性的少数について理解しろといってもね…

体と心の性が違う人は、少数派である。

民主主義は、多数決の原理を採用する組織の意思決定の在り方である。しかし、民主主義は、少数意見を尊重するという理念も含む。この尊重というのは、配慮するということであって、絶対ではない。絶対にしてしまうと多数決をする意味がなくなるからである。この少数意見の尊重を、絶対的に守られるべきものととらえて声を荒げる少数派が極めて多いが、あなた方は、あくまでも穏やかに、そして社会に対して「お願いをする」立場であるのであるというのを忘れてはならない。

以上から、少数派は、大多数派にお願いをして、「自分たちの主張を全面的に勝ち取ること」を目指すのではなく、「妥協案・折衷案を得ること」を目指すべきなのである。この妥協案や折衷案を得ることすら拒否する輩は、精神的に幼い子供と同じなので、まず正しい知識教育によって自分たちの立場を教え、その上で再度議論することが必要となる。この手間すら許されない場合は、そうした方を、社会的に抹殺するか、無視・放置するしかない。なぜなら、民主主義体制を乱す要素にしかならないからである。害にしかならない要素は、取り除くか、時間が解決するのに任せるしかない。

ところで、公共施設や服装は、主に、体の性の違いに基づいて作られている。これは、体の性の違いによって、社会的に不合理が起こらないように「区別」するためのものである。この区別を差別として騒ぐ人がいないのは、刷り込み教育と、男女それぞれにとってそうあることが合理的かつ安全であるからである。お手洗いの入り口で、第三者からも分かるように、自分の体の性に合わせた空間を選ぶ行為は、本来は自分の体の性という情報を外に表現することなので、恥ずかしい行為である。もし、これらに精神的反発を覚える者がいるのならば、お手洗いなどの公共施設の入り口に壁を立て、壁の内側でどちらを選択するかが、外から見えないようにするなどの配慮が必要であろう。

さて、話を戻してジェンダーレスの人たちの扱い方について考えてみる。彼らを扱うときに何が困るかというと、一つは、「心の性別が外見からは分からないこと」である。もう一つは、「心と体の性が異なる人が、心の性のままに設備を使うこと」である。

一つ目がなぜ問題かというと、少数派の人を外見から区別できないからである。そしてそれによって、二つ目の問題がおき、大多数の人の設備の安全な利用が脅かされるからである。例えば、心と体が女性の方が女性用のお手洗いを使うときに、どうみてもオネエの方( 心は女性、体は男性 )が入ってきたとする。このとき、騒ぐであろう。なぜか?それは、自分の女性の体が脅威に晒される可能性を感じるからである。オネエといっても、体には男性器がある(かもしれず)、したがって男性ホルモンの働きによる筋力的強さと、女性を妊娠させる生殖機能を備えている(かもしれない)。いわゆる戦闘力を察知するので、騒ぐのである。ちなみに、この逆の場合は、当事者が身の危険を感じて、女性トイレを使うことで自然と落ち着く気がしている。狼の群れに自分から入る羊がいないのと同じだからである。

では、本題だが、彼らを扱うときに、まず、絶対に確保しなければならないのは、民主主義の原則である、大多数の意見、今回の場合は、心と体の性が一致した者たちが使う設備の安全である。ここに、心と体が不一致の者が入ってこないようにしなければならない。これが基本である。したがって、ジェンダーレスの人用の設備を新たに増設するのが合理的である。こうすれば、「心は女性で体は男性」が、女性用トイレに入ってくる心配はない。女性の安全が守られる。逆の場合も、男たちが変に気をつかうこともなく、当事者の安全もいったん守られる。次に、ジェンダーレスの人たちのトイレの構造についてであるが、厳密には、体の構造別に設備を分けなければならない。やはり、体の構造別に備えておく設備が異なるからである。また、ジェンダーレスの設備を、そうでない者が使って、本来使うべき人が被害を受けるリスクを軽減させることにもなるからである。例えば、心は男性で体は女性の方の設備を、全ての体が男性の人が使える状態になっていたら、本来の使用者は不届き者の餌食になる犯罪が大いに予想できる。よって、設備はしっかり分ける必要があるのである。これらの設備の区別を予算の都合上やらないとするならば、従来通り、ジェンダーレスの方には公共のお手洗いを利用するときは「心を殺して、体の性にあった方の利用」を民意に基づく権力を行使して指示しなければならない。この際、間違っても「補償」などはしてはならない。補償目当ての不届き者が増大するからである。こうした毅然とした在り方が、本来の法治国家であり、我々が縛られるべきものである。

