八王子城は、後北条氏三代目当主:北条氏康 の三男:北条氏照 の居城である。このお城は、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の中で、最も苛烈な攻撃を施され、落城させられたところである。小田原城に立てこもる城兵の戦意を喪失させることが目的とされている。
城は、夜間より大道寺、真田、前田、上杉などの名将達の率いる軍団が一気に攻めかかり、善戦空しく早朝に落城。悲しい逸話の残る場所である。江戸時代には幕府直轄地、明治以降は国有地になったため、発掘調査などはあまり進んでいない。
城の構造は、北条流の下記形式がよく見られる。
① 基本的に土の城
② 角ばった「馬出」 がある
③ 複雑に曲がりくねった「桝形虎口」がある
④ 根古屋式 ( 戦時の場所と平時の屋敷が別々 )
※ 馬出:門前の通路の先に作った小区画。
※ 虎口:門後の区画
個人的には、横浜の「小机城」や鎌倉の「玉縄城」もよく似ていると思います。
小机城
玉縄城
八王子城
JR高尾駅から歩いて20分くらいのところに、八王子城入口という交差点がある。そこを左折すると、いよいよ住宅街や霊園、お寺、畑などがみえてくるが、その街割りの形状からして、すでに城内と思われる。
道端に、案内図があったので、番号順に行くことにした。
[1] 宗閑寺
説明内にでてくる中山家は、小田原征伐後、徳川家康に高く買われ、水戸徳川家家老になった。
宗閑寺の鐘と井戸( 手漕ぎ式の井戸! )
[2]の北条氏照公 の お墓 は、少し脇道にそれるので、行かなった。
[3] ガイダンス施設でお手洗いをし、早速、城内に入る!
まずは、大手門へ!
※ 大手門:お城の最手前にくる門
[4]大手門跡
今はもう、林になっている。遠くにV字谷のようになっているのが確認できる。これは、「堀切」という、山を意図的に削り、堀のようにして、敵の侵入を防ぐ構造である。
[5] 古道 と [7]曳橋(ひきはし)
御主殿と呼ばれる、平時に政務をとるための御殿があった曲輪( 区画 )に行く。
[6] 御主殿の滝
これは、大手門から古道を歩くと経路的に行けません。御主殿の曲輪を見た後で、降りる箇所があったので、そこから行く。断崖の中に、小さな滝があり、澄み切った水で滝壺が満たされていた。ただ、上の説明板にあるように、ちょっと、まずい場所なので、直接の写真撮影は控えることにした。。
[7]曳橋を渡る
[9] 虎口の中
曳橋を渡ったところの防御区画である。北条流は、この虎口を長くとり、敵をこの狭く長い領域に長い期間引き付け、攻撃をする構造をよくとる。加えて、この勾配、、、結構、足腰に来るので要注意。
[8] 御主殿跡
大きな御殿が立っていたことが容易に想像できる。
[8]御主殿跡2
このような山の上に、上図のように水を張った庭園があるなんて、往時の繁栄を想わずにはいられない。
次からは、いよいよ戦闘時の曲輪に行く。一度、管理棟までもどって、金子曲輪を目指す。と、その前に、管理棟から御主殿に行く前に、立ち位置禁止の区画があった。先に紹介した絵図をみると、そこには、観音堂というものがあるそうな。
恐らく、観音堂のある曲輪に続く橋
同じく、観音堂のある曲輪に続く階段
ネットをみると、観音堂が今もあり、お坊さんなどが修行に来るとか書いてあるので問題なさそうなのだが、立ち入り禁止の理由が良く分からない。
[10]金子曲輪
細長い曲輪である。メインの道と、曲輪の側面に小さな小道がある。敵をメインロードに引き付けているうちに、小道から回り込んで挟撃する仕組みと私は思っている。
[10]金子曲輪より眺める東京の街。遠くに新宿が見える
[10] 金子曲輪から小宮曲輪直下の道に至る直線的な路
[11] 小宮曲輪
シャガ がいたるところに咲いている。何だか、物悲しい。
[11] 小宮曲輪
お堂が建っていますが、廃墟である。しかし、お堂の中には、誰が供えたのか、新品のお花がいけてあった。八王子城合戦に所縁のある方の信仰なのかもしれない。私も、供養の意味を込めて手を合わせてきました。
[12] 八王子神社
平安時代に京都の学僧:妙行(みょうこう)がこの山で修行していると、仏教の守護神:牛頭天王 と その后:頗梨采女( はりさいにょ )がその八人の子を伴って現れた。妙行が、「その子たちは?」と聞くと、牛頭天王が「八王子です」と答えた。以来、この牛頭天王と頗梨采女、八王子を奉ったのが、この八王子神社である。
明治以降、神仏分離令の中で、牛頭天王と頗梨采女、神道のスサノオとその姉天照の誓約(ウケイ)が同一のものと再解釈され、以後、この神社は、神道的には、スサノオと天照の誓約の儀で生まれた八人の神を奉っていることとなっている。
尚、この地域を八王子と命名したのは、先述の北条氏照である。
[12] 八王子神社内の舞台( 荒れている… )
[12] 八王子神社内 天狗様と本丸守将:横地堅物の慰霊碑
先の八王子神社本殿横の階段を上がっていくと、いよいよ本丸である。
[13] 本丸
小さな空間で、20人ほどの大人が入って、動き回ればちょうどよいという感じであった。
余談だが、私の先祖も北条氏照公に仕えていたという。この八王子城合戦が行われたときは、小田原城に入っていたので討ち死にせずに生きながらえたそうな。ただ、その後、一族の一派が仏門に入ったところを見ると、八王子城や山中城での悲惨な最期を遂げた親族・仲間を弔う必然性を強く感じさせられたように思えてならないのである。
本丸を後にして、少し下ると、東京の全貌を眺められる「松木曲輪」という区画に着く。
[14] 松木曲輪 からの眺望1
晴れた日は、富士、相模湾も見えるのだそうな。。。
[14] 松木曲輪からの眺望2
隣の山に変な建物があるな~と思って、光学20倍ズームで見てみると、、、高尾山の展望台(=毎年ビアガーデンやる場所)でした。霊山であり、修験の山でもある高尾山で、過去悲しい歴史があった八王子城と八王子神社を下に見て、本来は、お酒なんて飲む場所じゃないなと思わされた。襟を正し、生きていきたいと思う次第である。
[その他] 湧き水
お城の中には、時折、湧き水を見ることができる。山城なのに水が湧き出るというのは、本当に珍しい。
[その他] 綺麗に切られた石
八王子城は、土の城の多い北条流築城術において、珍しく石垣が使われている。先の虎口もそうだが、観音堂のある曲輪も石垣が確認できた。1590年以降昭和まで幕府と政府により直接管理されていたので、石垣の多くは自然の木々により崩れたり、埋もれてしまったりしているが、たまに、こうした明らかに作為的に切られた石を見つけることができる。
[その他] 春の虫( ジョウカイボン? )
[その他] シャガ
[その他] ???
[その他] 八王子城入口交差点から管理棟までの道路脇にタケノコが売ってた。。。
八王子城は、豊臣方の殲滅作戦がとられましたが、城内の数少ない兵の抗戦も凄まじく、攻め手だけで千人以上の死傷者が出たと言われている。しかし、数回の発掘調査では、いまだ、甲冑や遺骨などが見つかっていない。このことから、戦いの後に、徳川家が直轄化し、徹底した供養が施されたのではないかと私は思っているのである。