5月写真

毎度、色々な写真を撮っております。

良い土地には植物が元気に育ってくれます。そして、それを見たり、触れたりすることで、人も元気になれます。元気になる指標としては、植物に手をかざし、鼻から息を吸い、胸呼吸をしてみてください。とても楽に呼吸できますよ!

( ↑ これ最近の気づきです。人、写真、神社、絵、植物、風景をみたり、ふれたりするとき、この呼吸法で苦しくなるものと、楽になるものがあります。きっと、これがフィーリングという感覚の一種なのかもしれません。苦しくなるものには、近づかないようにしようと思ってます)

5月初頭 実家紫陽花

5月末 実家紫陽花

5月末 実家紫陽花

5月末 実家紫陽花 と テントウムシ幼虫

ドクダミ( 薬草としての効能があるありがたい野草 )

アロマティカス( 昨年地に下したら夏の終わりに枯れた。。。一年草だと思っていたら、また生えてきた!庭が凄いアロマ臭で溢れている)

ああ、綺麗だ~

くらくらしてくる・・

こういう、主役にはなれないけど頑張っているモノを、私はとても愛おしく思います。

ツツジって、こんなに花凄かったっけ?

あと、この前、立身出世にご利益があるということで、高麗神社に行ってきました!

この神社の宮司さんは、高麗(コマ)さんです。西暦668年に朝鮮半島の高句麗国が、唐・新羅の連合軍に滅ぼされました。このとき、高句麗国の難民が日本にやってきました。その中に、高句麗王族の一人であった、高麗王若光もいました。712年に朝廷の命で、1799人の高句麗人を武蔵国に住まわせ、そこを高麗郡と名付けました。高麗王若光は、この地の郡司に任ぜられ、開発に貢献し、没しました。その後、若光は、民衆に神として奉られ、高麗神社ができたとのことです。以来、若光の子孫が、高麗氏を名乗り、代々、この神社を守ってきました。

高麗家の旧館

神社には、毎年、政治家、著名人、出世を願う社会人、皇室の方(現上皇様など)もお忍びで参拝されるそうです。

高句麗国は、中国から朝鮮半島までを部分的に700年間治めていた騎馬民族の国です。高麗一族の血は、少なくとも2051年(=2019-668+700)は続いていると考えられます。上皇様がこられたのも、皇室の歴史に匹敵するくらい長い歴史のある一族への敬意からなのかもしれません。

JR高麗川駅から歩いて15分ほどです。

相模國一之宮 寒川神社

 今日は、神奈川県( 相模國 )の一之宮 寒川神社 に参拝してきました。国内唯一の「八方除の守護神」ということで、あらゆる厄災から守り、国家の平安と一族の繁栄を祈願してきました。

場所:JR相模線 「宮山駅」徒歩5分

祭神:寒川比古命・寒川比女命

一の鳥居

一の鳥居( 正面から )

参道

寒川神社の由緒

1,600年前の雄略天皇(21代天皇)の時代には既に地元の信仰を集めていたそうです。この辺りは、有鹿神社もそうですが、御祭神が、天照系とは異なる、地元神が多いです。縄文時代や弥生時代からこの地で崇められていた神様たちかもしれません。長い歴史に心打たれました。

手と口を注ぎましょう…

本殿へ…

本殿 

本殿の造りは、昨日の亀ケ池八幡宮と同じでした。とても、重厚で優美です。

八方除を占う道具( 方位盤と渾天儀 )

道具の説明

あと、境内には、我が国の国歌「君が代」の中で表現される「さざれ石」がありました。

さざれ石

さざれ石説明

御朱印もGETしました!

 心がすっきりしました。尚、帰り際、寒川神社のすぐ横に、ひっそりと建っていた「宮山神社」にも参拝してきました。その厳かな雰囲気からして、普通の神社ではないと感じたからです。

宮山神社

宮山神社

 社殿が島のようになっていて、島の周りに水がはられている。まさに、神域という雰囲気が凄いです。

宮山神社説明

御祭神名

・大物主神

・スサノオ神

・武御雷神

・大雀命

・聖神

・宇迦之御魂命

・伊邪那岐命

・伊邪那美命

上記の神々様の名前を見ればわかるように、大変にパワーにあふれた神社であることが分かります。寒川神社に行かれる際は、是非、宮山神社にも参拝することをお勧めします。

この調子で、相模國の一之宮から五之宮まで行ってみようかな…

一之宮:寒川神社

二之宮:川匂神社

三之宮:比比多神社

四之宮:前鳥神社

五之宮:有鹿神社

( 有鹿は、寒川神社より古いらしい。奥宮は、近くの縄文時代の遺跡の中にある… )

亀ヶ池八幡宮

 相模原市にある亀ヶ池八幡宮に行ってきました。1214年建立ということです。御祭神は、 宇迦之御魂大神( ウカノミタマノオオカミ ) 様 です。 商売繁盛、五穀豊穣、家運隆昌 など、地元では大変な信仰を集めている由緒ある神社です。