図1. トランスの方々のためのトイレの在り方案

物作りの企画時にやりがちな、困った一つの要求

 企業や研究機関における物作りは、まずその製品の要求事項(仕様)を定めることから始まる。これを企画という。それを行う部隊は、多くの場合「企画部」と呼ばれる。企画部は、次期新製品に求める事項を要求仕様書にまとめる。その際に、実際の販売現場で活動する営業部の声やお客様の声をヒアリングしたり、自分たちが想定している(=仮説した)使い方に社会的需要があるかを統計的に調査分析したりして、戦略目標に貢献できる仕様を定めていく。本日は、こうした要求仕様の中で、開発の観点から極めて問題視するべき一つの要求事項について述べたいと思う。

 早速だが、企画部が出す困った一つの要求とは、「最小」である。

 新製品の仕様に最小サイズという要求が出された場合、多くのエンジニアは、下記のアプローチをとる。まず製品の機能発現のために必須の要素部品を開発、または選定を行う。次に、その要素部品の組み合わせを、「冷却・EMI・エンクロージャといった機能維持のための必須部品の開発や選定、及び必要な空間」を考えながら行う。そして、最後に余分な空間を削り出し、これをもって実現可能な最小サイズという。ところが、こうしてエンジニアが割り出した最小サイズは、どんなに上手くやっても、企画要求サイズの1.2~2倍程度になってしまう。なぜなら、必ず機能を満たすために、理論上の余裕を持った設計をせざるを得ないからである。そして、これは多くの場合、企画部に許容されない。そこで、エンジニアは、「必須要素部品の開発や選定の見直し」「その組み合わせの見直し」を行う。しかし、この見直しでサイズが大々的に変わることは基本的にありえない。というのも、すでに一番初めの見積もりの時点で、各要素部品は、無理なくできる最小開発・選定をされているからである。よって、これ以上のことが必要な場合は、確実に、無理しないとできないことを意味している。無理をした設計は、強度、機能発現、機能維持のいずれかの観点で、必ず問題を抱えることになる。そしてそうした問題を、「付け焼刃の構造対策や、ソフト仕様での対策」で社内処理し、必然性のあまりない締め切り内で出来るだけの改善を試み、それをもって「開発期限内に最善を尽くした形態」が定義され、世の中に製品が送り出されるのである。しかし、こうした無理な製品は出荷後に不具合が多発するので、設計部や品質保証部は度重なる市場問題対応に追われ開発体力を奪われていく。また、こうした製品は非常に繊細な製品になりがちで、その性能を出せる環境が特殊になることが多く、それが市場クレームにつながる。こうした中、営業部は数字と接待に追われて製品理解は上の空、企画部は企画書を発布した時点で次なる要求書をまとめ始め、技術限界と開発体力の消耗は眼中になし。新たな要求書には、新規機能の追加と、最小要求がもれなく記載されており、それを実現する技術的選択肢がなく、開発は暗礁に乗り上げるのである。

 確かに、高い要求に対してエンジニアが試行錯誤することで技術が促進するのは事実であるが、それは研究の場合に許されることである。日程が差し迫った開発の場合は、できる技術の集積で、堅実な製品を作ることしかできないのである。なぜなら、お客様の安全が第一だからである。無理をして意図しない死傷事故をおこしてはならないからである。こういうと、「高い要求を満たす製品を出さないと、我が社は死ぬんだ!研究しつつそれを開発に盛り込め!」という人が多いが、それをやって成功しないことは歴史が教えてくれている。第二次大戦時の日本の戦闘機開発などはその良い例である( 後で一例を述べる )。もし、どうしてもというのであれば、「要求事項を分割し、限定した仕様を無理なく実現させ、互いに弱点を補うラインナップを揃える。同時に、研究班を作り、要素研究を進める」を提言したい。例えば、「A,B,C という機能をもった世界最小製品」が今の技術ではできない場合、「A,Bという機能の世界最小製品」「B,Cという機能の世界最小製品」などを検討し、堅実にできるなら量産化し、その開発期間中に「A,B,Cという機能を同時に目標最小サイズに実装できる技術研究を行う」のである。それも許容されないなら、もうその事業は閉じるべきである。なぜなら、エンジニアが死ぬや去るからである。

