エスカレータ問題

最近、エスカレータの歩行を禁じる社会的風潮が強まっている。一部の地域では、条令で禁止をしているくらいだ。

しかし、現実的に、エスカレータの歩行を完全に禁止してしまうと、人の流れが乱れてしまう。だから、多くの地域やインフラでは、「明確な禁止」はせず、「注意を促す」にとどまっている。

例えば、駅。ホームに行くために、エスカレータしかない、または階段が補足的にしか供えられていない構造が多い。電車の乗り降りで急ぐ者が沢山いることを想定して、そうした構造が採用されているのである。もし、「エスカレータは立ち止まって乗る物」という前提で駅を作ったのならば、「エスカレータの輸送速度は、一般的な人間が急ぐときの速度と同等」であったり、「ホームに乗り降りする人の想定最大数が、次の電車が来る前にエスカレータで解消できる予想」が立っていたりしているはずである。しかし、健康な人が階段を上る速度とほぼ同じ速度の現状のエスカレータでは、このいずれも充足できない。よって、ホームの設計側は、エスカレータを「立ち止まって乗る前提の乗物として設置していない」としか考えられない。

ところで、エスカレータ上の歩行が危険であるという主張が強くなってきたのは、2020年代に入ってからだと感じている。強弁に禁止を主張する方々の多くは、ニュースや記事から老人が多いように感じる。彼らの訴えの理由は、「エスカレータは歩行する乗物じゃない」「歩行者がいると衝突して危険である」の二論に集約される。これにらについて考える。前者については、その地域やインフラでルールを定めていない限り断定できない。よって、そのルールを( 彼らが )示さない限り理由として成立しない。また、ルールを示さないで( 立ち止まるのが )常識と言う人もいるが、その点についてはやや都合の良い解釈をし過ぎな気がするので少し補足する。そもそもエスカレータは、電動移動階段である。階段が、自動で動いている物である。階段は、利用者の体力によって速く乗り降りしたり、遅く乗り降りしたりしてよいものである。階段は、人が通る路の一部であるからである。電動だからとこれを禁止するならば、空港の電動歩行路も歩行禁止になってしまう。よって、路である電動階段の歩行を厳禁として一般化することはおかしい。ここで、この路である階段について、利用の際の歩行を制限することに着目すると、主張者が口にできていない「誰か」にとって不都合があるからではないかと感じることがある。では、誰なのか?うすうす分かっているが、一端、後者についても考えてから結論する。というのも、一つの問題に対する主張が二つあり、問題に対して不都合をこうむる対象が一つの主張から判明しないのならば、もう一つをみることで理解できるとことがあると考えるからである。

さて、後者の論だが、これは「人と人の相対速度が大きくなると、衝突の危険が高まる」という主張であり、もっともらしい意見である。しかし、これ故に禁止というならば、公道での早歩き、ランニング、自転車運転も禁止しなければならない。そんなことは、それこそ一般論としてありえないであろう。道路は、利用者がそれぞれの目的に応じて、自分の運動能力に応じて利用できるものだからである。これを禁止したら、我々はベルトコンベア上の部品と同じになれと言われているようなものである。このことから、後者の意見は、「運動能力が極めて低いか、運動を放棄した者」の主張であると分かる。ここで、先ほど保留したこの問題の対象者は、この者たちであるといえる。二論にみえた主張は、「運動能力が極めて低いか、階段上で歩行したくない人にとって、歩行は危険だから止めて欲しい」という主張でいしかないである。

今、時代は弱者の意見に耳を傾ける社会に変化しつつある。パワハラやセクハラ、体罰の横行、育休者への攻撃など、過去問題視されなかったことが問題提起され、解消する社会的取り組みが進んでいる。これはつまり、「思いやり社会の実現」という人類に高度な品格を求める目標である。こうした中、「運動能力が極めて低いか、運動を放棄した者」も思いやり、彼らが安心して活動できるように整備するのは、当然の流れ、のように思えるかもしれない。しかし、この過程で忘れてはいけないのは、「強者が弱者に合わせるのは当然である。だって、弱者は強者には叶わないのだから。」という思考のみで、弱者都合で仕組みを提起することで、現実的な運用が出来なくなりうるということである。エスカレータ問題もその一例である。そうならないためには、強者と弱者を分けるだけでなく、それぞれが「何ができるか?」を議論し、「思いやり」行動のルールを定めなければならない。歩行者には、衝突しないように注意すること。非歩行者には、邪魔にならないように周囲に気を配ったり、衝撃にそなえること、である。こんなことは、そもそも人間の防衛本能や危機意識の観点からほぼ無意識に行われてきたことだが、歩きスマホやながら音楽が横行する昨今、この無意識も働かせることが出来なくなっている。エスカレータに乗っている者をみると、手すりにも掴まらず、スマホ操作や動画視聴している者が極めて多い。しかも、その者たちの荷物や衣服は、大きくはみ出し、歩行や乗り降りの妨げになっていることも多い。老人たちの中には、釣りや登山に行くのか、リュックから釣り竿や杖が飛び出していても平然としている間抜けが多い。弱者の方の思いやりが欠けている現状を仕組み作りの際に問題提起するのも忘れてはならない。それを言い出したらキリがないと言ってはならない。できることがあるのだから。。弱者はロボットではない。知性を備えた人間であるのだから。

まとめ

・エスカレータを設置しているインフラの多くは、現状、歩行もできるように設計している。

・エスカレータ問題は、「運動能力が極めて低いか、運動を放棄した者」の主張である。

・弱者の声に耳を傾ける社会風潮の中、上記の者たちに配慮した仕組み作りは正しい(とする)。

・しかし、弱者側の配慮も必要であり、弱者にできることも議論、提起しなければならない。

・つまり、弱者のための社会をつくるのではなく、皆が互いを常に思いやって自発的に行動する社会を作るのが正しいのである。

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