道を行きかう人々
信号、カフェ、レストラン、病院、乗り物で待ちゆく人々
休み時間に休憩する人々
これら全ての行動をするのに、現代人はスマートフォンを手放すことができない。
これらはどういうことかというと、無料であれ、有料であれ、スマートフォンが提供してくれるコンテンツの刺激を手放せないということである。
大陸において、清朝末期、中国人の多くは、アヘンの快楽のために日々働き、アヘンに酔いしれ、日々衰え動けなくなるほど身体が侵されてもアヘンを求め、死を迎えたという。なお、アヘンの快楽を得るために、誰かにアヘンを売って金を稼ぎ、その金で自分がアヘンにおぼれたという。。何ともおぞましい時代であろうか。。。
適度な刺激は心身の健康を呼び込むが、過度な刺激は自他ともに破滅させるのである。
今、現代人はジョブズが広めたスマートフォンを、必要に迫られていないときでさえほぼ常に持ち歩き、画面を覗き込んで、情報コンテンツにアクセスしている。
これにより、既に、交通は乱れ、行きかう人々の譲り合いや挨拶といった文化もなくなりつつある。皆が利己的になりつつある。利己的になると社会規範は瓦解する。問題が起こると、自分の正義を前提として、他人を攻めるからである。
また、気軽な情報コンテンツにアクセスし、大量の情報に浸り過ぎて、主体性や感受性、創造性が著しく欠如した者たちも多く見かける。つまり、無関心・無気力な者たちが増えた。特に、学問から遠ざかっているような社会人にこうした傾向をよく見かける。。舞台をみても「踊りだ、跳ねた、泣いた、笑った、何と言ったらよいか分からない…完」、自然をみても「花だ、山だ、雲だ…完」、モノ作りをしても「なんとなく作ってみました。どうなるか分からないです…完」という具合で、見た物事を評するときに直接的な単語を述べるのが精一杯で、感情を表現したり、膨らめたり、想いやる言葉を組みたてたりすることが苦手に見える。こんな人が洒落にならないほど多い。多すぎる。
こんな世界は、明らかに異常である!そのことに我々はもう気が付かなければならない。
スマホは、本来の機能では通話、メール、SNS、カメラ程度におさえ、公共の場では基本的に使わない。待ち時間や乗車時間、休憩時間も、特に意思をもって欲しいわけでもないコンテンツにアクセスして、ただ受動的に情報を得るだけの時間を過ごしてはならない。無気力・無関心になるからである。
スマートフォンは、悪魔の道具です。麻薬です。
どうかそのことに多くの人が気が付き、自制し、元々備えている好奇心や主体性を健全な状態にし、利他的な人間性を取りもどして欲しいと願うばかりです。