という具合に、①~⑤が訓練して身につけている人がいれば、確かに、速読は可能な気がする。しかし、その方は、豊かな知識、経験、知恵、鋭敏な感覚、感受性を持った方なのだと思う。

今日、この場で自分で考え、こうすれば出来るのでは?と思ったことを、ちょって試してみたいと思う。

もし、この記事を読んでくれている人がいて、実践して良くなった!などあれば、お気軽に連絡ください😄

では!

本日の癒やし:相模川水系中津川

七沢温泉

2020/1/18(土)。天気は、雨雪。神奈川県厚木市七沢にある、七沢温泉郷に行ってきた。もちろん一人で。目的は、温泉とセラドナイトという緑の石である。

世間では、センター試験初日で、七沢温泉に行くための最寄り駅(本厚木)には、沢山の受験生がいた。付属校専用の偏ったカリキュラムで受験勉強をする時間があまりなかった私は、勉強不足で試験に間に合わなかった非常に苦い経験がある。。。受験生の皆さんに、頑張ってください。。

本厚木の駅を降りて、北口をしばらく歩くと神奈中のバス停がある。その9番乗り場が、七沢温泉行きである。バス停は、駅前広場からは見えない。本厚木のイオンを目指せば、その横がバスターミナルである。一時間に一本から二本、七沢行きが出ている。

この日、寒かったのと、バス停が混んでいたので、私は、タクシーで行くことにした。身体を冷やすことと、人混みによる悪い気当たりを受けることは、人生において避けようと思っているので、この選択に迷いはなかった。

この日は、「七沢荘」というところに行こうと決めていたので、その名を告げ、目的地に向かった。タクシー料金は、3,080円であった。

【七沢荘】

https://nanasawasou.jp/about/

温泉は、強アルカリ性で、肌がツルツルになる。湯船に浸かっているだけで、その実感が湧く。鉱泉という感じのトロッとした湯質が何だか心地よく、小一時間も湯船に浸かって、日頃の疲れを癒やした。体の芯から温まり、そこかわ湧き上がるような活力が得られた!七沢温泉恐るべし。箱根よりいいかも!!

余談ですが、こういう裸になったときに、日頃如何に心体を鍛え、欲に溺れずに生きているかが露わになると思う。若くても腹が出ていたり、逆にガリガリなのは、日常の生活態度、言い換えれば、生き方が、あまり称賛できるものではないことを表してしまう。性器や胸の大小、体毛といった、sexシンボルよりも、私はそちらの方が気になってしまうのである。

※ ちなみに、sexシンボルについては、私はバランスが一番大事だと思う。というのも、バランスは、その生物の運動性能と対応しているので、不自然なものは、その生物の環境順応性が低いことを意味しているからである。例えば、身長が低いのにバストがD以上あると走ったりするのに支障をきたす。これでは外敵から逃げることできないので、この生物体は、自然環境下では生存しにくいであろう。よって、人間という生物の歴史でみれば、あまり良い特性ではないと考えられる。男性器の長さも同じであろう。ただし、男性の場合は、通常時の長さがそのときの体温や体調(精嚢内の精子量)、運動状態、心理状態で常に変動しており、それに対して勃起時は1.5~1.7倍になる。例えば、激しい運動や、戦闘のときは、長いと邪魔なので、より縮こまる。通常、8cmほどでも、3cmくらいになることもあるのではないだろうか??ギリシャ彫刻の男性裸体の男性器が皮をかぶって真性包茎のようになっているのも、恐らくそうした状態の表現なのだと思ったりしている。(下図参照)

有名なダビデ像

ダビデ像正面一部拡大

男湯

女湯

この七沢は、最近話題のゼロ磁場らしい。その表現の科学的根拠は分からないが、確かに、何だか身体が軽くなった気がする。肩こりもさっぱりとれた。

また、縄文時代の遺跡が大山からみつかっているように、古代よりこの地は大山信仰というのがある。その信仰の目的は、子孫繁栄・不老長寿でである。この温泉も、そうした信仰の祈願で訪れた人が、身体を癒やす目的で発展してきたのであろう。それを表すように、この地では、縄文時代の文化の一つで散見される、巨石、亀石、万物を円の流れと捉える考えが、見受けられる。非常に興味深い地である。

9つの列石(もっとも、これは最近作ったもの)を上図の順に巡ると、開運・不老長寿のパワーを得られる。私もやってみたが、1~9をやって、9~1をやるのを忘れてしまった。近いうちにまた行きたいから、そのときにやってみようと思う。

七沢温泉を後にして、元気いっぱいになった私は、近くにある、七沢川、日向川、玉川に向かった。目的は、セラドナイトという緑色の石である。玉川という名の川は全国にあるのだが、その由来は、勾玉に使う石がとれることにあるという。

セラドナイトは、マグマの熱と圧力で、石や岩が変形させられてできた変成岩の一種である。色は、緑色。淡い緑から濃い緑まで様々である。翡翠とよく似ているが、翡翠は固くて加工しにくいのに対し、セラドナイトは柔らかいので加工しやすい。

私は、以前からこのセラドナイトの美しさに心奪われ、足繁く相模川に通って収集してきた。しかし、どうも相模川本流ではセラドナイトに不純物が多く、折角加工しても茶色の斑点などが入り納得できない。そこで、古代より不純物のすくない純な物がよく取れる上記の3つの川に行きたかったのである!