神社入口( 一の鳥居 )

二の鳥居 ( 御神木 )

本殿

案内板

亀ヶ池稲荷神社

亀ヶ池稲荷神社

大黒天神

毘沙門天神

布袋神

弁財天神

寿老神

えびす神

福禄寿神

右から三嶋神社、淡嶋神社、子安社

といった感じでした。尚、本殿で参拝を終えて帰るとき、凄く大きなカラスが本殿の屋根にやってきたので、写真におさめました。

何だか、神様に願いだけでも聞いてもらえた気がして、心が健やかになりました。

八王子城

 八王子城は、後北条氏三代目当主:北条氏康 の三男:北条氏照 の居城である。このお城は、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の中で、最も苛烈な攻撃を施され、落城させられたところである。小田原城に立てこもる城兵の戦意を喪失させることが目的とされている。

 城は、夜間より大道寺、真田、前田、上杉などの名将達の率いる軍団が一気に攻めかかり、善戦空しく早朝に落城。悲しい逸話の残る場所である。江戸時代には幕府直轄地、明治以降は国有地になったため、発掘調査などはあまり進んでいない。

 城の構造は、北条流の下記形式がよく見られる。

 ① 基本的に土の城 

 ② 角ばった「馬出」 がある

 ③ 複雑に曲がりくねった「桝形虎口」がある

 ④ 根古屋式 ( 戦時の場所と平時の屋敷が別々 )

※ 馬出:門前の通路の先に作った小区画。

※ 虎口:門後の区画

個人的には、横浜の「小机城」や鎌倉の「玉縄城」もよく似ていると思います。

小机城

玉縄城

八王子城

JR高尾駅から歩いて20分くらいのところに、八王子城入口という交差点がある。そこを左折すると、いよいよ住宅街や霊園、お寺、畑などがみえてくるが、その街割りの形状からして、すでに城内と思われる。

 道端に、案内図があったので、番号順に行くことにした。

[1] 宗閑寺

 説明内にでてくる中山家は、小田原征伐後、徳川家康に高く買われ、水戸徳川家家老になった。

宗閑寺の鐘と井戸( 手漕ぎ式の井戸! )

[2]の北条氏照公 の お墓 は、少し脇道にそれるので、行かなった。

[3] ガイダンス施設でお手洗いをし、早速、城内に入る!

まずは、大手門へ!

※ 大手門:お城の最手前にくる門

[4]大手門跡

 今はもう、林になっている。遠くにV字谷のようになっているのが確認できる。これは、「堀切」という、山を意図的に削り、堀のようにして、敵の侵入を防ぐ構造である。

[5] 古道 と [7]曳橋(ひきはし)

 御主殿と呼ばれる、平時に政務をとるための御殿があった曲輪( 区画 )に行く。

[6] 御主殿の滝

 これは、大手門から古道を歩くと経路的に行けません。御主殿の曲輪を見た後で、降りる箇所があったので、そこから行く。断崖の中に、小さな滝があり、澄み切った水で滝壺が満たされていた。ただ、上の説明板にあるように、ちょっと、まずい場所なので、直接の写真撮影は控えることにした。。

[7]曳橋を渡る

[9] 虎口の中

 曳橋を渡ったところの防御区画である。北条流は、この虎口を長くとり、敵をこの狭く長い領域に長い期間引き付け、攻撃をする構造をよくとる。加えて、この勾配、、、結構、足腰に来るので要注意。

[8] 御主殿跡

 大きな御殿が立っていたことが容易に想像できる。

[8]御主殿跡2

 このような山の上に、上図のように水を張った庭園があるなんて、往時の繁栄を想わずにはいられない。

 次からは、いよいよ戦闘時の曲輪に行く。一度、管理棟までもどって、金子曲輪を目指す。と、その前に、管理棟から御主殿に行く前に、立ち位置禁止の区画があった。先に紹介した絵図をみると、そこには、観音堂というものがあるそうな。

恐らく、観音堂のある曲輪に続く橋

同じく、観音堂のある曲輪に続く階段

 ネットをみると、観音堂が今もあり、お坊さんなどが修行に来るとか書いてあるので問題なさそうなのだが、立ち入り禁止の理由が良く分からない。

[10]金子曲輪

 細長い曲輪である。メインの道と、曲輪の側面に小さな小道がある。敵をメインロードに引き付けているうちに、小道から回り込んで挟撃する仕組みと私は思っている。

[10]金子曲輪より眺める東京の街。遠くに新宿が見える

[10] 金子曲輪から小宮曲輪直下の道に至る直線的な路

[11] 小宮曲輪

シャガ がいたるところに咲いている。何だか、物悲しい。

[11] 小宮曲輪

 お堂が建っていますが、廃墟である。しかし、お堂の中には、誰が供えたのか、新品のお花がいけてあった。八王子城合戦に所縁のある方の信仰なのかもしれない。私も、供養の意味を込めて手を合わせてきました。