さて、話がそれたが、最小要求が問題である理由を、ここで一度まとめて、具体例を示したいと思う。

【最小要求が問題である理由まとめ】:繊細な製品ができ、問題が多発し、開発体力を消耗させるから

 最小要求が出された時点で、エンジニアは無理なく(=堅実に)できる要素選定と開発を行い、その組み合わせから実現可能な最小製品サイズを回答する。しかし、それらは企画要求よりも大きくなることが多く、それが譲歩されない場合は無理をした設計を余儀なくされる。その結果、強度・機能発現・機能維持の観点で重要な問題を抱えた繊細な製品ができる。これにより、量産後の市場問題対応で開発体力が削がれつつ、企画からの次期製品の要求に対して開発余裕がなく事業が息切れを起こすのである。

 こうした小型化によって繊細な製品が作られ、問題が多発し、開発体力が消耗して敗北した例を述べる。比較的有名なのは、第二次世界大戦時の日本の戦闘機開発であろう。主力艦上戦闘機:零戦 は、開発要求されたときから、あらゆる点で他を凌駕しうる万能戦闘機たることが要求され、妥協は基本的にゆるされず、(三菱重工の技術を結集させて) 困難を無理やり形にしたものであった。艦上戦闘機であるために小さく軽くある必要があり、( 勝つために )他より速く、旋回性能に優れ、長大な航続力を備えることが要求された。結果、防弾消火装備の削除と、部材の限定的安全率の引き下げと、肉抜きによる徹底した軽量化が施され、何とか要求を実現させた。しかし、これらにより、強度的な問題とその対応に三菱は追われることになり、また余裕のない設計のために、敵国の新型機に対応するための性能向上のための改良設計が追い付かなかったり、新型機の設計体力がなかったり、防弾装備がないことによる操縦士の戦死の増加を招いたりした。これは、( 戦略戦術的位置づけは違えど )同時期のイギリスのスピットファイア、ドイツのBf109にも同じことがいえる。一方、アメリカのF6F、P-47、ドイツのFw190は、機銃を容易に通さぬ頑丈な装甲を備え、荒れ地でも運用ができる堅実な設計で作られていた。そのため、確かに、空力的洗練や、軽量性、旋回性能や航続力といった要素は日本機ほどではなくとも、堅実堅牢な設計ゆえに改良設計や機能追加を施す余地があり、結果的にいずれも大幅な性能向上がなされて弱点をほぼ克服し、大戦全般にわたり運用され続けた。当時の欧米は、大馬力エンジンと多段過給機の製造技術が優れており、その時点で速度と高高度性能で日本機に勝っていたので、日本機が勝機を見出すには、戦略戦術上の理由に加え、小型な機体設計で無理をせざるをえなかったのであろう。しかし、その小型設計によって得られた優位性も、堅実な設計の改良によりなくなってしまっては、完全に技術力の敗北と言わざるを得ない。

 以上、無理な要求による、無理な小型軽量設計が招いた残念な結果を述べた。こうした失敗例は、過去の電卓競争、携帯電話開発競争、ノートパソコン開発競争でもみられたものである。では、こうした失敗をしないためには、これからの企画はどうすればよいのであろうかを述べたいと思う。