その結果は、驚くべきものであった。河原に降りたら、純なセラドナイトばかりである!!!

玉川の河原の石:緑色の石が沢山あるのが分かるだろうか?

※ 先週、同じく相模川系の中津川にも行ったのだが、そこにもセラドナイトはあったのだが、これほど色が濃くなく、淡い緑であった。私は、濃い方が好きなので、こちらのほうが好き😄

まさに、宝の山である。最近、私はRYOBIのルーターを購入したので、早速持ち帰って、研磨してみようと思っている!

拾ってきたセラドナイト:この石は、乾燥すると色が薄くなる。逆に濡れると、深みのある緑色に変色する。こういった点は、翡翠よりも面白い。一つだけ、ピンクのやつがいた。こいつはこいつで可愛らしいから、拾ってきた。

今日は、そんな感じで、温泉に入り、セラドナイトを拾いながら、七沢温泉から本厚木まで歩いて帰った。途中、東農大辺りで迷子になりそうな気配があったが、不思議と感覚に従って歩いているうちに小田急線に合流し、無事、駅に到着した。

相模川水系では、セラドナイトは何処でもとれるので、興味を持った方は、是非取ってみたらどうでしょうか?きっと、自然の素晴らしい癒やし効果と、感動、多様な野生生物との出会いがあると思いますよ!おすすめです。

役員との対話

私の会社は、毎年、組織の構造改革を行っている、やばいところである。

従来は縦割りの組織であったが、3年前に横割りに切り替わった。色んな業務上の以降手段を経て、昨年から本格的に横割りになっている。

こにような記事を書くわけだから、現状どうなっているか?といえば、、、全く上手く行っていない。横割り型の組織とは、私の会社では、機能別組織を意味するわけだが、組織間の連携ができず、意思決定が遅れ、結局、従来の体制で物事を判断して製品を作っている始末である。

先日、この状況に焦りを感じた一人の役員が、平社員向けに意見回収の個別面談を実施してくれた。私は、現状を変えたいと常日頃思っていたので直ぐに応募し、面談をし、その役員に現状の課題を伝え、こうすれば改善することを意見具申した。

本日は、その内容を列挙したいとおもう。

みなさんも考えてみてほしい。

【現状課題】

・組織間の意思決定が遅い

・その解決法を「コミュニケーション不足」で片付けようとしている。

・責任者がいない

・プレーヤーに請負業務の禁止の徹底が求められ、責任が集中する

【私の見解】

・まず、組織の職務、職域を定義付けしましょう。こうしないと、各組織とその下の人員が、勝手に職務と職域を定義し、仕事をしなくなるからです。結果、全体に関わる設計職などに全てをやらせることになってしまうます。

組織感でかぶっている業務も必ずあるので、完全に定義するのは不可。抽象的に作り、議論して互いにかぶらない領域まで具体化し、定義化しましょう。

・次に、業務を束ねる責任者を立てましょう。言い換えれば、きちんと仕事をする管理職を立てましょう。こうしないと、全ての業務が担当に集中し、担当の判断が全てというおかしな状態になるからです。担当が行った内容を責任を持って判断し、より大きなゴールに導いてほしいものです。

・組織内、組織間の意思決定手法を定めましょう。例えば、複数の部署が関係する業務とその判断に関しては、「こうした方法で進められた業務と結果を、その責任者に対して説明し、このように承認されることで決定される」という具合に大枠を定め、事案ごとに個別に詳細を作っていくという具合です。こうすることで、「コミュニケーション不足」という言葉で片付けようとしている現状を、一歩推し進めた、仕組みが作れます。

・担当の請負業務の禁止に例外を定めましょう。担当が主体的に物事を考え、提案し、成し遂げていくのは良い姿です。しかし、業務日程が差し迫って担当の手に負えないと上長が判断したときや、会社の上意が新たに下った場合は、担当はそれを受けざるを得ません。この場合は、担当は、請負業務にならざるを得ないので、上意には従うが、方針に反することになってしまいます。日本の憲法と法律の関係のように、上意と業務方針にも力関係を明確にし、施行するべきと考えます。

皆さんは、どうおもうであろうか?