主体・客体、およびその前提

 先日、開発中の製品の試作品を、上役たちにレビューした。その際、製品コンセプトの確認と、それに基づいた設計思想を説明し、実際に触ってもらった。結果は、三者三様に思い付きのことを批評のみする状況であった。。

 彼らが談合し、最終承認し、発行したはずの企画書に記載の製品コンセプトすら、彼らの中でも何故か認識があっておらず、、当然、出来上がった試作品に対しても足並みが揃わない。。

 「この会社は、ヤバイな。。」と、改めて、改めて、強く、強く、認識した瞬間であった。。最近、他社に対しても同様のことを良く感じる。某自動車大手と仕事をしたときも、要求仕様がバラバラであったり、発言の撤回が二度三度行われたりした。取引先の某大手商社は、客の前で明らかな失態を担当と上司が喧嘩をする始末。。因みに、私は自分の信念として、「仏の顔も四度まで」「調査・確認依頼の回答期限は、標準一週間」「協力会社への指示は、①依頼メール、②電話、③依頼日から期限の間に二回の進捗確認連絡」をすることにしており、これが協力会社の方に対して決して過剰な要求を課しているとは思っていない。

 話がそれたが、私は別に承認欲求が強いわけではない。私は、組織で定めたと「考えの道」にそった正しい製品を作りたいだけなのである。しかし、現状は、皆で会話し、定めた組織の方向性が、モノができてからひっくり返されたり、その方向性に協力をお願いしていた人に裏切られてしまったりということが起こってしまっているのだ。。何故であろうか?

 デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」が、まぎれもない真実であると語った。これは、物事を、「考える自分(主体)と、それ以外(客体)を明確に分けて捉える」ということである。極めて強力な方法である。私は、最近まで、それを信じて疑わなかった。しかし、何度かみ砕いて説明しても理解できない者たちを前にして、デカルト的方法に抜けている要素があると思うようになった。それは、「前提」である。常識ともいえるかもしれない。

 当たり前の話だが、人間、十人十色である。それぞれが捉えている世界、考え方は、全く別なはずである。どんなに正しく言語を運用していても、各人の捉えている背景が違っていては、結論は大きく違ってくる。例えば、チューリップの花を見て、

人間:(図鑑にのっている)花をイメージする

蝶々:(蝶は可視光で物を捉えないので)花弁をイメージする(かもしれない…)

素粒子を観測できる超人:(世界全体が、空気までも素粒子なので花は)濃度の濃い固まり

という具合に、捉えるであろう。これは極端な話だが、もし、こうした捉え方のことなる者たちに、人間である私が、どんなに、「チューリップはこんな形をしていて、色をしていて、美しいんです!」と説明しても理解は得られない。前提が違い過ぎているからである。

ということで、話が長くなったが、人に説明をするときは、背景(前提、定義、常識)を丁寧に、深く準備をし、簡潔に説明し、その時点で確認を行うことが大事である。自分とある程度合っているかどうかが分かったらそのまま続けましょう。合っていなかったら、自分の前提がこうであり、その視点に立って説明を聞いて欲しい という具合に、理解と協力を求めましょう。

【本日の動画】:鶴見川水源