 結論から言うと、特定の戦略事情を除き、「最小を小形にとどめ、堅実な要求にまとめる」べきである。少し補足すると、「最小を製品のウリにしない」ということである。最小といった瞬間に、前述の課題が起こり、良いことは無いからである。また、人は物の大きさとそれができることに順応した使い方を見出せる知性があるので、ある時に世界最小であることはあまり人の心に響く要素ではない。その世代を俯瞰してみたとき、ある程度小さいことが伝われば十分である。家電や通信機をみて、10mm,20mmの大小であなたのQOLが大きく変わると思いますか? それよりも、「別の機能や特性、使い方をウリとし、堅実な設計により不具合を少なく、また環境耐性を高め、開発体力の消耗を抑えつつお客様の信頼を得る。さらに、機能追加や補強がしやすくて後継機開発に着手しやすいものを作る。そして、要素部品の技術革新が起こった時に、それに応じて製品を小さく構想する。」をした方が、懸命ではなかろうか。例えば、カシオのG-shockはサイズが大きいが堅牢なために安心して使えるのが魅力である。小ささではないところに価値を置き、無理のない設計をした良い成功例に感じる。一方、同社のDPJは最小設計に拘りを感じるし、その出来はスペック上の数値が本当なら他社を圧倒的に凌駕する性能(ex. A5サイズで2000ANSIルーメンなど )であるが、この製品種の使用箇所を考えるに、小さいことに必要性や利点を全く感じない。もし、この会社の企画部が、さらなる小型化を目論んでいるとしたら、既に到達しているであろう技術限界のために設計者が去るので事業は潰れるであろう。是非、最小ではないところに価値を置く、G-shockのような企画がなされることを願ってやまない。なお、特定の戦略事情といったが、これは、後継機の開発を予定しない、一品物を作って市場を刺激する場合の話である。こうした物は、必然的に客寄せパンダとする必要があるので、尖った製品であってよい。ただ、その結果、冗長性がなかったり、何か不具合があったりという繊細な製品が殆どなので、私は、前述したように「要求の限定化を行った最小製品」と「互いに弱点を補えるラインナップ」を堅実な設計で実現しつつ、別途「本来の要求を満たせる技術研究を行う」ことをおススメしたい。

以上、製品開発における最小要求が問題であることの理由と一つの参考例、および最小要求の代わりにするべき要求について、私見を述べた。

最近身近でよく見かける生き物

9月に入り、夜はやっと30℃を下回るような気候になってきました。

東京、神奈川では、蝉の声も一気に少なくなりました。ただ、日中は相変わらずの暑さです。熱中症には注意したいところです。あと、コロナにも。。。

ところで、最近、家でも、会社でも、よく見かける生き物がいるので、今日はそれを紹介したいと思います。まずは写真から、、、

この写真は、先週の夜8:00に仕事を終えて退社するときに、会社の壁に貼り付いていた奴です。私が子供の頃からしばしば目にしてきたトカゲよりはプックリしている奴です。こいつが、会社の広い壁に結構へばりついていたのです。因みに、私の自宅でもこの小さい奴がたまに出没します。。。

調べると、これは「日本ヤモリ」という日本原生種だそうです。北海道と九州の一部を除いて国内に広く生息している生き物だそうです。でも、こんなに沢山いるとは思いませんでした。。。それよりもなによりも、三十数年生きてきて、こんな身近に、こんな生物がいることに気が付かなかったことに、とても驚かされました。精神状態や意識が少しだけ変わったのだろうか。。。

話は少し変わりますが、ヤモリは、漢字で書くと「家守」だそうです。

古来より、火事などの厄災を防ぐ、つまり家を守ってくれる存在として崇められてきた生き物だそうです。また、家を守る、つまり、家を繁栄させるという解釈から、財運や良縁、子孫繁栄の吉兆を示す生き物としてやはり大切にされてきたそうです。さらに、家の内外にいる蟻や蜘蛛、ダニ、コバエなど野害虫を食べてくれるので、とても良い奴だそうです。ということで、最近のこの発見を吉兆として、これから起こることを楽しみたいと思います🤗

都内にもいたるところに出没するそうなので、皆さんも夜、塀や壁をよーーーく見てみてください。きっと、体長10cm前後の日本ヤモリが、壁にピトンッ!と貼り付いているのに気が付くと思います!

ではでは!