[12] 八王子神社

 平安時代に京都の学僧:妙行(みょうこう)がこの山で修行していると、仏教の守護神:牛頭天王 と その后:頗梨采女( はりさいにょ )がその八人の子を伴って現れた。妙行が、「その子たちは?」と聞くと、牛頭天王が「八王子です」と答えた。以来、この牛頭天王と頗梨采女、八王子を奉ったのが、この八王子神社である。

 明治以降、神仏分離令の中で、牛頭天王と頗梨采女、神道のスサノオとその姉天照の誓約(ウケイ)が同一のものと再解釈され、以後、この神社は、神道的には、スサノオと天照の誓約の儀で生まれた八人の神を奉っていることとなっている。

 尚、この地域を八王子と命名したのは、先述の北条氏照である。

[12] 八王子神社内の舞台( 荒れている… )

[12] 八王子神社内 天狗様と本丸守将:横地堅物の慰霊碑

先の八王子神社本殿横の階段を上がっていくと、いよいよ本丸である。

[13] 本丸

 小さな空間で、20人ほどの大人が入って、動き回ればちょうどよいという感じであった。

 余談だが、私の先祖も北条氏照公に仕えていたという。この八王子城合戦が行われたときは、小田原城に入っていたので討ち死にせずに生きながらえたそうな。ただ、その後、一族の一派が仏門に入ったところを見ると、八王子城や山中城での悲惨な最期を遂げた親族・仲間を弔う必然性を強く感じさせられたように思えてならないのである。

本丸を後にして、少し下ると、東京の全貌を眺められる「松木曲輪」という区画に着く。

[14] 松木曲輪 からの眺望1

 晴れた日は、富士、相模湾も見えるのだそうな。。。

[14] 松木曲輪からの眺望2

 隣の山に変な建物があるな~と思って、光学20倍ズームで見てみると、、、高尾山の展望台(=毎年ビアガーデンやる場所)でした。霊山であり、修験の山でもある高尾山で、過去悲しい歴史があった八王子城と八王子神社を下に見て、本来は、お酒なんて飲む場所じゃないなと思わされた。襟を正し、生きていきたいと思う次第である。

[その他] 湧き水

 お城の中には、時折、湧き水を見ることができる。山城なのに水が湧き出るというのは、本当に珍しい。

[その他] 綺麗に切られた石

 八王子城は、土の城の多い北条流築城術において、珍しく石垣が使われている。先の虎口もそうだが、観音堂のある曲輪も石垣が確認できた。1590年以降昭和まで幕府と政府により直接管理されていたので、石垣の多くは自然の木々により崩れたり、埋もれてしまったりしているが、たまに、こうした明らかに作為的に切られた石を見つけることができる。

[その他] 春の虫( ジョウカイボン? )

[その他] シャガ

[その他] ???

[その他] 八王子城入口交差点から管理棟までの道路脇にタケノコが売ってた。。。

 八王子城は、豊臣方の殲滅作戦がとられましたが、城内の数少ない兵の抗戦も凄まじく、攻め手だけで千人以上の死傷者が出たと言われている。しかし、数回の発掘調査では、いまだ、甲冑や遺骨などが見つかっていない。このことから、戦いの後に、徳川家が直轄化し、徹底した供養が施されたのではないかと私は思っているのである。

羽ばたく飛行模型作った

 昔、「天空の城ラ〇ュタ」というジブリ作品で、主人公の一人のパズーが、羽ばたく模型飛行機を飛ばすシーンがあった。

 これって、すごーい!と子供ながらに思ったものである。その後、月日は流れ、学生の頃に「大人の科学」という物作り系の書籍で「羽ばたく飛行機を作ろう!」という企画があり、買ったはいいが忙しくて作る暇がなかった。

 ようやく、この週末にかかることができ、分かりにくい組み立て指示書を読みながら15分ほどでできた。。。

動力は、ゴムである。

前翼は、上図のように、歯車が噛み合うようになっている。歯車の一つからは腕が伸びており、これが回転軸とくっついている。この機構により、

ゴム解ける⇒回転軸回る⇒歯車の一つが動く⇒歯車の噛み合いで、もう一つの歯車も動く ⇒ 羽が羽ばたく

という動きが実現される。ただし、上記の構造上、両翼で羽ばたくときに、歯車の間隙分のタイムラグが出てしまい、綺麗にバタフライできない。しかし、これはやむを得ない。。。

後翼は、上図のように角度をあらかじめ調整し、ロックする機構となっている。

この後、庭で飛ばしてみたのですが、3mほど羽ばたいて急上昇し落下しました。羽ばたきに対して、羽の接着が弱かったためか、材料のビニールシートが少し伸びてしまいました。涙  また、樹脂部品のバリで、運動機構の動きにやや引っ掛かりがあり、そこが羽ばたきを阻害していました。やすりでバリ取りをして、再度チャレンジしたら、5mほどまで距離を伸ばせました。面白い!

それにしても、、、みればみるほど、、

こいつや、

こいつ の飛ぶ能力を簡素に実現していると思い、感心させられました。

こういった、動的な機構を考え、作る頭を養いたいと思います。