一般的に、男性が女性に、純潔であることを願うしょうもない妄想がある。
この考えは理想主義の一つである。女性が、心をたった一人の異性にのみ許すことが、迷いなき真実の愛とし、そして体を許すことで愛が深まり、新たな生命を得ることで愛がより育まれるという方向性の考えである。
数々の神話において、女神は夫を持つまでは純潔であることが多い。
時代小説も、メロドラマも、純潔は尊重される。主人公の女性が、その操(みさお)を守るために力に必死に抗い、力尽き、死を選ぶというような話もある。死を選ぶというのは、その人が、生きる価値の重きを純潔においていたことに他ならない。純潔を失うことは、神の意志に反する行為だと捉えていることに他ならない。
一方、男性の純潔、つまり、童貞であるが、、この点については、あまり尊さが強調されることはない。むしろ、男からも、女性からも嘲笑の対象とされることが多い。神話の世界では、むしろ男性神はやりたい放題である。全知全能の主神:ゼウスの行いを知った者は、どう思うであろうか?
私は、この「女性が純潔を守ることを正義とする在り方(=失うことを悪のように捉える在り方)」「男性が純潔であることを蔑む在り方」を、強く否定したい。
そして、純潔を失ったことを自分の価値の喪失のように捉えふさぎ込んでいる女性や、純潔であることに恥を感じて人生をあきらめている男性に、、、そんな心理状態は無意味であることを訴えたい。つまり、純潔の神聖性、、それは、「ない」と伝えたい。それを、自然界の動物と、古典、恋愛映画を例に、説明しようと思う。
まず、自然界である。自然界は、生きていくのが過酷な世界である。当然、子孫を残すことも大変である。例えば、鳥たちは、人で言えば雌雄ともに不倫が前提である。雄は、餌を取りに行くと思いきや、偶然出会った雌や、巣に一人でいる雌の所に行き、体の関係を迫る。そして、その雌も、その鳥世界固有の美観、フェロモンと照合し、それらが良ければ受け入れる。これが、鳥の世界の常識であり、正義であるのだ。ここには、純潔の神聖性などというのものは、ない。
そもそも純潔を喪失した先にある行為は、生殖である。生殖は、種の保存のための行為である。過酷な環境下に生きる野生動物たちには、純潔に価値を置いて手間取っていたら、種を残せない。これは、他の動物も基本的には同じである。見た目の美しい在り方を見ているだけでは分からない、真実がここにある。
次に、古典的な話である。「夜這い」という概念はご存知であろうか?男が、女性のいる寝所に忍び入り、合意の上、体の関係を持つというのものである。日本では、これは不貞行為とされながら、社会的には容認されてきた事実がある。江戸時代などの書物や神事でも、それを促す記述が散見される。神事においては、新月の日に祭を開催し、ある時間、全ての明かりが消える。その間、いかなる間柄でも情事にふけることは容認された。。という祭が、多摩地域にはある。もちろん、建前上は、夜這いは不貞行為であるから、発見されたら、男女共々、罰せられたり、責任を取らされるのは当然である。こうした話は、江戸時代ですら一般的であったことから、それ以前のまだ家制度や体制が整いつつあった時代ならば、より乱れていたと推察できる。平安時代の源氏物語を読むと分かるが、彼や彼女たちの頭の中に、純潔という概念を感じることは、あまりできない。
最後に、昨今の映画やドラマの恋愛表現をみると、、付き合うことの一部に、性行為があり、、そこには、純潔の神聖性なるものは、何も感じない。出会う男女のおかれる社会環境設定は違えど、結局は、美男美女が「知り合う→親しくなる→キス→性行為」を一つの盛り場として表現し、物語が推移していく。ここで、女神や天使たるヒロインが、最終回まで頑なに操を守るストーリーなど、昨今みたことがあるであろうか?少なくとも、50年代以降の時代を表現した映画やドラマを1000本弱みてきたが、結婚前の付き合っている男女が性行為をしないで最終回を迎えた話を私は知らない。西欧の映画では、白黒映画の時代は、キスの描写が肉体関係をもった合図であり、以降、その話ではその二人は強い絆で結ばれたことを表現している。ロミオとジュリエットも、、レ・ミゼラブルのコゼットも、、プラダを着た悪魔などは、彼氏がいながら、金持ちに身体を許す始末、、、話がビジネスという現実世界での葛藤と成長を描いているだけに、純潔という概念自体が絵空事であることを如実に感じさせられてしまう。
これに関係して、皆さんの周りのカップルたちを見てどう思うか?男子会、女子会が開催されれば、下の話は盛んではないか??これこそが、純潔の価値が妄想に過ぎないことの証明ではないか?
以上長くなったが、男女ともに、純潔に拘り、自分を蔑(さげ)すむことは、自然の在り方、人の歴史、周囲の感覚からみても、無意味なことだと私は思うのです。。長年自分がもった価値観を捨てるのは大変かもしれませんが、そこから一歩踏み出し、素敵な方と出会おうとすることが、正しいと思うのです。処女喪失?童貞?離婚?、、、そこに尊大な価値は不要です。もしそれによって神や悪魔の罰が下るならば、多くの動物達は天罰を受け、子孫を残すことが出来なくなるでしょう。生きる上で必然の出来事として、受け入れるのです。そう感じられると、素晴らしく思えますよ!
【本日の動画】鷺
この目、この体躯、、この動き、、本能的なギラつきを嫌というほど感じさせてくれます。何かの神聖性というのは、人間の知性が仰々しく作った概念なのです。肉体の一部の喪失に重要な価値を見出すのならば、歯の失うことにも同質の感覚を抱かなければおかしいです。しかし、歯にそこまでの価値を置く人は少ないことから、やはり、純潔は人の思い込みだと思うのです。。。