「幸せは見せびらかさない方が良い」という話

幸せを多くの人に報告する人がいます。

彼や彼女たちは悪気がないのでしょうが、その報告という行動の意味をもう少し考えてやった方が良いと思います。

そもそも、報告は、目的も無しに行うことではありません。

報告するということは、意味があります。例えば、上司に報告するのは、業務の進捗を伝え、必要に応じて指示を仰ぐためである。友人に近状を報告するのは、友人としての関わり方の変化を促すためである。後者について、もう少し補足する。例えば、旅行に行った写真を共有したとする。それは、「自分が元気であること、充実していること、そういった場所が好きであること、そこに行った経験を持った人であること」を友人に教え、友人の中でのイメージを更新する行いといえる。

さて、ここで本日のつぶやきの本題であるが、こうした報告において、特に友人への報告においてあまりやらない方が良いことを述べる。それは、「幸せ」の報告である。

人は、十分に精神的に成熟した人でない限り、欲望を捨て去ることはできない。欲は自分と他人の比較によって明確になり、人の心の中で増長する。この欲が増長した在り方を「嫉妬」という。ここに他人の幸せの報告がくると嫉妬はさらに大きくなり、それが過剰になると「怨嗟」「呪い」になる。心が呪いの感情に支配された人は、対象者の幸せを破壊したり、怨念によって呪ったりする。特に後者は、現在の法で裁けないが、効果がある可能性があるので、極めて危険である。何故効果があると思うかについては、ここでは述べない。とにかく、幸せ報告は、こうした他人からの攻撃の引き金になることを忘れてはならない。

でも、そうはいっても友人には近状を報告したいという人はいるであろう。そういう時は、どうすればよいのであろうか?それは、極力目立たぬように、あっさりと、報告するのである。例えば、次の三つである。

1.文章のみで、簡潔に終わらす。

 (注意)写真や長文は載せてはならない。

     幸せが明確に深く共有されるからである。

  例)「結婚しました」「子供が生まれました」以上という具合

2.報告するレベルの幸せを経験済の人生の先輩たちに限定して、共有する。

  きっと心から祝福してくれるでしょう。

  同時に、建設的な助言をしてもらえるであろう。

3.友人関係を整理し、限定的に報告する。

  これも次の人生のステージへ行くために必要なことです。

  友人も所詮は他人。いつまでもあの頃のままではないのです。

  集約整理する姿勢は必須。

ここで、2と3については、報告していない友人がいるじゃないか!と思われるかもしれませんが、それでよいのです。あなたがどんなに昔の友人たちに近状を報告しても、その友人たちの多くにとって、あなたの現状はどうでもよい内容です。なぜなら、もう直接関わりがないからです。また、あなたにとっても、ごく限られた少数の友人たちを除き、現在の生活で関わることはないので、そんな関わりの薄い人に報告しても得られることは何もないからです。つまり、Facebookなどで不特定多数の知り合いに報告をすることは、有益なことは少ないのです。むしろ、必要のない嫉妬や呪いといった不利益を被る可能性を高める行動なわけです。

私事ですが、数年前、Facebookで年齢不相応な恰好で自分の誕生日を報告している友人がいました。その方は、かつて、いつも周りには大勢の友人が集まり、自信に溢れ、輝いている人気者でしたが、ちょっとした失敗がありその後が分からないでいました。しかし、久々に登場した姿をみて、その陰り具合に背筋が寒くなったのを思い出します。本人の輝きが、自分の人気に胡坐(あぐら)をかき努力を怠っているように他人にうつったり、人気故に無意識に人を見下ししているようにうつったりして、妬まれたり、呪われたりしたのではないかとも、私は感じてしまいました。知らなければよかったとも思えました。幸せは、無理に報告する必要はないと思うのです。

外気温の捉え方に注意しましょう

お久しぶりです。

最近、仕事や肉体改造に集中していて、ブログに手をつけられませんでした。

さて本日ですが、「外気温」の捉え方について少し注意したいことがあり、記事にしました。

一般的に示される外気温は、「風通しの良い、日陰の、地上から1.5mの高さの温度」です。小学校のときに外にあった、百葉箱がそれです。

さて、皆さんは炎天下の中で、日陰の涼しさに救われたことは多々あるでしょう。テレビやネットで目にする温度というのは、こういった場所の温度なのです。

そうです。日向の温度は、テレビやネットで目にする外気温よりもずっと高いのです。

一説には、日向と日陰の温度の差は、約15℃です。

ということで、例えば、ある日の外気温が30℃と言われる日の日向の温度は、45℃になるわけです。

もっとも、実際は、湿度や風の影響、および日向の滞在時間の影響でそのように暑く感じることはありません。

「日向の温度は、テレビやネットで目にする温度よりも15℃ほど高い可能性がある」

これを覚えて、日中にどう行動するべきかを考えられたらと思います。